短い髪は、4年前よりも自分的にしっくりきていて、毛嫌いしていたワックスもべたつかないものを選んだようで気にならず、スタイリングも非常に楽だ。
毛先の元々のパーマが、「きちんと揃った内巻きボブ」を潔く諦めさせてくれ、寝癖なのかパーマなのか本来の髪の流れなのかわからないけれど、遠目に見てなんとかなっているのではと思っている。
遠目に見てそれっぽい、というのは広い範囲の事柄において大事なことであると私は思っている。
ただ、耳にかぶっている髪が鬱陶しく暑い。
ただもちろん束ねられないし、耳にかけるにも少し短い。
部屋ではもっぱらターバンをしている。
オフィスにあった大きな観葉植物を移動させて、私の視界に緑が目に入らなくなった。
その観葉植物は振り向けばすぐに見られる位置に移動させたのだけだけれども、何の気なしに視界に入っていたことで与っていた安らぎのようなものがあったのだと、それがなくなってものすごく感じる。
デスクと窓と、無機質なそれらだけの風景は、あっちもこっちも濡れていて座れない地べたのように、居場所がなくて不安な感じがする。
動揺、という言葉を使ってもいいくらいに。
とりあえず、少しぐらついてしまって揺れている私の心臓を落ち着かせるべく深呼吸をする。
それはとても大きな観葉植物だから、スペース的にとても邪魔と思っていた人もいるだろうと思う。
しかし私は、植物の力を、花の力を、それをそれとしてただ受け取っていたものあるいは吸収してもらっていたものがあったのだとひしひしと思い知る。
この過剰とも思える私の心の動きと身体の反応によって、他人が時々白い目というか「そんな大げさな」というような目で見ているような気がする。
その他人というのは、文字通りの他人という意味もあるし、昔よく見かけた俯瞰視しているもう一人の私という意味合いもある。
“他人”から見た私は、酷く青臭くて恥ずかしい奴であることを、とても客観的に認識もできるのだけれど、ただ、その過剰さに真正面から付き合うことでしか、私が私を知ることができないようにも思う。
緑が視界から消えただけで、小一時間心許ない気分を持ち続けてしまっている私を、とりあえずそれでいいんだよとそう受け入れる。
先日家に迎え入れたクワズイモは目を見張るほどに成長が早い。
この勢いだと鉢を自ら割ってしまうのではないかと思うほど。
土があるものは虫がわいたりするのが嫌でずっと買ってこなかったけれど、植え替えたポトスがあまりにもいつも若葉色をしていてくれるのが嬉しくて、鉢ものも買うようになった。
オフィスの観葉植物の行き場がないのであれば、私が引き取りたい。
送料がとても高くつくだろうけれど、あの木を手元に置きたい。
なんだかもう既に何で早まっているのかわからない鼓動を引きずって、休日となる。
無駄な高揚状態では本も読めない。
ジミ・ヘンドリックスなんかまた聴いているものだから。
ギターを習って良かったと思うのは、今まで何からその音が作られているのか分からなかったのが、人がギターで弦を弾いて出しているのだという想像がつくようになったこと。
そこまで思考を及ばせたことがなかったのだけれど、人が、ギターで、弦を弾いて、その音を創っているというただそのことが映像として浮かぶ。
どれだけ難しいかとか、どんなに巧いかとかは、未だに全部難しいようにしか思えないし速弾きを巧いと思ってしまうくらいなものけれど、「わざわざそのような音を出している」ということくらいまでは想像ができる。
本当のところは少し置いておいて、想像は、できる。
知ることは、想像力を豊かにする。
想像力は、あらゆる面において生きていく力になる。
小石川植物園に行きたい。
毛先の元々のパーマが、「きちんと揃った内巻きボブ」を潔く諦めさせてくれ、寝癖なのかパーマなのか本来の髪の流れなのかわからないけれど、遠目に見てなんとかなっているのではと思っている。
遠目に見てそれっぽい、というのは広い範囲の事柄において大事なことであると私は思っている。
ただ、耳にかぶっている髪が鬱陶しく暑い。
ただもちろん束ねられないし、耳にかけるにも少し短い。
部屋ではもっぱらターバンをしている。
オフィスにあった大きな観葉植物を移動させて、私の視界に緑が目に入らなくなった。
その観葉植物は振り向けばすぐに見られる位置に移動させたのだけだけれども、何の気なしに視界に入っていたことで与っていた安らぎのようなものがあったのだと、それがなくなってものすごく感じる。
デスクと窓と、無機質なそれらだけの風景は、あっちもこっちも濡れていて座れない地べたのように、居場所がなくて不安な感じがする。
動揺、という言葉を使ってもいいくらいに。
とりあえず、少しぐらついてしまって揺れている私の心臓を落ち着かせるべく深呼吸をする。
それはとても大きな観葉植物だから、スペース的にとても邪魔と思っていた人もいるだろうと思う。
しかし私は、植物の力を、花の力を、それをそれとしてただ受け取っていたものあるいは吸収してもらっていたものがあったのだとひしひしと思い知る。
この過剰とも思える私の心の動きと身体の反応によって、他人が時々白い目というか「そんな大げさな」というような目で見ているような気がする。
その他人というのは、文字通りの他人という意味もあるし、昔よく見かけた俯瞰視しているもう一人の私という意味合いもある。
“他人”から見た私は、酷く青臭くて恥ずかしい奴であることを、とても客観的に認識もできるのだけれど、ただ、その過剰さに真正面から付き合うことでしか、私が私を知ることができないようにも思う。
緑が視界から消えただけで、小一時間心許ない気分を持ち続けてしまっている私を、とりあえずそれでいいんだよとそう受け入れる。
先日家に迎え入れたクワズイモは目を見張るほどに成長が早い。
この勢いだと鉢を自ら割ってしまうのではないかと思うほど。
土があるものは虫がわいたりするのが嫌でずっと買ってこなかったけれど、植え替えたポトスがあまりにもいつも若葉色をしていてくれるのが嬉しくて、鉢ものも買うようになった。
オフィスの観葉植物の行き場がないのであれば、私が引き取りたい。
送料がとても高くつくだろうけれど、あの木を手元に置きたい。
なんだかもう既に何で早まっているのかわからない鼓動を引きずって、休日となる。
無駄な高揚状態では本も読めない。
ジミ・ヘンドリックスなんかまた聴いているものだから。
ギターを習って良かったと思うのは、今まで何からその音が作られているのか分からなかったのが、人がギターで弦を弾いて出しているのだという想像がつくようになったこと。
そこまで思考を及ばせたことがなかったのだけれど、人が、ギターで、弦を弾いて、その音を創っているというただそのことが映像として浮かぶ。
どれだけ難しいかとか、どんなに巧いかとかは、未だに全部難しいようにしか思えないし速弾きを巧いと思ってしまうくらいなものけれど、「わざわざそのような音を出している」ということくらいまでは想像ができる。
本当のところは少し置いておいて、想像は、できる。
知ることは、想像力を豊かにする。
想像力は、あらゆる面において生きていく力になる。
小石川植物園に行きたい。