●胡錦濤時代はもう終わった、次の共産党は江沢民氏が仕切る 2010/12/30(木) [サーチナ]
汪洋氏(中国共産党中央政治局委員・広東省党委書記)が薄煕来氏(中央政治局委員・重慶市委書記)に対する支持を公言した。汪洋氏は胡錦濤派の重鎮で、胡錦濤国家主席と温家宝総理は、薄煕来氏を快く思っていない。薄煕来氏と習近平氏(党中央軍事委副主席)との溝は深いが、薄氏、習氏ともに江沢民・前総書記が認めた人物だ。中国語ニュースサイト博訊網などが伝えた。
胡錦濤氏は、江沢民勢力に消極的な抵抗を試みたが、何もできなかった。そして、胡総書記の任期が2年を切った今、党中央のキーパーソンが続々と、新しい主人である江沢民勢力にはせ参じている。だから汪洋氏の態度表明も、道理にかなったものだ。
党中央の関係者によると、2年後に開かれる18大(中国共産党第18期全国代表大会)の人事は、江氏が仕切る。江氏は最近「今後は『党と国家の指導者』と言う時、自分をその中に入れないよう」提案したが、これはまもなく引退する胡錦濤に対する指示だ。
江氏はこれまで長年、心置きなく「党と国家の指導者」を務めてきたが、残り2年というところに来て、自分をその中に入れないよう求めたのだ。これは胡錦濤総書記に向けたメッセージだ。江氏の「党と国家の指導者」の地位は、政治局の集団的な意志で決まったもので、彼の権力の大きさは、まもなく退場する他の政治局常務委員と比べ物にならないということを明言した訳だ。
新聞出版総署の幹部によると、胡総書記弁公室の秘書が「胡・温勢力もまだ完全に諦めていない。万事休すとなると、彼らが思い切った手を打つ可能性もある」と漏らしたという。
秘書によると、太子党が天下を取る日がやって来る。胡・温勢力は、このことに対する抵抗感は本来持っていない。しかし、政治局の圧倒的多数を太子党が占めと、各地方の党と政府の要人も太子党勢力が握ることになる。同秘書は、「そのような状況に国民は納得しない。胡・温勢力が今後2年、民意を味方につけて太子党に対する反撃に出ることもあり得る。最後の最後まで、彼らが諦めることはない」と語った。(編集担当:松本夏穂)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1230&f=politics_1230_008.shtml
●習近平はなぜ「天皇会見」にこだわったのか WEDGE infinity 2009年12月16日
2012年の第18回共産党大会で胡氏に代わる党総書記への就任が固まりつつある習副主席の今回の訪日は、「目立たず、印象付ける」を徹底する、神経を尖らせる旅だった。政敵から揚げ足を取られないよう目立ってはいけず、しかし「後継者」として印象付ける必要もあるのだ。
習氏は10月の欧州歴訪では、メルケル独首相に対し、発行されたばかりの江沢民前国家主席の著作2冊(英語版)を贈呈し、党内でいまだ影響力の残る江氏への配慮を示した。さらに11月のオバマ米大統領の訪中では、北京空港まで出迎えたのが習氏だった。まさに米中の「新たな顔」を演出するかのような舞台設定である。
そして今回の訪日。胡氏が前例をつくった「天皇会見」は外せないものだった。実際に、胡氏は国家主席として来日した08年、陛下から「主席閣下には今から10年前、国家副主席としてわが国をご訪問になり皇居でお会いしましたが、このたび国家主席として再びお迎えしたことをうれしく思います」との言葉をもらっている。
「天皇陛下によろしく」
ここで中国にとってどれだけ天皇陛下というのは特別な存在であるか説明しておきたい。詳細は、拙著『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書)に記したので参照していただければ幸いである。
中国では天皇は本来、「対中侵略戦争の元凶」であるはずだ。しかし実際には首相より格上の「元首」として位置付け、新中国建国以降、日本とまだ国交正常化していない1950年代から、日本の要人が訪中すると、毛沢東主席らは「天皇陛下によろしく」とメッセージを送り続けた。
中国における日中関係の文献にはこういう記述がある。「日本の首相は絶えず代わるが、天皇は終始在位している。日本の普通の国民や子供は首相の名前を知らないことがあっても、天皇のことは心に刻んでいる」。
中国歴代指導部は天皇を否定的にとらえるのではなく、天皇を味方に付ければ、日本人の心をつかめ、日本人の対中感情好転につなげられると確信した。そして実際に天皇訪中を対日工作の目標に掲げたのが小平氏だった。建国後、中国指導者として初めて1978年に天皇陛下と会見した氏は、「両国の間には非常に長い友好の歴史があり、その間には一時、不幸な出来事もありました」と語られる陛下のお言葉に「非常に感動しました」と声を上げた。
『中国共産党「天皇工作」秘録』では冒頭、中国政府幹部が84年、日中国交正常化を成し遂げた親中派・田中角栄元首相を通じ、昭和天皇訪中に向けて動いた攻防を描いたが、当時の中曽根康弘首相の反対で挫折。天皇訪中が実現するのは、昭和天皇が崩御し、平成に時代が変わった92年10月だった。
中国側の天皇訪中要請に自民党内では「天皇陛下が政治に巻き込まれる」と反対・慎重論が高まったが、中国は江沢民総書記を筆頭に日本側への働き掛けを強めた。最終的には時の最高実力者・金丸信自民党副総裁が、なかなか決断できなかった宮沢喜一首相に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」と一喝、天皇訪中は決定する。
銭其琛元副首相(外交担当)は回顧録『外交十記』で天皇訪中を振り返り、89年の天安門事件を受けた西側諸国の制裁を「打ち破る最良の突破口だった」と振り返り、天皇訪中を政治的に利用した事実を認めている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/678
●冊封
中国の皇帝が属国の国王に対し、その即位を認める文書を与えること。その際、中国から派遣される使者を「冊封使」という。当時の中国「明」の洪武帝は「明」を頂点とする世界(それを冊封体制という)を築くため、琉球もその一員に加えるべく、再三使節団を派遣していた。
尚巴志は三山を統一し、琉球国として「明」の冊封体制の仲間入りを果たすことになる。以後、琉球王の世代が代わる度に冊封使を迎え、載冠式を行うようになる。冊封使は300-500名にのぼり、6-8ヶ月もの間滞在するため、冊封使を迎える準備は一大イベントと化していた。
冊封体制の一員となり進貢国となった琉球は、ただ単に中国皇帝への貢物を差し出すだけのものではなく、国として認知されるとともに、中国への貢物を運んだ船「進貢船」は、帰りには中国の特産品を満載して戻ってきた。
進貢国の王侯がかわると、中国皇帝が使者(冊封使)を派遣し新王を命した。琉球にたいする冊封は1404年から1866年の最後の琉球王尚泰(しょうたい)まで24回行われたという。冊封使一行は400~500人にのぼり、4~8カ月滞在した。冊封の式典は首里城の前庭で行われた。
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse034.html
【私のコメント】前回の記事「二兎を追うものは一兎をも得ず」で、私は「尖閣紛争は欧米諸国を安心させる為に日中両国が行った演出ではないかと考え始めている。」と書いたが、その後、更に考えを発展させ、中国は事実上日本の衛星国になる道を選んだのではないかと考えるようになった。
昨年、習近平国家副主席が無理矢理天皇と会見し日本の外交的敗北が報道された。そして、今年は習近平氏が中華人民共和国中央軍事委員会副主席に選出されて次期最高指導者に確定するのと時期を同じくして尖閣諸島で紛争が発生し、日本の更なる外交的敗北が報道された。
日本は一見、外交的に敗北ばかりしているように見える。しかし、冷静に見れば習近平は上海閥・太子党の派閥所属であり、江沢民の後継者である。江沢民が表向きは反日を激しく叫びつつ、裏では日本との協力関係によって上海などの沿海都市を大発展させたことを考えるならば、習近平の次期最高指導者確定は日本にとって有益と考えられる。そして、彼が次期最高指導者就任確定の前に天皇との会見を強く希望したことは、天皇に承認を受けることが中国最高指導者就任の必要条件であることを意味している様に思われる。
西力東漸以前の東アジアでは、中華帝国の皇帝は属国で新王が即位する度に册封使を派遣し新王を承認した。今や東アジアでは皇帝を名乗る君主は天皇だけであり、その歴史の長さと日本の国力と外交方針の正しさは群を抜いている。中国はもはや日本の属国に転落し、日本による册封なしには正統性を保てなくなったのではないかと私は妄想している。そして、この日本の外交的大勝利を隠すために天皇会見ごり押し事件と尖閣問題が演出されたのではないかと考えている。
中国は1840年のアヘン戦争で欧米勢力に大敗北を喫しても目が覚めず、日清戦争の敗北で漸く目が覚めた。しかし、その後米国の国際金融資本の宣伝する共産主義を愚かにも受け入れてしまう。文化大革命を終結させた小平が1978年に訪日して日本の経済発展に衝撃を受け改革開放政策を採るまで、実に138年間も経過しているのである。一方の日本は1853年の黒船来航から1868年の王政復古までわずか15年間しか経過していないのと対照的である。日本は共産主義についてもその危険性を早期から認識し、決して受け入れようとしなかった。中国人は大躍進や文化大革命の悲惨さを経験してやっと共産主義と決別し、改革開放政策という名前で開発独裁型資本主義を導入したのである。また、韓国や台湾の経済発展に学び、日本からの技術・資金輸入こそが経済発展への処方箋であるという事実に気付いたのである。日本の外交方針決定の賢明さと素早さは中国と比較して対称的であり、これが現在の日本の繁栄を生み出しているのだ。
日本の戦略思想は勝利を恐れる。勝利の中には敗北の種が隠されているからだ。それ故、勝利は敗北という名の衣で隠蔽され、勝利であることが広く世間に知られることを避けなければならないのだ。この観点から見て、日本外交最大の敗北は、日露戦争に勝利したことであろう。日露戦争の勝利は米国による日本敵視を生み出し、40年後の無条件降伏に繋がった。日露戦争でわざとロシアに負けることが日本にとって最も賢明な策だったのではないかと私は考えている。
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汪洋氏(中国共産党中央政治局委員・広東省党委書記)が薄煕来氏(中央政治局委員・重慶市委書記)に対する支持を公言した。汪洋氏は胡錦濤派の重鎮で、胡錦濤国家主席と温家宝総理は、薄煕来氏を快く思っていない。薄煕来氏と習近平氏(党中央軍事委副主席)との溝は深いが、薄氏、習氏ともに江沢民・前総書記が認めた人物だ。中国語ニュースサイト博訊網などが伝えた。
胡錦濤氏は、江沢民勢力に消極的な抵抗を試みたが、何もできなかった。そして、胡総書記の任期が2年を切った今、党中央のキーパーソンが続々と、新しい主人である江沢民勢力にはせ参じている。だから汪洋氏の態度表明も、道理にかなったものだ。
党中央の関係者によると、2年後に開かれる18大(中国共産党第18期全国代表大会)の人事は、江氏が仕切る。江氏は最近「今後は『党と国家の指導者』と言う時、自分をその中に入れないよう」提案したが、これはまもなく引退する胡錦濤に対する指示だ。
江氏はこれまで長年、心置きなく「党と国家の指導者」を務めてきたが、残り2年というところに来て、自分をその中に入れないよう求めたのだ。これは胡錦濤総書記に向けたメッセージだ。江氏の「党と国家の指導者」の地位は、政治局の集団的な意志で決まったもので、彼の権力の大きさは、まもなく退場する他の政治局常務委員と比べ物にならないということを明言した訳だ。
新聞出版総署の幹部によると、胡総書記弁公室の秘書が「胡・温勢力もまだ完全に諦めていない。万事休すとなると、彼らが思い切った手を打つ可能性もある」と漏らしたという。
秘書によると、太子党が天下を取る日がやって来る。胡・温勢力は、このことに対する抵抗感は本来持っていない。しかし、政治局の圧倒的多数を太子党が占めと、各地方の党と政府の要人も太子党勢力が握ることになる。同秘書は、「そのような状況に国民は納得しない。胡・温勢力が今後2年、民意を味方につけて太子党に対する反撃に出ることもあり得る。最後の最後まで、彼らが諦めることはない」と語った。(編集担当:松本夏穂)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1230&f=politics_1230_008.shtml
●習近平はなぜ「天皇会見」にこだわったのか WEDGE infinity 2009年12月16日
2012年の第18回共産党大会で胡氏に代わる党総書記への就任が固まりつつある習副主席の今回の訪日は、「目立たず、印象付ける」を徹底する、神経を尖らせる旅だった。政敵から揚げ足を取られないよう目立ってはいけず、しかし「後継者」として印象付ける必要もあるのだ。
習氏は10月の欧州歴訪では、メルケル独首相に対し、発行されたばかりの江沢民前国家主席の著作2冊(英語版)を贈呈し、党内でいまだ影響力の残る江氏への配慮を示した。さらに11月のオバマ米大統領の訪中では、北京空港まで出迎えたのが習氏だった。まさに米中の「新たな顔」を演出するかのような舞台設定である。
そして今回の訪日。胡氏が前例をつくった「天皇会見」は外せないものだった。実際に、胡氏は国家主席として来日した08年、陛下から「主席閣下には今から10年前、国家副主席としてわが国をご訪問になり皇居でお会いしましたが、このたび国家主席として再びお迎えしたことをうれしく思います」との言葉をもらっている。
「天皇陛下によろしく」
ここで中国にとってどれだけ天皇陛下というのは特別な存在であるか説明しておきたい。詳細は、拙著『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書)に記したので参照していただければ幸いである。
中国では天皇は本来、「対中侵略戦争の元凶」であるはずだ。しかし実際には首相より格上の「元首」として位置付け、新中国建国以降、日本とまだ国交正常化していない1950年代から、日本の要人が訪中すると、毛沢東主席らは「天皇陛下によろしく」とメッセージを送り続けた。
中国における日中関係の文献にはこういう記述がある。「日本の首相は絶えず代わるが、天皇は終始在位している。日本の普通の国民や子供は首相の名前を知らないことがあっても、天皇のことは心に刻んでいる」。
中国歴代指導部は天皇を否定的にとらえるのではなく、天皇を味方に付ければ、日本人の心をつかめ、日本人の対中感情好転につなげられると確信した。そして実際に天皇訪中を対日工作の目標に掲げたのが小平氏だった。建国後、中国指導者として初めて1978年に天皇陛下と会見した氏は、「両国の間には非常に長い友好の歴史があり、その間には一時、不幸な出来事もありました」と語られる陛下のお言葉に「非常に感動しました」と声を上げた。
『中国共産党「天皇工作」秘録』では冒頭、中国政府幹部が84年、日中国交正常化を成し遂げた親中派・田中角栄元首相を通じ、昭和天皇訪中に向けて動いた攻防を描いたが、当時の中曽根康弘首相の反対で挫折。天皇訪中が実現するのは、昭和天皇が崩御し、平成に時代が変わった92年10月だった。
中国側の天皇訪中要請に自民党内では「天皇陛下が政治に巻き込まれる」と反対・慎重論が高まったが、中国は江沢民総書記を筆頭に日本側への働き掛けを強めた。最終的には時の最高実力者・金丸信自民党副総裁が、なかなか決断できなかった宮沢喜一首相に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」と一喝、天皇訪中は決定する。
銭其琛元副首相(外交担当)は回顧録『外交十記』で天皇訪中を振り返り、89年の天安門事件を受けた西側諸国の制裁を「打ち破る最良の突破口だった」と振り返り、天皇訪中を政治的に利用した事実を認めている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/678
●冊封
中国の皇帝が属国の国王に対し、その即位を認める文書を与えること。その際、中国から派遣される使者を「冊封使」という。当時の中国「明」の洪武帝は「明」を頂点とする世界(それを冊封体制という)を築くため、琉球もその一員に加えるべく、再三使節団を派遣していた。
尚巴志は三山を統一し、琉球国として「明」の冊封体制の仲間入りを果たすことになる。以後、琉球王の世代が代わる度に冊封使を迎え、載冠式を行うようになる。冊封使は300-500名にのぼり、6-8ヶ月もの間滞在するため、冊封使を迎える準備は一大イベントと化していた。
冊封体制の一員となり進貢国となった琉球は、ただ単に中国皇帝への貢物を差し出すだけのものではなく、国として認知されるとともに、中国への貢物を運んだ船「進貢船」は、帰りには中国の特産品を満載して戻ってきた。
進貢国の王侯がかわると、中国皇帝が使者(冊封使)を派遣し新王を命した。琉球にたいする冊封は1404年から1866年の最後の琉球王尚泰(しょうたい)まで24回行われたという。冊封使一行は400~500人にのぼり、4~8カ月滞在した。冊封の式典は首里城の前庭で行われた。
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse034.html
【私のコメント】前回の記事「二兎を追うものは一兎をも得ず」で、私は「尖閣紛争は欧米諸国を安心させる為に日中両国が行った演出ではないかと考え始めている。」と書いたが、その後、更に考えを発展させ、中国は事実上日本の衛星国になる道を選んだのではないかと考えるようになった。
昨年、習近平国家副主席が無理矢理天皇と会見し日本の外交的敗北が報道された。そして、今年は習近平氏が中華人民共和国中央軍事委員会副主席に選出されて次期最高指導者に確定するのと時期を同じくして尖閣諸島で紛争が発生し、日本の更なる外交的敗北が報道された。
日本は一見、外交的に敗北ばかりしているように見える。しかし、冷静に見れば習近平は上海閥・太子党の派閥所属であり、江沢民の後継者である。江沢民が表向きは反日を激しく叫びつつ、裏では日本との協力関係によって上海などの沿海都市を大発展させたことを考えるならば、習近平の次期最高指導者確定は日本にとって有益と考えられる。そして、彼が次期最高指導者就任確定の前に天皇との会見を強く希望したことは、天皇に承認を受けることが中国最高指導者就任の必要条件であることを意味している様に思われる。
西力東漸以前の東アジアでは、中華帝国の皇帝は属国で新王が即位する度に册封使を派遣し新王を承認した。今や東アジアでは皇帝を名乗る君主は天皇だけであり、その歴史の長さと日本の国力と外交方針の正しさは群を抜いている。中国はもはや日本の属国に転落し、日本による册封なしには正統性を保てなくなったのではないかと私は妄想している。そして、この日本の外交的大勝利を隠すために天皇会見ごり押し事件と尖閣問題が演出されたのではないかと考えている。
中国は1840年のアヘン戦争で欧米勢力に大敗北を喫しても目が覚めず、日清戦争の敗北で漸く目が覚めた。しかし、その後米国の国際金融資本の宣伝する共産主義を愚かにも受け入れてしまう。文化大革命を終結させた小平が1978年に訪日して日本の経済発展に衝撃を受け改革開放政策を採るまで、実に138年間も経過しているのである。一方の日本は1853年の黒船来航から1868年の王政復古までわずか15年間しか経過していないのと対照的である。日本は共産主義についてもその危険性を早期から認識し、決して受け入れようとしなかった。中国人は大躍進や文化大革命の悲惨さを経験してやっと共産主義と決別し、改革開放政策という名前で開発独裁型資本主義を導入したのである。また、韓国や台湾の経済発展に学び、日本からの技術・資金輸入こそが経済発展への処方箋であるという事実に気付いたのである。日本の外交方針決定の賢明さと素早さは中国と比較して対称的であり、これが現在の日本の繁栄を生み出しているのだ。
日本の戦略思想は勝利を恐れる。勝利の中には敗北の種が隠されているからだ。それ故、勝利は敗北という名の衣で隠蔽され、勝利であることが広く世間に知られることを避けなければならないのだ。この観点から見て、日本外交最大の敗北は、日露戦争に勝利したことであろう。日露戦争の勝利は米国による日本敵視を生み出し、40年後の無条件降伏に繋がった。日露戦争でわざとロシアに負けることが日本にとって最も賢明な策だったのではないかと私は考えている。
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日本がとった共産主義対策としては共産主義者による朝鮮人擁護ですかね。
尖閣諸島問題を引き起こしたのは、実は中共の外交部だ。この問題において強硬な態度を見せたのは、台湾の馬英九政権に見せるための戦略の一環である。
中国共産党の世界拡張戦略の第一歩は台湾で、第二歩がインド、第三歩は日本である。現在、中国共産党は外交上の注意力を台湾問題に集中し、すべての行動は台湾問題をめぐって展開している。つまり中国共産党は、2012年秋開催の第18期党大会を前に、台湾問題を解決しようと計画している。この戦略は中国共産党の今後の運命に関係するだけでなく、胡錦涛個人の政治前途にも関係している。
胡錦涛が最高指導者になってから、軍事手段を主とし統一戦線を補助手段とする江沢民の台湾戦略を変えて、「超限戦」、つまり経済、文化、宗教、メディアなどの領域での統一戦線を主とし軍事闘争を補佐手段とする戦略を実行してきた。2012年までに「超限戦」の戦略が実現できなかったら、中共内部の大量の反胡錦涛派はきっと騒動を起こす。だから、胡錦涛は任期内に全力で彼の台湾戦略を推進させるに違いない。この点が分かればはじめて、日中外交において起こった事件を理解できる。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/11/html/d63292.html
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/11/html/d47568.html
尖閣諸島問題を引き起こしたのは、胡錦涛だそうです。
日中双方の中枢などにあるとするならば、中国はより小さく分裂することによって、
一部を犠牲にし、不都合な同盟国を葬り、国際社会との関係を健全化するという策謀を
日中共同戦線で行ったとしても不思議はないのかもしれません。
北朝鮮が獅子身中の虫であるとの意見が「東京kittyアンテナ」で再三提示されている。中共にとって。
分裂中華の華北または、シェンヤン軍管区が独走独立し、北朝鮮を叩き、完全併呑し非核化すれば、
華南やその他の地域は、安定した発展を継続することができるのではないだろうか。
特に、華南の沿岸部が、アジアの先進国として成長し、日本と一定の協力関係を築く事ができれば、
日本のみが、欧米列強の砲火外交圧力の前面に出る事が無くなり、欧米列強への交渉能力が高まるかもしれない。
北朝鮮を使った、米国の軍産複体の野望を挫くことが可能となるかもしれない。
その上で、華北またはシェンヤン軍管区への武装解除の進駐を華南政府が行うことも可能となるか。
その後、国境線は守った上で、尖閣油田を開発し、原油の対中輸出による相互利益が日中間に成り立つかもしれない。
南朝鮮がキリスト教化したのは、奴隷制からの離脱(遷移性)と関わりがあると思います。
日本の身分制度は奴隷制とは相容れない親和性の高い役割分担の面が強かったので、キリスト教化も共産化もしなかった。(僅か)
(は平安朝時に5%と読んだことがある。江戸時代のエタも、多様だが、獣体を扱う優先専業業者の部分もあるらしい)
(王様と奴隷が入れ替わり、役割としての義務意識が上層階層で薄いため、己の器という意識が低いのだろう)
(もっとも、平安朝の藤原氏は義務意識が足りず民に横暴を尽くすので、新皇として平将門も登場せざる得なかったが)
ただ、拡大主義はキリスト教を背景とした帝国主義を取り入れることを国家神道というヌイグルミの綿とした為か、
キリスト教的なものが神道をキグルミとして利用し侵入したからではないだろうか。
神仏習合の仏教を廃仏毀釈したのは、キリスト教的な一神教により行われたのだから。
豊臣秀吉も、キリスト教徒による奴隷貿易や侵略の意図を喝破しなければ、朝鮮経由の中国出兵もなかったのではないだろうか。
高松城でも、清水宗治が切腹するまで待ち、兵力の温存と諜略を基本とした戦法は、相手が拒否しなければ、
織田信長の比叡山の焼き討ちも、子女を逃し、全山壊滅させていないことからも分かるように思います。
必要以上に頑な鎖国は、清朝や李氏朝鮮のように自滅の道を歩むのではないでしょうか。
日本も満州国の権益解放を拒否したことで国土を焦土に帰しましたから、清朝や李氏朝鮮だけを意固地な失敗と片付ける事もできませんが。
ナザレのイエスは、奴隷制を批判したのに、キリスト教は変質したんでしょうね。
そうなることを信じたいです。
また某中国関連ブログでは、上海は北京に嵌め込まれたとも。
リーマンショック後の中国の大規模財政出動でバラまかれた資金が行き場所がなく不動産投資に向かいバブルを引き起こしたことによって、上海株式市場を自分の財布にしている上海閥はもののみごとに嵌め込まれたとか。
どちらも根拠になるソースはありませんので、そんな話もある、程度でお聞きくださいw