ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

父の3月10日

2007年03月09日 | 少し昔のお話

父は、生涯にわたって、東京空襲の話を致しておりました。

「ズドーン。ビリビリ。ズドン、ビリビリ。ズドンビリビリ!」と空襲警報発令のサイレンと同時にB29の爆撃がはじまり、遠くから来たのが、すぐに直下になり、ズドン、ドン、バリバリと頭上に投下された爆弾の恐怖は生涯ぬぐえなかったのです。

折あるごとに、家族や親戚、知人や皆に語っておりました。

父は、何度も九死に一生を得る目に会ってきましたが、この時ばかりは生きた心地のしない恐ろしい体験だったと存じます。

昭和19年最後の連絡船で、中国大陸から日本に戻り、すぐに東京は蒲田にあった親戚の経営する電機メーカー(軍需工場)の下請け工場で、名目は工場長でも留守番のようなことになっていたのです。

昭和20年3月には、オーナーとその一族は、伊豆の方に疎開して誰も残っていなく、社員や工場の技術者たちもほとんど戦争にとられ、事務職員の女性と父だけが工場を守っていたそうです。

そしてむかえた、3月10日の空襲です。

逃げるにも、絶対安全という場所もなく、運を天にまかせて、ただうずくまっていたそうです。激しい爆撃のあと、お互い生きていたこと確認しふらふらと立ち上がり周りをみると、直撃弾が穿った大きな穴と穴の間にうずくまっていたのだそうです。

蒲田は、もともと埋立地の湿地帯で落ちた爆弾も破裂する事なく土中に不発弾として潜り込んだようでした。

レンコンを輪切りにしたような、穴は工場の敷地にそこかしこに開いていて、穴のふちにいても、爆発する事のなかったお陰で助かりました。

父は63歳で他界するまで、3月10日の東京大空襲のこの話は、恐怖の反面、生きておられたことの有難みもこめて皆に語っておりました。


雛のつるし飾り

2007年03月09日 | 一行法師

啓蟄で、出てまいりました爺虫と婆虫は伊豆・稲取温泉までぞろぞろと飛び出ましたさ。

そこで眼にしたものは、伊豆・稲取温泉の伝承文化の「雛のつるし飾り」でありました。

今の時季、宿はもとより、交番、郵便局、クリーニング屋さん、雑貨屋さんに土産物屋さんと町中の至るところにつり下げられて、観光事業の徹底に力を入れている。

江戸時代には、立派なお雛様を購入して飾れる裕福な家庭はまれで、こういったお雛様の代わりに、愛する子供や孫のために、手作りで、一針、一針縫って、それぞれの形に縫い上げて吊るし、初節句を祝ったのがはじまりとされている。

稲取独自の風習で、女の子の健やかな成長と幸せを願って、百十個の形には厄除けや、縁起のよいものをつくり、吊るし飾りとして受け継がれてきたものです。

メインの二つの会場の他、数箇所で館内いっぱいに飾られています。詳しくは、http://www.inatorionsen.or.jp

母なら誰でも針と糸がもてて、唯の手芸ではなく 和裁ができる時代でありました。今、幼稚園の園児に持たせる袋すら難儀しておられるお母さんも多いと聞きます。