仕事帰りに、書道教室に向かう。
疲れていると書けないのだなと思い知る。
体力レベルMAX100のうち、特段何事もなかった日でも仕事終わりはレベル40くらいであって、レベル40では全然書けない。
魚が脂がのっておいしくなるように、何かを創るにはいつもに増した脂や潤滑油のようなものも必要で、疲れているときは本当に脂がのらない。
ちなみに、体力的な意味だけでなく、精神的に疲れていても書けない。
と言っても、精神の高みでないと書けない、という類のものでもなくて、それなりに書きたい気持ちがあればそれはそれでよい。
実際に、大きな紙を広げて中腰のような体勢で書き続けるその実質的な体力の影響の方が大きい。
私は体調は滅多に崩さないけれど、体力が底なしのタイプでは全然ないので、体力がMAXなのは前日よく寝た土曜日か日曜日、何もせずに一日時間を過ごした夜くらいなものである。
ちなみに、バックミュージックはパンクロックもしくは奥田民生、真心ブラザーズあたり。
BOOWYもBEAT CHILDの予習で借りてみたけれど、これも書道をするのにちょうど良い。
あとよく思うのが、満腹も全然だめだ。
お腹が空いているときの方がよい。
できれば飢餓状態の方が良いくらいだ。
ロックンロールは、お腹いっぱいでなお満たされないという飢餓感から生まれる、と言ったのは誰だったろうか。
私にとって書道がロックンロールであると言っているわけでは毛頭ないけれど、私もこのことについては非常に体感としてよくわかる。
ロックという言葉は、反発や反骨、現状からの脱却、のようなイメージが先行しがちだと思うし、そういうものから生まれているという側面も確かにある。
しかし、私が体験したことも、私がロックだと思うものも、周りの人や環境への直接的な反発というよりかは、自分の中の飢餓感が満ちたとき、あるいはそれに気が付いたとき、を表現しているものが多いように思う。
それが社会通念や常識と言われることと異なることも多く、アンチ社会の立場と見られがちだけれども、決してアンチの立場ではなくて、比較でなく己を正としているだけということなのだ。
私は最近自分が一番最初にロックに触れたときの感じを、ダチョウやエミューの卵をトンカチでかち割られたような、という表現が最も良く形容しているような気がしている。
分厚くて丈夫なエミューの卵の中にいたのは、赤剥けのエミュー、ではなくて私。
ロックンロールは、陰の中の陽だけではなく、陽の中の陽も成り立つ。
ついでに言うと、陰の中の陰もたぶん成り立つ、と言うかそこまでいくと似通ってくる気もする。
陽の中の陰だけはイメージがない。
食べるのに困らず、寝るのに困らず、体調が悪いわけでもなく、何とか仕事もしていて、家族がいて友達がいて、趣味まであって、生きることに脅かされてないどころか、どんなに充実しているだろう。
これは別に私がロックンロールに触れる前から、およそずっと満たされ続けていることだ。
しかしそれでも私はロックンロールに落ちてしまったようだし、それに触れてしまってからあらゆる思考指針や行動指針が変わってしまった。
満腹の飢餓感は、おそらく定常的に満たされることは死ぬまでなくて、その満足の瞬間を得るために手を伸ばし続けるのだと思う。
だからこそ、この人ロックだなと感じる人には、大きなおおきな孤独も同時に見るし、その人たちが創ったものに圧倒的な切なさのようなものが滲んでしまうのだと思う。
でもそれは本人がひっくり返したところで悩みにはならなくて、何かをする原動力以外には働かない。
しかしながら、改めて「ロックンロール」という言葉の意味をウィキペディアなどで調べてみると、アメリカ文化(特に音楽)の象徴としての説明が多くて、私の持っているロックンロールの概念と結構違っている。
私の持つ「ロックンロール」の概念を説明しようと思えばできないこともないのだけれど、それを極めて的確に表現することは今の私にはできない。
「ロックンロール」のど真ん中の概念を説明する理解も術も持ち合わせていない。
こんなにも「ロックンロール、ロックンロール」と、連発するようになった。
最近そんなことばかり考えている。
もはや私の心の中心にある。
疲れていると書けないのだなと思い知る。
体力レベルMAX100のうち、特段何事もなかった日でも仕事終わりはレベル40くらいであって、レベル40では全然書けない。
魚が脂がのっておいしくなるように、何かを創るにはいつもに増した脂や潤滑油のようなものも必要で、疲れているときは本当に脂がのらない。
ちなみに、体力的な意味だけでなく、精神的に疲れていても書けない。
と言っても、精神の高みでないと書けない、という類のものでもなくて、それなりに書きたい気持ちがあればそれはそれでよい。
実際に、大きな紙を広げて中腰のような体勢で書き続けるその実質的な体力の影響の方が大きい。
私は体調は滅多に崩さないけれど、体力が底なしのタイプでは全然ないので、体力がMAXなのは前日よく寝た土曜日か日曜日、何もせずに一日時間を過ごした夜くらいなものである。
ちなみに、バックミュージックはパンクロックもしくは奥田民生、真心ブラザーズあたり。
BOOWYもBEAT CHILDの予習で借りてみたけれど、これも書道をするのにちょうど良い。
あとよく思うのが、満腹も全然だめだ。
お腹が空いているときの方がよい。
できれば飢餓状態の方が良いくらいだ。
ロックンロールは、お腹いっぱいでなお満たされないという飢餓感から生まれる、と言ったのは誰だったろうか。
私にとって書道がロックンロールであると言っているわけでは毛頭ないけれど、私もこのことについては非常に体感としてよくわかる。
ロックという言葉は、反発や反骨、現状からの脱却、のようなイメージが先行しがちだと思うし、そういうものから生まれているという側面も確かにある。
しかし、私が体験したことも、私がロックだと思うものも、周りの人や環境への直接的な反発というよりかは、自分の中の飢餓感が満ちたとき、あるいはそれに気が付いたとき、を表現しているものが多いように思う。
それが社会通念や常識と言われることと異なることも多く、アンチ社会の立場と見られがちだけれども、決してアンチの立場ではなくて、比較でなく己を正としているだけということなのだ。
私は最近自分が一番最初にロックに触れたときの感じを、ダチョウやエミューの卵をトンカチでかち割られたような、という表現が最も良く形容しているような気がしている。
分厚くて丈夫なエミューの卵の中にいたのは、赤剥けのエミュー、ではなくて私。
ロックンロールは、陰の中の陽だけではなく、陽の中の陽も成り立つ。
ついでに言うと、陰の中の陰もたぶん成り立つ、と言うかそこまでいくと似通ってくる気もする。
陽の中の陰だけはイメージがない。
食べるのに困らず、寝るのに困らず、体調が悪いわけでもなく、何とか仕事もしていて、家族がいて友達がいて、趣味まであって、生きることに脅かされてないどころか、どんなに充実しているだろう。
これは別に私がロックンロールに触れる前から、およそずっと満たされ続けていることだ。
しかしそれでも私はロックンロールに落ちてしまったようだし、それに触れてしまってからあらゆる思考指針や行動指針が変わってしまった。
満腹の飢餓感は、おそらく定常的に満たされることは死ぬまでなくて、その満足の瞬間を得るために手を伸ばし続けるのだと思う。
だからこそ、この人ロックだなと感じる人には、大きなおおきな孤独も同時に見るし、その人たちが創ったものに圧倒的な切なさのようなものが滲んでしまうのだと思う。
でもそれは本人がひっくり返したところで悩みにはならなくて、何かをする原動力以外には働かない。
しかしながら、改めて「ロックンロール」という言葉の意味をウィキペディアなどで調べてみると、アメリカ文化(特に音楽)の象徴としての説明が多くて、私の持っているロックンロールの概念と結構違っている。
私の持つ「ロックンロール」の概念を説明しようと思えばできないこともないのだけれど、それを極めて的確に表現することは今の私にはできない。
「ロックンロール」のど真ん中の概念を説明する理解も術も持ち合わせていない。
こんなにも「ロックンロール、ロックンロール」と、連発するようになった。
最近そんなことばかり考えている。
もはや私の心の中心にある。