父は、生涯にわたって、東京空襲の話を致しておりました。
「ズドーン。ビリビリ。ズドン、ビリビリ。ズドンビリビリ!」と空襲警報発令のサイレンと同時にB29の爆撃がはじまり、遠くから来たのが、すぐに直下になり、ズドン、ドン、バリバリと頭上に投下された爆弾の恐怖は生涯ぬぐえなかったのです。
折あるごとに、家族や親戚、知人や皆に語っておりました。
父は、何度も九死に一生を得る目に会ってきましたが、この時ばかりは生きた心地のしない恐ろしい体験だったと存じます。
昭和19年最後の連絡船で、中国大陸から日本に戻り、すぐに東京は蒲田にあった親戚の経営する電機メーカー(軍需工場)の下請け工場で、名目は工場長でも留守番のようなことになっていたのです。
昭和20年3月には、オーナーとその一族は、伊豆の方に疎開して誰も残っていなく、社員や工場の技術者たちもほとんど戦争にとられ、事務職員の女性と父だけが工場を守っていたそうです。
そしてむかえた、3月10日の空襲です。
逃げるにも、絶対安全という場所もなく、運を天にまかせて、ただうずくまっていたそうです。激しい爆撃のあと、お互い生きていたこと確認しふらふらと立ち上がり周りをみると、直撃弾が穿った大きな穴と穴の間にうずくまっていたのだそうです。
蒲田は、もともと埋立地の湿地帯で落ちた爆弾も破裂する事なく土中に不発弾として潜り込んだようでした。
レンコンを輪切りにしたような、穴は工場の敷地にそこかしこに開いていて、穴のふちにいても、爆発する事のなかったお陰で助かりました。
父は63歳で他界するまで、3月10日の東京大空襲のこの話は、恐怖の反面、生きておられたことの有難みもこめて皆に語っておりました。