つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

狙う無造作、ゆるふわ計画

2013-08-21 01:12:47 | 日記
忌み嫌うものがある。
その忌み嫌うものを目の前にすると、私は自分が小さな人間に思えてくる。
自分が冷たい人間に思えてくる。
自分が太い中枢をぶちきったタイプにさせられる。
ぐるぐる回っていつも落ち着くところがなくて、少しバランスを欠く。

私の内部のことではないし、本当は私には大したことではないはずで、私の核に影響し続けるかというと全然そうでもない類のことだ。
しかしながら、残念なことにそのような類のことに著しく腹を立ててしまう私がいるのである。

今の私の地雷のひとつはこれである。

でもたぶん、そのことから頭を切り離して腹を立てないようにしないことが私には難しいように思う。
それは考え方とかもっと言えば生き方にも関わってくるような内容であるから、それから逃れるには物理的に離れないと無理なのだ。
私にとってそのくらい、そうでないこと、が重要なことなのだ。

フジロックのときも、友人とこれについて私はビールでぱあっとなった頭で噛み付いていた。

自分がすり減ってしまうもの、自分が小さくなってしまうもの、自分が押さえつけられてしまうもの、そういうものは自分の手で取り払わなければならないし、自分の足で遠ざからないといけない。
しかし、その大したことではないはずのことで、そんな労力かけて取り払ったり遠ざかったりしなくてもいいと思ってきたのだけれど、私は長らくこのことで怒っているのは確かだ。

でも、どんな側面を切ってみたって、大したこともなければ深さだってなくて薄っぺらい。
そうでないこと、の重要性など、逆説的に知らなくても、それくらいはもうわかっている。


代官山とか表参道は、とても洗練されている。
洗練されているということは、色々なものが淘汰され選ばれしものたちで形作られている。
余分なものが削ぎ落されて、余分なもので作られているようにも思う。

余分というのは、要らないときもあるけれど、それが少しの楽しみになるものでもある。
はみ出たところの、おまけ的楽しみ。
怖気づかずにその楽しみは享受する。

私はわざわざひとりで行くことはない。
でも代官山や表参道が良く出てくるELLE DECORやNUMEROの世界観はとても好きだし、実際にそのような感じを家に取り入れたりもする。
もらった雑誌を見て、色とデザインに興奮したりもする。
衝動収まらず買ってしまったりもする。


牛肉も赤ワインもそうだけれど、にんにくもたくさんは身体に堪えるということが良く分かった。
と言っても、牛肉も食べるしワインも飲むし、ガーリックなものも食べる。
食べ過ぎはどれも良くないとそういうことでもある。
良過ぎる牛肉とか、重たい赤ワインとか、アヒージョとパンとか。



そんなのちっとも面白くない

2013-08-20 00:24:16 | 日記
日曜日に作った茄子とピーマンの焼き浸し。
作ったものはその場で、浸け置いたり寝かしたりしない、というのが常だったけれど、一晩冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた。
生姜があったらもっと良かっただろうけれど、味の染みた茄子とくたくたでなくシャキッとした苦味のピーマンはなんともおいしかった。

ついでに作っておいた、えのきだけとわかめの和え物。
和え物と言っても私はお酢が好きではないので、ごま油と昆布茶と塩と醤油で和えた。
こちらはたぶん乾燥ワカメではなくて生のワカメを使った方がおいしいのだろうと思った。
ただ、乾燥していてはいけないけれど水っぽくてもよくない。
醤油が要らなかっただろうか。

最近よく昆布茶を使う。
結局のところ、旨みがダイレクトに伝わるものはおいしいとなる。

どうしてもジャスミンライスが食べたくて、見に行くスーパーの先々で探していたのだけれど見つからない。
仕方がないので送料がかかって割高も承知でネットで注文する。
いくらジャスミンライスが好きだとは言え、一人暮らしで5kgも常の主食にならないジャスミンライスを買うわけにはいくまい。
1kgのパックを元値と同じくらいの送料を支払って買う。

宅配ボックスがなくて受け取れないので、本人受け渡しが必須のもの以外で邪魔になり過ぎないものは玄関先に置いてもらうようにしている。
それでも不在票が届いてそのようにしないといけないので、受け取るのは1,2日遅くなる。

缶詰のグリーンカレー、レッドカレーがあって、それと一緒に食べるのが楽しみだ。


やっと復活したカードで「点滴ポール」が届いた。
想像し得ない苦しさや痛みの中に、本人の言葉遣いのセンスの良さと、思いの本当具合。

くるしいも波
かなしいも波
たのしいも波
うれしいも波
だから漕ぎ続けてる


揺蕩う波というのは、私の中にも"気持ち"、"からだ"、"人生"、"人間関係"というようなことにおいてとてもイメージがある。
波は通り過ぎる、大きな波も小さな波も。

舵取りは自分でやる。
かなしい波やくるしい波は、必死で漕いであるいは時にかわして抜ける。
たのしい波やうれしい波は、波の勢いを使って大いに飛ぶ。

もしかすると、作者のかなしい波やくるしい波はかわせるものではなかったかもしれないけれど。
それでも、たのしいもうれしいも感じて、そうであることをありがたく思い感謝する。

人は色んな意味で平等ではない。
でも、そのことに留まるわけにもいかない。
ないものねだりは何かを突き動かす原動力になり得るものだと思うけれど、そこからどう動いたかで得られるたのしいやうれしいを大事にしたい。

でもそこに、不平不満や弱音や本音を言えるような相手がいたら、それはとても豊かなことだ。
いつもは強がっているから。

この作者の「航の SKY NOTE」というブログがある。

SKY NOTE
広くて、遠くて、大きくて。
でもそこには自分がいて、自分で描く。

素敵な言葉。



魅惑の青に吸い込まれない

2013-08-18 01:04:25 | 日記
大量にCDを借りて、ギターを弾きながらそれらをiTunesに取り込む。

「さすらい」のコードを追っているのだけれど、どこかのHPにも書いてあったように超初心者には難しい曲である。
「ギターの弦は6本なんですか」「爪が長いとギターは弾けないんですか」というところから始まって、半年以上経過する。
左手は力が要るし、右手は弱く弾かなければならず、ほんの少しも間違えて押さえたり触れたりしてはだめで、一通りの簡単なコードと、少しだけ耳コピと1本ずつ音を鳴らすこと、ペンタトニックという便利な音階のこと、そのようなことが何となくわかった。
何曲かはコードでそれなりに弾くことができる。

sus4とか7はまあわかる。
それに、コード表を見てもそれらはオーソドックスなものなので載っている。
D on Gとか、Em on Gとか、ルート音を変更するものは載っていないので自分で考えないといけない。
考えれば何とかわかるのだけれども、押さえ方も含めて非常に時間がかかる。
ああもういいかと、そのままDで弾いたり、Emで弾いたりする。

やっぱりソロが弾けるようになりたいけれど、耳コピが私には難しいようだし、ソロをやるにはまだ知らないことが多すぎるような気もするので引っ越して休んでいたギター教室にまた行こうかと思う。
理論も大事だし理解に至ればとても役立つけれど、その理論のいろんな要素が含まれている曲で1つ課題曲を決めて、それと同じようにやってはもらえないだろうか。

ちなみに、セーハとバレーコードが同じことであるということを最近知った。
そして、「セーハ」は「制覇」だと思っていたのだけれど、「ceja」という西洋語であることを今知った。
「西洋語」とは何だということはさておき、私は今まで「ギターの弦を全部押さえる=制覇する」から「セイハ」なのだと思っていた。
ギターの上に立って物を言っているような、高飛車で恥ずかしい言葉だなと思っていてなかなか自分で言うことをしなかった。
恥ずかしいのは私だった。


「ロックバンド 洋楽」などで検索して誰かが薦めている有名なバンドやら、友人に聞いたアーティストやら、カフェで流れていたバンドやら、フジロックの名残の歌手やらをレンタル限度枚数まで借りる。
私は借りたCD全部聴けているのかが心配である。

イーグルス
Char
AC/DC
ザ・スミス
荒井由実
西城秀樹
リンキン・パーク
ピンク・フロイド
ディープ・パープル
ザ・ドアーズ
Chara

とりあえず1回は聞こうと、備忘録。
とりあえずCharを聴いてみると案外女々しい感じが多くして、私の言う“男子感”とはある女々しさ、それは男が無防備になるときの気抜け感、を含んでいるのかもしれないと思った。

物はたくさん持たないことを良しとしているけれど、精神活動にスパークを起こしたり襞を与えたりするには、数を当たらなければならない。
しかしながら結局のところ、私のiPod shuffleにはブルーハーツとハイロウズ、クロマニヨンズ、グリーンデイ、オアシス、真心ブラザーズ、奥田民生などの抜粋曲が入っていて、出先ではずっとそれを聴いているのだけれど。


仕事以外のことにおいて、人に何か言動を押し付けられることが酷く嫌である。
仕事については何もかも決めてもらっても構わないという気すらしてしまうが。

私は各々が独立した上で求め合う人間関係が欲しい。
それはとても稀有なことかもしれないし、ある冷たさを持っているのかもしれないし、確固たる信頼が双方に必要なのだと思うけれど。

私が持っている品の無さのようなものが、自ずと出てしまうような関係は私は単純に気持ちがいいということは、それはそれでひとつある。


パステルカラーのシャインピンクのマニキュアを塗ったら、ものすごく似合わないことに驚いて、こうなったら遊んでみようと星のネイルシールを張る。
キッチュな感じは好きだけれど、キッチュはぎりぎりのバランス感が必要になる。
星のシールも難しいけれど、それよりも地の色のパステルシャインピンクがダメなようだ。

何とも言えない失敗作になってしまった。
PCのキーボードをタイピングする指は視界の中。
失敗とは言え、一週間は付き合う。



業、闇、欲深、孤独、ジャンキー、ロック

2013-08-15 14:40:26 | 日記
何にも予定がなくて、何となく取ったお休みの日。

珍しく家に金麦を買って帰った前日。
一本飲まないうちに動けないくらい回ってしまって4時までソファとスツールに橋渡しになって寝てしまう。

朝、家のチャイムで目が覚める。
ようやく、本当にようやく、クレジットカードが再発行を終えて手元に届いた。
これで財布紛失から約一ヶ月。
私の生活、ひと安心。

見残していた矢野顕子&谷川俊太郎&糸井重里の夜中継。
矢野顕子のシューベルトの再発見の話にぎゅうっとなる。
その話のシューベルトのくだりにぎゅうっとなったわけではなくて、矢野顕子本人がそういう体験をし続けていることに。
喜びは悲しみを凌駕する。

ところであそこで谷川俊太郎が言っていた詩における「感動」の話は、音楽における「構造」の話と同じなのだろうか。
という意味で矢野顕子のシューベルトの体験は「感動」ではなく、「感情」と言ったのだろうか。

ピザトーストを作ってコーヒーを淹れて。
映りの悪いテレビを消して、何にしよう、ちょっと久しぶりにグリーンデイ。

シーツをはがして洗濯機に放り込む。
それを終えたらカーテンも洗いたくなって、4枚のカーテンを外して2回目の洗濯をする。

窓を全部開け放って、夏空と夏の銀杏。
部屋に干したシーツとカーテンから薄っすらと柔軟剤の香り。

暑いのがとても心地の良い夏の昼下がり。
クーラーなんて要らない。
暑いのがいい、生ぬるい風に吹かれたい。

夏はいいなあ。
そうそう、私、夏が一番好きなんだった。

近所の花屋さんに出向く。
仏花で埋め尽くされた店内から、ピンクの百合と色とりどりのガーベラ4本。
ほんとは3本だったのだけれど、1本おまけしてくれた。

近くのコーヒー屋さんにも立ち寄る。
酸味がなくて苦味が強くてコクがあるのはどれですか、と聞くと、東ティモールかブレンドならイタリアンローストと聞く。
東ティモールにする。

玉ねぎやらピーマンやらを切っていると包丁の切れなさが際立つ。
道具は良いに越したことがない。
安い道具が悪いわけではないけれど、高いものには良いものが多い。
よく使う道具は、お金を出しても良いものを買った方が良い。
ストレスが軽減されるどころか、使う度に嬉しさを味わえるような。

良い包丁、良いおろし器、良いフライ返しがキッチン周りでは欲しい。
どれもこれまでに高価良質なものを使ったことはなくて、今使う度にストレスをかんじるもの。

明日の朝は、東ティモール。



プールで逆立ち

2013-08-13 22:29:38 | 日記
脳天を突くようなおいしいものが食べたい。
それを自分で作ってみたい。

喉が覚えているような、手触りがあるような、その場の空気ごと覚えているような、そんなしみじみおいしい料理が作りたい。
一汁三菜じゃなくていい、それだけでただおいしいもの。

と、なぜか思い立った。
いつもフライパンひとつで炒めるが基本の私は、IHになって炒め物がままならないことで、でもキッチンの大きさは倍以上になったということもあって何か料理をしたくなった。

おいしい経験、というのは必ずしもその素材の良し悪しや料理の腕だけで決まるものでもなく、そのシチュエーションやその時の気分や体調にまで左右される非常に難しいものである。
「今まで食べたものでおいしかったのって何?」とつい最近友人に聞かれて、「寒い冬の買い物帰り、妹と屋台で買った肉まん」と答えた私。

でも今私が言っているのはそういうことで、全部まるごと込みでおいしい、という経験をしたい。
高級中華レストランでフカヒレを食べておいしい、という経験も、高級中華レストランだからおいしいというアドバンテージを一切抜きで、もし本当にそうだとしたらそれを言えるようになりたい。
高級中華レストランのフカヒレだからおいしいわけでもなくて、かと言って、それを高級中華レストランのフカヒレも春雨もどうせ違いなんて分からない、とそもそもを試さずに投げ捨てることもやめたい。

スタンダードもミーハーも要らない。
でも、スタンダードもミーハーのことも知りたい。
何の理由もなく、マクドナルドなんてと毛嫌いしている場合ではない。

たぶん私は今のところフカヒレは食べたことがないような気がする。

普段の私の料理はだいたい全部が目分量であるし、味塩コショウやめんつゆやほんだしなどの調味料に頼ることも多々あるし、胡椒やワサビが好きで少し多めに入れてしまうしで、別に不味くはないけれど特段おいしいということもない。
たぶんものすごく味が偏っていると思う。
時々、このように思い立って、短時間合理的を越えて料理に手間をかけることがあって、そのときはやっぱりいつもよりおいしいものができる。
もっとああすればよかった、というふうに思って翌日にまた同じものを作ったりもする。
でもそこで大抵材料が切れてしまうので、ベストを見つけることもなく忘れてしまう。

まずIHコンロを手なずけるところから始めないといけない。
火で煽らなくてもいいもの、煮込み系やスープ料理がいいだろうか。
でも、火で煽った方がおいしそうな料理の方が食べたいような気もする。

続くだろうか、続かない気もする。
そのくらい私は料理にかける時間や、材料をこねくる習慣がない。

でもまあ、思い立ったときにやればいい。

U2がかっこいい。
調べてみると、オアシスのノエルギャラガーとU2のボノは親交があるらしく、色々と記事が出てくる。
2人の感じは確かに似ている感じがある。
JAMも私はすごく好きだけれど、JAMのポールウェラーもノエルギャラガーと親交があるらしい。
ちなみに、ノエルギャラガーはRADIOHEADのトムヨークとの記事も多い。

洋楽ロックを聴き始めた頃、その音が「正であるか負であるか」」という判断をよくしていて、「正」であるものしか受け付けなかったことがあった。
この頃、大雑把に言って、USロックはよくてUKロックは好きになれないということにしていた。
たぶん、その頃にU2を聴いていたとしたらただ何となく「負」である位置づけをしてそれ以上に取り入れることをしなかったかもしれない。

表面的な露出物をそのままに受け取ることも大いに大事だけれども、その解釈の術不足で聴けるものも聴けないとしたらやっぱり良いものとの接する機会を失ってしまうように思う。
そこにものすごい私を震わすものがあるかもしれないのに。

あれも好きで、これも好き。
それもいい。
あのとき嫌いだったけれど、今はすごく好き。
それもいい。
認めたらいい。

ただ行き過ぎて、コーラに大福とかみかんにコーヒーとか、そういうことでももちろんなくて。
太い中枢を断ち切るのかというと、もうそれは本当に嫌で。

私の舌が、私の脳が、私の心が、喜ぶということをただしたいだけ。