つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

模造紙ですか

2013-08-30 01:28:48 | 日記
眠れない、という話を時々周りの人が言っているのを聞くことがある。
「寝る前にホットミルクを飲むとよく眠れるらしいよ」などと軽々しく発言ができないタイプの"眠れない"だ。
寝るためにランニングをして体力を消耗したり、寝る前にスマートフォンなどの光を見ないようにしたり、寝つきに悪そうなでも大好きなジャンクフードを止めてみたり、本人的な努力はとてもしているらしい。
また、せっかく寝られたとしても途中で何度も目覚めてそのまままた眠れないと言う。
朝まで寝つけなかった日には、一日中今晩どうやって寝ようかということを考えてしまうと言う。

お酒を飲んで酔っ払ってもそのまま寝付いてしまうことがなく、乗り物で寝ることもない。
幼い頃の方がもっと酷く、例えば友人宅に泊まりに行ったりすると一睡もできなかったらしい。

ちなみに時間がもったいないということをよく感じるようで、どこか旅に出ると、朝6時から深夜0時くらいまでの行動予定をびっちり組んで走って移動するくらいなのだと言う。

眠れないのは体質と恒常的な緊張状態がそうさせるのだと思うけれど、何に対する焦燥感や不安感なのか、あるいは何が欲しいのかを知ることで多少改善できるのではと思う。
もっとも体質的なものはそれだけで良くなるものではないとは思うし、それに例えば欲しいものが分かったとしたらもっと覚醒してしまう可能性もあるけれど。
あとは、どんな方法であれ交感神経を鎮める方法を知ること。
と言ったところで、副交感神経が優位なタイプの私が言っても説得力が極めて乏しいが。

私は眠りに困ったことは短期的な1日2日といった単位以外ではない。
その1日2日だって1~2時間寝つきに時間がかかった、あるいは、夜中に目覚めて少しの間覚醒してしまった、ということ以外は本当に経験がない。
どうにも嫌なことがあっても、本来の意味ではなく文字通りの「泣き寝入り」ができてしまうくらいだ。

これは幼い頃からそうだ。
ただ、眠れないことが稀であるから眠れなかった経験というのは結構印象深いらしく、よく記憶に残っている。
保育園のお昼寝のとき、たまたま寝付けなくて、お昼寝風景を撮影していた先生が私にカメラを向けたのを見てぎゅっと目を閉じたところを撮られた。
しまった撮られてしまった、しかもぎゅっと目を瞑って、と何がいけないのかもわからないままどぎまぎし続けたことをよく憶えている。
あと、なぜかよくわからないけれど、地震が来たらどうしようとか泥棒が入ってきたらどうしようと突然ものすごい恐怖に襲われたことがあってその夜は朝が来るまで眠れなかった。
やっと朝が来た、と陽の光に恐怖が終わったことに心から安堵していた。
しかしこれも単発的なもので、何日も続いていたわけでは全然ない。

その眠れない人は、寝る前に浮かんでしまう考え事のせいで眠れないと言っていた。
私も夜に色々と考え事をするのだけれど、その考え事は温いお湯が染み込むように眠気に浸され、やがて支配されて、うつろな状態で輪郭を失った考え事の芯がどこかを彷徨い・・・としているうちに寝てしまう。
読んでいた本が面白くて眠れなくなってしまったこともないし、スマートフォンで動画を見て興奮しても、次の瞬間に眠れる。
特に病的に眠ってしまうこともないけれど、電車やプラネタリウムはおろか映画館でも寝てしまう。

でもひとつあるのが、誰かといると眠れない、という経験は幾度かある。
誰といても眠れないわけでは全然なくて、思い浮かぶ人を考えてみると、私はその人に対して気を使っていて私が自然でいられない人なんだなと考え当たる。
いつもと違うベッドや枕で寝つきが悪くなったと思っていたシチュエーションも今思えばこれが原因だったように思う。
その人が好きとかそうでないとかをさておき。

私が眠れない人について、何かをしてあげることはできないけれど、気持ちよく寝られるようになるといいなと切に願う。
私のように眠れる人は、悩みのない全くの楽天家であると受け取られてしまうことがある。
まあでも少なくとも眠りについて悩みがないことはその面ではとても楽であるから、そう思われてもいいかと思う。

私の中にある大きな何か、というものは私の中である程度明確化してきていて、抑揚やジェスチャー込みであれば何割か、何となく言葉で誰かには伝わるかもしれない。
ひとつは先日書いた手紙のようなことであるし、その奥なのか先なのか、というようなこと。
誰かに私を分かってほしい、と思うけれど、それが非常に難しいことと、おそらくそれで終われないだろうということも想像がつく。

時々、不意にそのブラックホールを目の当たりにして息を飲む。
時々、自らそのブラックホールを覗いて仰け反る。

私は、嘆きや悲しみや淋しさと引き換えに笑っているわけではない。
本当に楽しいときに、本当に面白いときに笑っているだけだ。
本当にただそれだけだ。

抗うことを原動力に輝きたいわけでも全然ない。
それは違う。

喜びや楽しみと、ブラックホールとの関係は極めて独立的である。
しかしながら、完全な独立ではないこともまた真である。