つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

“向日性” と “ごきげん”

2013-08-07 23:20:00 | 日記
最近毎日はほぼ日を開かなくなったけれど、不意に開くとやっぱり糸井さんは響くことを言っていたりする。
昨日の「今日のダーリン」で、谷川俊太郎×矢野顕子×糸井重里の対談「おしゃべり夜中継」というリンクがあって、それがとてもとても良かった。

「今日のダーリン」の“たましい”の話も良かった。
糸井さんは曖昧模糊とした類の話を、ピンポイントに言葉にすることが本当に巧い。
単なるボキャブラリーの多さだけでは成し得ないセンスと技術。
時々、私の中にある何かに触れたり、ばらばらなものを結合してくれたり、不可視なものを可視化できるようにしてくれたり、“たましい”が共振したような感じを覚える。

私は3人個々に注目している方々だし、そのおしゃべりを映像として見られるのはとても興味深かった。

特に矢野顕子が言っていることが本当に良かった。
谷川俊太郎も糸井重里も、彼女の前では少し違う位置にいるように見える。

矢野顕子が言っていることは、「全部自分」ということに終始していた。

私もこんなレベルの話が、受け取り手の側面ではなく、対等にできるようになりたいと思う。
それは彼らのように、音楽を創るとか詩を創るとかコピーを創るとかではなくて、私が私の方法で。
できれば矢野顕子のような感じで。

私は彼らのことを尊敬していて、自分で自分を尊敬できるような自分でありたいと思う。

この対談の中で、「自己満足」と「自己肯定力」は違うという話があった。
表現者は、「自己肯定力」の上で表現をしていくものであると。
私はこの2つの言葉についてよく考えたことはなかったし、「自己満足」以上の満足はない、と思っていた。
まあそれは各人の言葉の定義によるところのものだけれども。

ここからは私の解釈であるが、思うに、「自己満足」は現状維持または過去の自分で丸ごとOKとすること、「自己肯定力」というのは、自分が理想とする自分に自分で近づこうとすること。
それには自分の理想とする自分、というものを知らなければならない。
どうあることを望むのか、どうなることが気持ち良いのか。
誰かがではなくて、自分が。

それはきっと「自分を好きになること、自分を好きでいること」
自分で自分を承認すること、自分で自分を受け入れること。

よく思うのが、「誰かのために生きたい」ということがあったとしたら「誰かのために生きている(気がする)自分が好きだ、納得している」ということだ。
その「誰か」がそうされて、自分が思うように本当に幸せかなんて一生わからないし、その「誰か」が転んで擦りむいた傷の痛みだって本当のところはわかり得ない。
「誰かのため」にすることも詰まるところ、「誰かのためになっているという感が欲しい自分のため」でしかない。
各事柄の度合いは確かにあるとしても。

ひとつ例外かと想像するけれど私にはわからないことは、それは親子の関係かもしれない。
しかし今のところ私は、それさえもただ「子どものために生きたい」と言うことだって本当には成り立たないように思っている。

マーシーの言うところの、「君が救われなければ世界中救われないよ」だ。

対談中に糸井重里が絶賛していた『点滴ポール』を買おうと思ったのに、まだクレジットカードが手元にない。


「もし今会えるのなら会いたい?」と聞かれて、久しぶりに人前で泣きそうになる。
「うん」と自信を持って頷くのは、絶対に会えないからだ。