行政刷新会議で「事業仕訳」を、せっせとやっていなさるが、この夏「吉天」も引っ越しに際して、ばっさばっさと切って捨て、すっきりしましたさ。
個人の個人による「事業仕訳」は、個人の決断により、やらなくて済むことはやらないで済みますが、相手のある場合はたんに切って捨てるだけでは済まないこともあるので、見極めが大変であろうがな。
シンプルに生きるには、身辺をシンプルにして動きやすくすること、老いに向かうと言う「爺問題」は、余分なものはいらない。
吉天の場合の「事業仕訳」の目玉は、なんとと言っても汗牛充棟の蔵書の始末であった。必要最小限度の書籍に絞ってあとは処分や、図書館に寄贈したことだ。
本は読めるだけのものを、図書館から借りてくればよい。夜中に調べもので必要なものは、手元にないと困るので、できるだけ手の届くところに小さな書棚をおいている。
インターネットの検索も活用すれば場所もとらない。
余分な仕事は増やさない。余分なお付き合いも排除する。
しかし、喰う寝るだけの生活は味気ない。
自分の価値観で、無駄も余裕も残したい。それも言い訳や、理屈をつけたりしないで自由を楽しむ人間らしさがあってこそ「個人」の事業仕訳でござろう。
行政刷新の事業仕訳も、切って捨てるだけでなく「血肉の通った」施策は一気呵成にやってしまっていいものかとの疑問も残る。
ここは必殺仕分け人の「見識と度量」にかかって来るのではないか。