「自筆譜が残っていない曲全てが新作」とは言い切れないが、自筆譜が残っていない曲の大半は「出版構想」を練ってから手を付けた可能性が高い。Ms.43 が 1821年8月日付、「オリジナル舞曲集」作品9出版が1821年11月29日。作品18出版が1823年2月5日。
と考えられる。この期間に作曲された大作を挙げてみよう。
の4作品がある。壮観な顔ぶれである。順番は「作曲完了 または 放棄された時期」で並べた。
オペラ「アルフォンソとエストレッラ」はシューベルトにとって『最も意気込んで作曲されたオペラ』の1つ。私高本は「シューベルトオペラの最高傑作」と思う。アバドは「フィエラブラス」が最高傑作と明言しているが。
1820年はシューベルトにとって画期的な年の1つとなった。
とオペラが舞台に掛かったのである! 『オペラ作曲家として飯を喰って行ける!』とシューベルトが期待に胸を膨らませていたことは、手紙からはっきり読み取れる。そして次に作曲したのが「アルフォンソとエストレッラ」D732 である。友人ショーバーの台本で、ショーバー宅に寝泊まりして「台本ができると即作曲」と言う流れ作業で極めて集中して作曲された。「オリジナル舞曲集」は、「アルフォンソとエストレッラ」作曲以前に完成稿が出来上がっていたと考えるのが妥当であろう。つまり、1821年9月21日以前に「作品9」は完成していたと考えられる。
すると、1822年2月27日までは「作品18」完成稿には手を付けていないと推測される。
「未完成」交響曲D759 は、「さすらい人」幻想曲の作曲依頼が来て作曲中止された。1822年10月30日に「未完成」作曲開始、「さすらい人」幻想曲同年11月作曲開始、翌1823年2月24日出版。1822年12月7日のシュパウン宛の手紙では「完成した」と明記されているので、12月6日以前には完成している。この時期(1822.10.30-11)も作品18に手を付けた可能性は極めて低い。
この間に完成されたのが、ミサ曲第5番D678 であり、1822年9月である。3年かかりの大作と言うのは、シューベルトではこの1曲のみである。ミサ曲に限らず、オペラや交響曲でも他には無い。
作曲が中断された主な理由は、
が原因である。オラトリオ「ラザロ」と、オペラ「サクンターラ」から交響曲ホ長調の4作品の合計5作品は完成されていない。つまり、
である。理想を求めては行き詰まりを繰り返していた時期であり、シューベルト作風が「大きな作品」になって行く最初の時期に当たる。(名作自体は初期作品にも数多い。)
先の「1822年12月7日シュパウン宛の手紙」にこのミサ曲の完成についても明記されているので、わずかな箇所が1822年に作曲されたのではなく、多くの曲が1822年に作曲されたと推測される。
このどれかの期間に作曲されたのかは断定はできない。
別の面から見てみよう。シューベルトが生前出版した舞曲集一覧である。
全て「11月下旬~2月前半」に集中している。そう、ウィーンは「冬がダンスシーズン」だからだ!
1822年8月以前に作曲された可能性は、他の出版舞曲集と比べた時に極めて可能性が低いと考えられる。出版まで期間が空きすぎていて「時期遅れになりかねない」2月に出版されているからだ。
さらに「作品18」以外の舞曲集は、11月~1月に出版されている。「作品18」だけが「2月」に遅れているのだ。私高本は「ウィーンの冬がどれだけ寒くて、ダンスシーズンがいつまでか?」は正確には知らないが、『冬 = ダンスシーズン』で、新年前後に最も華やかな舞踏会が開催される、とニュースでは見聞きしている。
「作品9」が 1821年8月~9月構想作曲 → 11月29日出版 なので、2ヶ月程度あれば、出版社は印刷&販売に余裕があるようだ。楽譜が込み入った「さすらい人」幻想曲1822年11月作曲開始1822年12月6日前に作曲完了 → 1823年2月24日出版 なので、曲数は多くとも楽譜制作が楽な舞曲集ならば2ヶ月のスケジュールを立てたいだろう。1822年8月に出版社ディアベリが楽譜を受け取っていたならば、「ダンスシーズン開始前」の11月に出版した可能性が極めて高い。
10月29日までに楽譜を受け取っていたら、11月には間に合わなかっただろうが、12月末 または 1月初には出版したと推測される。 新年の出版は「作品33」「作品77」「作品91」と3作品もある。全作品「出版用の署名入り自筆譜が存在しない」ので断定はできないのだが。
とても興味深い資料が D145 には残されている。
の存在だ。おそらく次の順序になるだろう。
「ワルツ」と「レントラー」を作曲終えて(?)、退場行進曲であるエコセーズを選択している際、どうしても取込たかった曲がこの曲のようだ。
Ms.29 よりも アーティキュレーション が緻密に書かれた Ms.48。出版時には「テンポが倍速くなった ロ短調の8小節版」となった。そこまで改変してまでも出版したかった名作なのだ!
状況を丁寧に洗い出すと、「作品18」の構想&完成版作曲時期はどうも出版直前ぎりぎりだったようだ。
がおそらく99%くらいの確率で正しい。忙しかった理由は「未完成交響曲」作曲 → 「さすらい人」幻想曲依頼を受けて作曲である。やきもきしたディアベリは「さすらい人」幻想曲出版前にこの「12のワルツ、17のレントラー、9のエコセーズ」を出版している。彫刻師が「楽」なこともあるが、それ以上に「ダンスシーズンに間に合わせたい」意向があった、と推察される。時期遅れに成りかねない時期だったからだ。
この「作品18」までをシューベルトは「何も考えずに」ディアベリから出版した。ディアベリに「いいようにふんだくられた」ことを理解したシューベルトは、次の作品(= 作品20の歌曲集)から、『ザウアー=ライデスドルフ社』と契約して出版を開始する。「作品21」出版のわずか2ヶ月後の1823年4月10日に出版されている。楽譜を渡したのは「作品18」出版頃なのだろうか?
「作品18」は「世間の嫌な駆け引き」を知らない最後の瞬間に作曲された作品である。もう1回振り返ってみよう。
と言う豪華なラインナップ! 「作品18」の位置付けはシューベルト自身にとって極めて高く、5年前の名作を1度ならず2度も手を入れて出版に漕ぎ着けたのだ!!
D番号 が飛んで D678, D145 が入っているのが嫌でも眼に付く。
この稿の最後に、『シューベルト作品カタログ旧版(1951)』に登場願おう。
つまり
のである。ドイチュ は、「作品の着手時期」でドイチュ番号を決めた。
が標題である。この舞曲集の「2番トリオ」が D145/W9 である。別の舞曲集に収められた1曲を転用しただけである。ドイチュ は「作品着手時期」をできる限り早い時期でドイチュ番号を定めた。舞曲集が最もわかり難い曲集であり、できる限り多くの時期を「D番号で参照せよ」と明記しておいた。『新シューベルト全集 作品主題カタログ = 新版』は、この記述を大巾に削減してしまい、実際に『新シューベルト全集舞曲集I(BA5529)』を購入して、しかも目次でなく、楽譜全部に目を通さないとわからないようにしてしまった。(個別曲にD番号は振られているだけ!)これでは、使い難い。「次回のシューベルト作品主題カタログ」では、ドイチュの方式に是非戻してほしいモノだ。
作品18は、広く見積もって 1821年12月~1823年1月の構想
と考えられる。この期間に作曲された大作を挙げてみよう。
- オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 1821.09.20-1822.02.27
- ミサ曲第5番変イ長調D678 1819.11-1822.09
- 交響曲第7番ロ短調「未完成」D759 1822.10.30-
- 「さすらい人」幻想曲D760作品15 1822.11
の4作品がある。壮観な顔ぶれである。順番は「作曲完了 または 放棄された時期」で並べた。
オペラ「アルフォンソとエストレッラ」はシューベルトにとって『最も意気込んで作曲されたオペラ』の1つ。私高本は「シューベルトオペラの最高傑作」と思う。アバドは「フィエラブラス」が最高傑作と明言しているが。
1820年はシューベルトにとって画期的な年の1つとなった。
- オペラ「双子の兄弟」D647 1820.06.14上演
- オペラ「魔法の竪琴」D644 1820.08.19上演
とオペラが舞台に掛かったのである! 『オペラ作曲家として飯を喰って行ける!』とシューベルトが期待に胸を膨らませていたことは、手紙からはっきり読み取れる。そして次に作曲したのが「アルフォンソとエストレッラ」D732 である。友人ショーバーの台本で、ショーバー宅に寝泊まりして「台本ができると即作曲」と言う流れ作業で極めて集中して作曲された。「オリジナル舞曲集」は、「アルフォンソとエストレッラ」作曲以前に完成稿が出来上がっていたと考えるのが妥当であろう。つまり、1821年9月21日以前に「作品9」は完成していたと考えられる。
すると、1822年2月27日までは「作品18」完成稿には手を付けていないと推測される。
「未完成」交響曲D759 は、「さすらい人」幻想曲の作曲依頼が来て作曲中止された。1822年10月30日に「未完成」作曲開始、「さすらい人」幻想曲同年11月作曲開始、翌1823年2月24日出版。1822年12月7日のシュパウン宛の手紙では「完成した」と明記されているので、12月6日以前には完成している。この時期(1822.10.30-11)も作品18に手を付けた可能性は極めて低い。
この間に完成されたのが、ミサ曲第5番D678 であり、1822年9月である。3年かかりの大作と言うのは、シューベルトではこの1曲のみである。ミサ曲に限らず、オペラや交響曲でも他には無い。
作曲が中断された主な理由は、
- オラトリオ「ラザロ」D689 作曲 1820.02
- オペラ「双子の兄弟」D647 1820.06.14上演
- オペラ「魔法の竪琴」D644 1820.08.19上演
- オペラ「サクンターラ」D701 作曲 1820.10
- 弦楽四重奏曲第12番ハ短調「断章」D703 作曲 1820.12
- 交響曲ニ長調D708A 作曲 作曲年未確定だが1821頃
- 交響曲ホ長調D729 作曲 1821.08
- 「36のオリジナル舞曲集」作品9 D365 1821.08頃作曲 1821.11.29出版
- オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 作曲 1821.09-1822.02
が原因である。オラトリオ「ラザロ」と、オペラ「サクンターラ」から交響曲ホ長調の4作品の合計5作品は完成されていない。つまり、
「36のオリジナル舞曲集」作品9 と オペラ「アルフォンソとエストレッラ」のみが完成作品
である。理想を求めては行き詰まりを繰り返していた時期であり、シューベルト作風が「大きな作品」になって行く最初の時期に当たる。(名作自体は初期作品にも数多い。)
先の「1822年12月7日シュパウン宛の手紙」にこのミサ曲の完成についても明記されているので、わずかな箇所が1822年に作曲されたのではなく、多くの曲が1822年に作曲されたと推測される。
- 1822.02.28-1822.08
- 1822.09後半-1822.10.29
- 1822.12-1823.01前半
このどれかの期間に作曲されたのかは断定はできない。
別の面から見てみよう。シューベルトが生前出版した舞曲集一覧である。
- 作品9 1821.11.29出版
- 作品18 1823.02.05出版
- 作品33 1825.01.08出版
- 作品49 1825.11.21出版
- 作品50 1825.11.21出版
- 作品67 1826.12.15出版
- 作品77 1827.01.22出版
- 作品91 1828.01.05出版
全て「11月下旬~2月前半」に集中している。そう、ウィーンは「冬がダンスシーズン」だからだ!
1822年8月以前に作曲された可能性は、他の出版舞曲集と比べた時に極めて可能性が低いと考えられる。出版まで期間が空きすぎていて「時期遅れになりかねない」2月に出版されているからだ。
さらに「作品18」以外の舞曲集は、11月~1月に出版されている。「作品18」だけが「2月」に遅れているのだ。私高本は「ウィーンの冬がどれだけ寒くて、ダンスシーズンがいつまでか?」は正確には知らないが、『冬 = ダンスシーズン』で、新年前後に最も華やかな舞踏会が開催される、とニュースでは見聞きしている。
「作品9」が 1821年8月~9月構想作曲 → 11月29日出版 なので、2ヶ月程度あれば、出版社は印刷&販売に余裕があるようだ。楽譜が込み入った「さすらい人」幻想曲1822年11月作曲開始1822年12月6日前に作曲完了 → 1823年2月24日出版 なので、曲数は多くとも楽譜制作が楽な舞曲集ならば2ヶ月のスケジュールを立てたいだろう。1822年8月に出版社ディアベリが楽譜を受け取っていたならば、「ダンスシーズン開始前」の11月に出版した可能性が極めて高い。
10月29日までに楽譜を受け取っていたら、11月には間に合わなかっただろうが、12月末 または 1月初には出版したと推測される。 新年の出版は「作品33」「作品77」「作品91」と3作品もある。全作品「出版用の署名入り自筆譜が存在しない」ので断定はできないのだが。
とても興味深い資料が D145 には残されている。
1823年に作曲されたとほぼ断定されている エコセーズ第8番 D145/E8 自筆譜第2稿 = 嬰ト短調版
の存在だ。おそらく次の順序になるだろう。
- Brown Ms.29 (1818.11 Zselis)嬰ト短調版 2/4 16小節
- Brown Ms.48 (1823?) 嬰ト短調版 2/4 16小節
- 作品18 ロ短調版 2/4 8小節
「ワルツ」と「レントラー」を作曲終えて(?)、退場行進曲であるエコセーズを選択している際、どうしても取込たかった曲がこの曲のようだ。
Ms.29 よりも アーティキュレーション が緻密に書かれた Ms.48。出版時には「テンポが倍速くなった ロ短調の8小節版」となった。そこまで改変してまでも出版したかった名作なのだ!
状況を丁寧に洗い出すと、「作品18」の構想&完成版作曲時期はどうも出版直前ぎりぎりだったようだ。
「さすらい人」幻想曲作品15 D760 作曲完了直後に構想に入り、1823年1月前半に完成した 作品18
がおそらく99%くらいの確率で正しい。忙しかった理由は「未完成交響曲」作曲 → 「さすらい人」幻想曲依頼を受けて作曲である。やきもきしたディアベリは「さすらい人」幻想曲出版前にこの「12のワルツ、17のレントラー、9のエコセーズ」を出版している。彫刻師が「楽」なこともあるが、それ以上に「ダンスシーズンに間に合わせたい」意向があった、と推察される。時期遅れに成りかねない時期だったからだ。
この「作品18」までをシューベルトは「何も考えずに」ディアベリから出版した。ディアベリに「いいようにふんだくられた」ことを理解したシューベルトは、次の作品(= 作品20の歌曲集)から、『ザウアー=ライデスドルフ社』と契約して出版を開始する。「作品21」出版のわずか2ヶ月後の1823年4月10日に出版されている。楽譜を渡したのは「作品18」出版頃なのだろうか?
「作品18」は「世間の嫌な駆け引き」を知らない最後の瞬間に作曲された作品である。もう1回振り返ってみよう。
- オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 1821.09.20-1822.02.27
- ミサ曲第5番変イ長調D678 1819.11-1822.09
- 交響曲第7番ロ短調「未完成」D759 1822.10.30-
- 「さすらい人」幻想曲D760作品15 1822.11
- 12のワルツ、17のレントラー、9のエコセーズD145作品18 1822.12-1823.01前半
- ピアノソナタ第14番イ短調D784 1823.02
と言う豪華なラインナップ! 「作品18」の位置付けはシューベルト自身にとって極めて高く、5年前の名作を1度ならず2度も手を入れて出版に漕ぎ着けたのだ!!
D番号 が飛んで D678, D145 が入っているのが嫌でも眼に付く。
この稿の最後に、『シューベルト作品カタログ旧版(1951)』に登場願おう。
D145 の項目に「以下を参照せよ」と明記
D299の前
D679の前
D697の前
D729の前
D769の前
つまり
D145, D298A, D678A, D697A, D728A, D768A と名付けられて良い作品群 とドイチュ は考えていた
のである。ドイチュ は、「作品の着手時期」でドイチュ番号を決めた。
Ms.9 「12のコーダ付きのフォルテピアノのためのドイツ舞曲 1815年」
が標題である。この舞曲集の「2番トリオ」が D145/W9 である。別の舞曲集に収められた1曲を転用しただけである。ドイチュ は「作品着手時期」をできる限り早い時期でドイチュ番号を定めた。舞曲集が最もわかり難い曲集であり、できる限り多くの時期を「D番号で参照せよ」と明記しておいた。『新シューベルト全集 作品主題カタログ = 新版』は、この記述を大巾に削減してしまい、実際に『新シューベルト全集舞曲集I(BA5529)』を購入して、しかも目次でなく、楽譜全部に目を通さないとわからないようにしてしまった。(個別曲にD番号は振られているだけ!)これでは、使い難い。「次回のシューベルト作品主題カタログ」では、ドイチュの方式に是非戻してほしいモノだ。