最近は服装について、とやかく言われない時代になった。
お祝い事の席でも、主役以外は、普段着や気楽な服装でおもいおもいの装いで済ませられる。 礼服や晴れ着は主役となる人だけで、あとの人は通常着か、カジュアルな装いでも礼節を欠くことはないようだ。
お互いの申し合わせによることもあるが。しいて言うならば、礼に適うかどうかより、お洒落であるかどうかにかかっているようにも思える。
特に夏場は まことに簡単なこと極まりない。へそが出ようが、尻が出ようがおかまいなし。結構な時代だ。
昔でも、長屋の連中は祝言があっても、大家さんから羽織一枚借りて、普段着のうえに羽織って出かけた最低限の礼があった。
着衣と礼節や、けじめとの関連が希薄になると世の中が乱れる。 着衣の乱れは世相の乱れ、日本文化の衰退。
何を着ようと自由であるが、アクシデントの有った時だけ、幹部がネクタイ締めて、スーツ姿で会見で深々と頭を下げているのは、白々しい限りである。
総裁選のある9月は、まだクールビズであろうが、相変わらずしまらないことであろう。
現小泉総理の靖国参拝は、モーニング姿とか、羽織袴で何を祈りどんな気持ちをささげたのであろうか。 大日本服飾考(そんなの無い)より抜粋。