●秋篠寺 - Wikipedia
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
歴史[編集]宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている(一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたとも言う)。
宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。
宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。
(日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた[1]。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。[2]人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った[3]。)
(翌年3月『宮中でしきりに奇怪な事が起こるため』再び「大祓」を行い、僧六百人を招き大般若経を転読させた。宝亀8年9月、ついに内大臣・藤原良継が亡くなった。11月には天皇御自身が、そして12月には皇太子(山部親王、後の桓武天皇)までもが病気になった)。
秋篠寺に関する文献で、『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入した、という記述がある(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。
その翌年の天応元年(781年)、ついに富士山までもが噴火(富士山の噴火史)し、12月、光仁天皇は崩御されるに至った。勅願から5年後のことである。
『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われたことが見える。勅願寺であるが故に皇室とも関わりの深い寺院である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%AF%A0%E5%AF%BA
●秋篠寺
礼宮さまは,平成2年のご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜りました。その当時、妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ておられるという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れました。また、昨年(2006)には、秋篠宮家の長男、悠仁(ひさひと)さまが誕生されます慶事がありお寺は賑わいましたが今は静寂な境内で感動を覚えるお寺に戻っております。
秋篠寺といえば伎芸天で、美しい魅力尽きない伎芸天像に憧れてわざわざ大和まで来られる女性が引きも切れないことは異例です。特にキャリアーウーマンには絶大な人気を誇っております。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/akisinoderano.htm
●My Life Log: 秋篠寺の仏像
秋篠寺で有名なのは、伎芸天像とならんで大元帥明王像がある。秘仏で通常は大元明王院に祀られている。
大元帥明王は、画像が殆どで仏像姿はここだけである。猛烈な怒りの表現をしており、官立系の寺院で祀られる。国家大難時にのみ持ち出されて大難除去を祈る。(だから普段は仕舞っておける図像が多い) 高野山 西南院、 京都 醍醐寺、東寺 には図像、秋篠寺立像を含めて4像が現存している。これら4像とも13-14世紀に作られている、即ち元寇の大難の時期にあたり、国家安穩を祈祷したものである。
それ以来、大元帥法は宮中のお正月に行われる年中行事となっている。
日本は歴史に残る大難の時だ。 この時代こそ、薬師如来と大元帥明王の出番ではないのか。
http://mylifesytle.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html
●天智天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
●天武天皇 - Wikipedia
天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
概要[編集]舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。
名[編集]名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯[編集]出生年[編集]天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時年齢を記し、舒明天皇13年(641年)時点での天智天皇の年齢を記して生年を計算可能にしているのが、むしろ例外的である[5]
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である[6]。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた[7]。
1974年に作家の佐々克明がこの違いをとらえ、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている[8]。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王との間にもうけた子で、天智天皇の異父兄である。
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世[編集]天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。
葬儀[編集]10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇であ
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
●てげてげ 2008/05/10(土) 飯山一郎
天武天皇は,済州島の御方である!
http://grnba.com/iiyama/more3.html
【私のコメント】この記事は参考として引用したものであり、私は天武天皇が済州島出身かどうかは疑問と思っている。
●安史の乱 - Wikipedia
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
背景[編集]安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。
史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
挙兵[編集]李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。
安禄山軍の構成[編集]盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らとが参画した[2]。
当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。
洛陽陥落と燕国建国の宣言[編集]唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[3]。
唐軍の状況[編集]唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。
哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
長安制圧[編集]唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]。
唐の敗走[編集]パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[5]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
唐、ウイグルへの援軍要請[編集]756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する[6]。10月に、オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。
756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[7]。
葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[8]。
安禄山の暗殺[編集]一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。
安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。
唐・ウイグル連合軍による奪回戦[編集]粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する[9]。
757年9月、葛勒可汗は太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[10]。
唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[11]、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。
757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて安軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。
郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。
11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[12]。
翌758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ[13]、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。759年4月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である[14]。
史思明[編集]759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される[15]。
史朝義討伐[編集]762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する[16]。
762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。
唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた[17]。
劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる[18]。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。
なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。
その後[編集]この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。
唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。
日本への影響[編集]このような唐の動乱の影響は海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている[25]。
更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
●淳仁天皇 - Wikipedia
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
経歴[編集]人物[編集]天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
聖武天皇の遺言によって立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に廃された道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により4日後の同年4月4日(4月26日)に立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。
践祚[編集]天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。政策は、唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。また、仲麻呂主導の政権は平城宮の改築を実施し、それに伴って天皇は小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としている。
ところが、保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[1]。
追放[編集]天平宝字8年(764年)9月に恵美押勝の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。廃位と同時に、上皇は重祚して称徳天皇となった。一方先帝である淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)を奉られることはなかった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない[2]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
●井上内親王 - Wikipedia
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。
経歴[編集]養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。
光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。
宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●酒人内親王 - Wikipedia
酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。
略伝[編集]宝亀元年(770年)、父白壁王(光仁天皇)が即位したため、11月6日に三品に叙せられる。宝亀3年(772年)3月2日には母の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、5月27日には連座して弟の他戸親王も皇太子を廃されてしまうが、この一連の事件の最中である11月13日、突如19歳で伊勢の斎王に卜定、潔斎のためしばらく籠もる宮として春日斎宮に住まうことになる。同5年(774年)9月3日、潔斎を終えて伊勢へ下向、翌6年(775年)4月27日、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により退下した。
帰京後に自分の母と弟の幽閉と死によって皇太子の座についた異母兄山部親王(後の桓武天皇)の妃(ひ)となったが、その背景として斎王卜定と同じく、井上内親王・他戸親王派の抱き込みを狙った山部親王側の政治的配慮があるのではないかとも疑われている[1]。[要出典]なお、信憑性にはやや欠けるものの、『水鏡』に光仁天皇が酒人内親王の立太子を検討していたとの記述があり、事実であれば桓武天皇やその周辺にとっては警戒すべき存在であったことになる。宝亀10年(779年)に朝原内親王を産むが、この朝原内親王ものちに斎王に卜定されたため、祖母・母・娘と3代にわたり斎王を勤めたことになる。朝原内親王が弘仁8年(817年)に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の弘仁14年(823年)1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している[2]。この遺言状で、内親王は養子にした式部卿、大蔵卿、安勅内親王の3親王に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、ともに埋葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、と述べ、天長6年8月20日、76歳で薨じた。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は政争に翻弄された波乱のものであったといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●朝原内親王 - Wikipedia
朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月14日))は、桓武天皇の皇女。母は妃酒人内親王。伊勢斎王、のち平城天皇妃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%8E%9F%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●欧州のユダヤ系王族男子による名誉革命型の皇室乗っ取りの危険はないか? - 国際情勢の分析と予測 2006年08月22日
私は「愛子女帝」を諦めていないのは、小和田恒氏ではなく、ユダヤ金融資本=イルミナティだと思います。ユダヤ金融資本出身者(具体的には、欧州の王族男子)を愛子女帝の夫にして、日本の皇室を乗っ取ってしまうのが目的ではないかと思います。
名誉革命では、1688年にイングランド王ジェームズ二世の反対派に招請されてオランダの統領であるオレンジ公ウィリアムが妻メアリー(ジェームズ二世の娘)と共に英国に出兵、ジェームズ二世の亡命後にウィリアム三世とメアリー二世が共同統治者になっています。ウィリアム三世はオランダの統領を兼任していました。当時ユダヤ商人の本拠地であったオランダの首長が英国王を兼ね、王室を乗っ取った訳です。同じ事が日本の皇室でも起きることが危惧されます。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/f2d7d27f15dd824247443bce4538da4d
【私のコメント】
三連休を利用して旅行してきた。目的地は京都府南部の精華町・木津川市の学研都市と、奈良市にある秋篠寺である。前者は私がかつてブログ記事で新皇居予定地として取り上げた場所であり、その現地視察が目的であった。内容は改めて後日記事にする予定である。今回の記事のテーマは秋篠寺である。
車で学研都市から西大寺に向かう途中に秋篠寺がある。駐車場に車を止め門をくぐると、境内は鬱蒼とした木々が生い茂り、木々の根元は一面に苔が覆っていてまるで絨毯の様である。受付で参観料を払って中に入る。庭の中の本堂にある「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」が第一の目的であった。
文仁親王は平成2年に結婚した後に天皇陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名である「秋篠」に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜った。その当時、紀子妃殿下の横顔が、伎芸天像に似ているという評判が立ったという。確かに伎芸天像の眉は紀子妃殿下の眉にそっくりである。その後、秘仏の大元帥明王を見たかったのだが一年に一回しか見れないとのことで断念、本堂入り口の受付で販売していた写真集で我慢する。優美な伎芸天像とは対照的な筋肉質の男性象で、怒りに満ちあふれた表情である。連休というのに参拝者は私の他に3人だけ。いずれも目的と思われる伎芸天像の前の長椅子に座って仏像を長時間眺めていた。帰りがけに本堂の入り口の受付と寺の入り口の受付の両方で「よくお参りいただきました」とお礼を言われたことに感動した。
さて、この記事の目的は単なる観光案内ではない。大元帥明王が元寇という国難の時期に作られている。目的は国難から日本を守るためと考えて間違いない。現在の日本もまた国際金融資本支配下の米軍に敗北し占領され、ごく最近にも大地震や原発事故という悲惨な経験をしている。今ほど大元帥明王の力が必要な時期は無いのだ。
日本は元寇・第二次世界大戦敗北の他にもう一つ、合計で建国以後3回の国難を経験している。最初は西暦660年の百済(日本と同じ扶余族で兄弟の国であった)滅亡と663年の白村江の戦いの敗北である。その後に壬申の乱で天智天皇は病死(恐らく暗殺された)、大友皇子=弘文天皇も恐らく殺され、勝った大海人皇子が天武天皇に即位している。天武天皇の男系子孫が途絶えて天智天皇の子孫の光仁天皇が即位し、以後は天智天皇の子孫だけが皇統となっている。この光仁天皇が廃后・廃太子しその後死去(恐らく暗殺)した自分の妻子の井上内親王と他戸親王(母が45才の時生まれており、実子ではない可能性もある)の祟りを恐れて作ったのが秋篠寺であるようだ。この井上内親王は天武天皇の女系の子孫であり、他戸親王は女系を挟んだ天武天皇の子孫ということになる。この二人を殺し、井上内親王の娘・孫も子を残すことなく世を去ったことで天武天皇の血統は皇統から永遠に排除されたのである。
天武天皇は親新羅政策を採っており井沢元彦の「逆説の日本史」では新羅系ではないかとされている。飯山一郎氏の言う「済州島=沈羅系」よりも恐らく正しいだろう。新羅は超大国唐と朝鮮半島で対立しており、日本を味方に付けることは死活的に重要であったからだ。天智天皇は自分の二人の娘(一人は持統天皇)を天武天皇の后とし、もう一人の娘は天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の后としている。天武天皇が恐るべき実力者であったからこそ3人の娘を后にしたのだ。天武天皇は生まれた年が不明で兄の筈の天智天皇より年長との話もあり、実は全く血縁のない新羅系渡来人であった可能性は十分あるだろう。
ここで私が想像するのは1688年の英国の名誉革命である。天武天皇=オレンジ公ウィリアム、天智天皇=ジェームス二世、持統天皇=メアリー二世と擬えれば、壬申の乱とは日本版名誉革命であることがわかる。イングランドが対岸の大陸の小国オランダに国を乗っ取られたのと同様に、日本は壬申の乱で対岸の大陸の小国新羅に国を乗っ取られたのだ。これは、唐の侵略の脅威に対抗するには新羅と同盟するしかないという現実的な判断でもある。唐は支配階層が鮮卑拓跋という遊牧民族であり、元と同様の遊牧民族による制服王朝である。それ故に軍事力も強大であった。白村江の戦いは第一次の元寇なのだ。
天武天皇と持統天皇の間では恐らく、天皇の后は天智天皇の子孫にすることで日本の皇室の血統を女系ではあるが維持することで合意があったのだと思われる。「持統天皇」という名前は、新羅系に天皇の地位を乗っ取られた苦しい状況の中で、女系で天智天皇の血を守り続けたことを意味しているのだ。天武天皇崩御後は草壁王子が皇太子でありながら天皇になれず、母の持統天皇や妃の元明天皇が皇位を継いでいるなど、露骨に天武天皇の男系子孫を皇位から異物として排除する動きが見られる。皇室の菩提寺である泉涌寺で天武系天皇が奉られていないのとよく合致する。唐の脅威に対抗するには、日本の皇室が新羅系と百済・日本系の共同統治であるかのように唐に見せつけることが必要不可欠である。ただ、形式上は共同統治と見せかけながらも可能な範囲で、異国・異民族の新羅の影響力を排除したいと日本政府が考えていたのだろう。
さて、755年から763年の安史の乱で超大国唐は一挙に弱体化し、日本侵略の危険はほぼ消滅した。玄宗がやむを得ず寵愛する楊貴妃を殺したとされる事件である。この時の日本の天皇は天武天皇系列の最後の男系天皇である淳仁天皇(在位758-764年)である。淳仁天皇は孝謙天皇=称徳天皇に764年に廃位を宣告され、脱走後捕まり765年に病死している(恐らく暗殺)。この廃位の764年の前年には唐・ウイグル(モンゴル高原を支配)。その他の西域商人などが関与した国際的事件である安史の乱が終結、その後唐の弱体化につけこんだ新たな外敵チベットの侵入と首都長安占領が起きている。この状況を見た日本政府は、もはや唐による日本侵攻の脅威はなくなり、日本の皇室に新羅系天皇を置くことで唐に対する抑止力とする必要がなくなったと考えたことだろう。一年間のタイムラグは不安定な航海での情報伝達に「かかった時間と考えられる。その後井上内親王と他戸親王(新羅が日本での影響力拡大を狙って送り込んだスパイ?)を殺すことで新羅系女系皇族も排除されていき、長かった国難は終わりを告げるのである。
私が知る範囲では、淳仁天皇の廃位と安史の乱の関連性は指摘されていない。大海人皇子の正体も不明なままである。ただ、状況証拠を積み上げ論理的思考でそれらを組み合わせると深い関連が疑われる。日本史は従来日本国内だけで完結した歴史として扱われてきたが、実際には国際情勢を深く反映している筈である。そして、それが「新羅系王族による日本国乗っ取り」という屈辱的な事態であるが故に入念に隠蔽され、国内で完結した嘘の日本史が流布されてきたのだろう。淳仁天皇の廃位を行った未婚の女帝・孝謙上皇=称徳天皇は道鏡との姦通説で有名だが、これは天武系から天智系への皇統移転を正当化するための世論操作ではないかと想像する。雅子妃は現代の道鏡である。
秋篠寺は第一の国難である白村江の敗戦と天武王朝に関連して設立され、第二の国難である元寇にも大元帥明王を通じて深く関係している。秋篠宮は泉涌寺を守る会の会長を務めることからも分かるように、今上天皇や皇太子が恐らく南朝系=長州系天皇であるのとは異なり北朝系=孝明天皇の血を引いていると思われる。明治維新以来皇室が二系となってしまったことは明治維新以来現在まで続く第三の国難に深く関係している。秋篠宮の名は国難に立ち向かってきた秋篠寺から取られたのだ。それは、秋篠宮が国難に立ち向かい解決する指導者として天皇陛下から指名されたことを意味する。現皇太子の徳仁殿下は恐らく淳仁天皇と同様の行方を辿り廃太子となるシナリオであろう。このような「秋篠」の言葉が持つ深い意味合いに気付いたが故に私はこの度秋篠寺を訪れたのであった。このブログの読者の皆さんも是非秋篠寺を訪れられることをお勧めする。
日本の第一の国難は安史の乱によって終わった。現在の第三の国難は、9月17日発表のFOMCや9月18日のスコットランド独立投票、9月20日のG20財務大臣・中央銀行総裁会議、11月9日のカタルーニャ独立投票等の結果次第だが、国際金融資本の劇的な弱体化によって終わりそうな気配である。これは現代版の安史の乱に他ならないのだ。長く辛い国難の日々はもうすぐ終わる。読者の皆さんも私も、秋篠宮を中心にしてもう少しの間、皆で団結して国難に立ち向かっていこう!!!
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秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
歴史[編集]宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている(一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたとも言う)。
宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。
宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。
(日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた[1]。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。[2]人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った[3]。)
(翌年3月『宮中でしきりに奇怪な事が起こるため』再び「大祓」を行い、僧六百人を招き大般若経を転読させた。宝亀8年9月、ついに内大臣・藤原良継が亡くなった。11月には天皇御自身が、そして12月には皇太子(山部親王、後の桓武天皇)までもが病気になった)。
秋篠寺に関する文献で、『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入した、という記述がある(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。
その翌年の天応元年(781年)、ついに富士山までもが噴火(富士山の噴火史)し、12月、光仁天皇は崩御されるに至った。勅願から5年後のことである。
『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われたことが見える。勅願寺であるが故に皇室とも関わりの深い寺院である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%AF%A0%E5%AF%BA
●秋篠寺
礼宮さまは,平成2年のご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜りました。その当時、妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ておられるという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れました。また、昨年(2006)には、秋篠宮家の長男、悠仁(ひさひと)さまが誕生されます慶事がありお寺は賑わいましたが今は静寂な境内で感動を覚えるお寺に戻っております。
秋篠寺といえば伎芸天で、美しい魅力尽きない伎芸天像に憧れてわざわざ大和まで来られる女性が引きも切れないことは異例です。特にキャリアーウーマンには絶大な人気を誇っております。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/akisinoderano.htm
●My Life Log: 秋篠寺の仏像
秋篠寺で有名なのは、伎芸天像とならんで大元帥明王像がある。秘仏で通常は大元明王院に祀られている。
大元帥明王は、画像が殆どで仏像姿はここだけである。猛烈な怒りの表現をしており、官立系の寺院で祀られる。国家大難時にのみ持ち出されて大難除去を祈る。(だから普段は仕舞っておける図像が多い) 高野山 西南院、 京都 醍醐寺、東寺 には図像、秋篠寺立像を含めて4像が現存している。これら4像とも13-14世紀に作られている、即ち元寇の大難の時期にあたり、国家安穩を祈祷したものである。
それ以来、大元帥法は宮中のお正月に行われる年中行事となっている。
日本は歴史に残る大難の時だ。 この時代こそ、薬師如来と大元帥明王の出番ではないのか。
http://mylifesytle.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html
●天智天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
●天武天皇 - Wikipedia
天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
概要[編集]舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。
名[編集]名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯[編集]出生年[編集]天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時年齢を記し、舒明天皇13年(641年)時点での天智天皇の年齢を記して生年を計算可能にしているのが、むしろ例外的である[5]
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である[6]。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた[7]。
1974年に作家の佐々克明がこの違いをとらえ、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている[8]。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王との間にもうけた子で、天智天皇の異父兄である。
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世[編集]天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。
葬儀[編集]10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇であ
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
●てげてげ 2008/05/10(土) 飯山一郎
天武天皇は,済州島の御方である!
http://grnba.com/iiyama/more3.html
【私のコメント】この記事は参考として引用したものであり、私は天武天皇が済州島出身かどうかは疑問と思っている。
●安史の乱 - Wikipedia
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
背景[編集]安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。
史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
挙兵[編集]李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。
安禄山軍の構成[編集]盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らとが参画した[2]。
当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。
洛陽陥落と燕国建国の宣言[編集]唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[3]。
唐軍の状況[編集]唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。
哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
長安制圧[編集]唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]。
唐の敗走[編集]パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[5]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
唐、ウイグルへの援軍要請[編集]756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する[6]。10月に、オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。
756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[7]。
葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[8]。
安禄山の暗殺[編集]一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。
安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。
唐・ウイグル連合軍による奪回戦[編集]粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する[9]。
757年9月、葛勒可汗は太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[10]。
唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[11]、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。
757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて安軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。
郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。
11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[12]。
翌758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ[13]、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。759年4月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である[14]。
史思明[編集]759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される[15]。
史朝義討伐[編集]762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する[16]。
762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。
唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた[17]。
劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる[18]。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。
なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。
その後[編集]この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。
唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。
日本への影響[編集]このような唐の動乱の影響は海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている[25]。
更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
●淳仁天皇 - Wikipedia
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
経歴[編集]人物[編集]天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
聖武天皇の遺言によって立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に廃された道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により4日後の同年4月4日(4月26日)に立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。
践祚[編集]天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。政策は、唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。また、仲麻呂主導の政権は平城宮の改築を実施し、それに伴って天皇は小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としている。
ところが、保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[1]。
追放[編集]天平宝字8年(764年)9月に恵美押勝の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。廃位と同時に、上皇は重祚して称徳天皇となった。一方先帝である淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)を奉られることはなかった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない[2]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
●井上内親王 - Wikipedia
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。
経歴[編集]養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。
光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。
宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●酒人内親王 - Wikipedia
酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。
略伝[編集]宝亀元年(770年)、父白壁王(光仁天皇)が即位したため、11月6日に三品に叙せられる。宝亀3年(772年)3月2日には母の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、5月27日には連座して弟の他戸親王も皇太子を廃されてしまうが、この一連の事件の最中である11月13日、突如19歳で伊勢の斎王に卜定、潔斎のためしばらく籠もる宮として春日斎宮に住まうことになる。同5年(774年)9月3日、潔斎を終えて伊勢へ下向、翌6年(775年)4月27日、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により退下した。
帰京後に自分の母と弟の幽閉と死によって皇太子の座についた異母兄山部親王(後の桓武天皇)の妃(ひ)となったが、その背景として斎王卜定と同じく、井上内親王・他戸親王派の抱き込みを狙った山部親王側の政治的配慮があるのではないかとも疑われている[1]。[要出典]なお、信憑性にはやや欠けるものの、『水鏡』に光仁天皇が酒人内親王の立太子を検討していたとの記述があり、事実であれば桓武天皇やその周辺にとっては警戒すべき存在であったことになる。宝亀10年(779年)に朝原内親王を産むが、この朝原内親王ものちに斎王に卜定されたため、祖母・母・娘と3代にわたり斎王を勤めたことになる。朝原内親王が弘仁8年(817年)に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の弘仁14年(823年)1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している[2]。この遺言状で、内親王は養子にした式部卿、大蔵卿、安勅内親王の3親王に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、ともに埋葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、と述べ、天長6年8月20日、76歳で薨じた。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は政争に翻弄された波乱のものであったといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●朝原内親王 - Wikipedia
朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月14日))は、桓武天皇の皇女。母は妃酒人内親王。伊勢斎王、のち平城天皇妃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%8E%9F%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●欧州のユダヤ系王族男子による名誉革命型の皇室乗っ取りの危険はないか? - 国際情勢の分析と予測 2006年08月22日
私は「愛子女帝」を諦めていないのは、小和田恒氏ではなく、ユダヤ金融資本=イルミナティだと思います。ユダヤ金融資本出身者(具体的には、欧州の王族男子)を愛子女帝の夫にして、日本の皇室を乗っ取ってしまうのが目的ではないかと思います。
名誉革命では、1688年にイングランド王ジェームズ二世の反対派に招請されてオランダの統領であるオレンジ公ウィリアムが妻メアリー(ジェームズ二世の娘)と共に英国に出兵、ジェームズ二世の亡命後にウィリアム三世とメアリー二世が共同統治者になっています。ウィリアム三世はオランダの統領を兼任していました。当時ユダヤ商人の本拠地であったオランダの首長が英国王を兼ね、王室を乗っ取った訳です。同じ事が日本の皇室でも起きることが危惧されます。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/f2d7d27f15dd824247443bce4538da4d
【私のコメント】
三連休を利用して旅行してきた。目的地は京都府南部の精華町・木津川市の学研都市と、奈良市にある秋篠寺である。前者は私がかつてブログ記事で新皇居予定地として取り上げた場所であり、その現地視察が目的であった。内容は改めて後日記事にする予定である。今回の記事のテーマは秋篠寺である。
車で学研都市から西大寺に向かう途中に秋篠寺がある。駐車場に車を止め門をくぐると、境内は鬱蒼とした木々が生い茂り、木々の根元は一面に苔が覆っていてまるで絨毯の様である。受付で参観料を払って中に入る。庭の中の本堂にある「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」が第一の目的であった。
文仁親王は平成2年に結婚した後に天皇陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名である「秋篠」に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜った。その当時、紀子妃殿下の横顔が、伎芸天像に似ているという評判が立ったという。確かに伎芸天像の眉は紀子妃殿下の眉にそっくりである。その後、秘仏の大元帥明王を見たかったのだが一年に一回しか見れないとのことで断念、本堂入り口の受付で販売していた写真集で我慢する。優美な伎芸天像とは対照的な筋肉質の男性象で、怒りに満ちあふれた表情である。連休というのに参拝者は私の他に3人だけ。いずれも目的と思われる伎芸天像の前の長椅子に座って仏像を長時間眺めていた。帰りがけに本堂の入り口の受付と寺の入り口の受付の両方で「よくお参りいただきました」とお礼を言われたことに感動した。
さて、この記事の目的は単なる観光案内ではない。大元帥明王が元寇という国難の時期に作られている。目的は国難から日本を守るためと考えて間違いない。現在の日本もまた国際金融資本支配下の米軍に敗北し占領され、ごく最近にも大地震や原発事故という悲惨な経験をしている。今ほど大元帥明王の力が必要な時期は無いのだ。
日本は元寇・第二次世界大戦敗北の他にもう一つ、合計で建国以後3回の国難を経験している。最初は西暦660年の百済(日本と同じ扶余族で兄弟の国であった)滅亡と663年の白村江の戦いの敗北である。その後に壬申の乱で天智天皇は病死(恐らく暗殺された)、大友皇子=弘文天皇も恐らく殺され、勝った大海人皇子が天武天皇に即位している。天武天皇の男系子孫が途絶えて天智天皇の子孫の光仁天皇が即位し、以後は天智天皇の子孫だけが皇統となっている。この光仁天皇が廃后・廃太子しその後死去(恐らく暗殺)した自分の妻子の井上内親王と他戸親王(母が45才の時生まれており、実子ではない可能性もある)の祟りを恐れて作ったのが秋篠寺であるようだ。この井上内親王は天武天皇の女系の子孫であり、他戸親王は女系を挟んだ天武天皇の子孫ということになる。この二人を殺し、井上内親王の娘・孫も子を残すことなく世を去ったことで天武天皇の血統は皇統から永遠に排除されたのである。
天武天皇は親新羅政策を採っており井沢元彦の「逆説の日本史」では新羅系ではないかとされている。飯山一郎氏の言う「済州島=沈羅系」よりも恐らく正しいだろう。新羅は超大国唐と朝鮮半島で対立しており、日本を味方に付けることは死活的に重要であったからだ。天智天皇は自分の二人の娘(一人は持統天皇)を天武天皇の后とし、もう一人の娘は天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の后としている。天武天皇が恐るべき実力者であったからこそ3人の娘を后にしたのだ。天武天皇は生まれた年が不明で兄の筈の天智天皇より年長との話もあり、実は全く血縁のない新羅系渡来人であった可能性は十分あるだろう。
ここで私が想像するのは1688年の英国の名誉革命である。天武天皇=オレンジ公ウィリアム、天智天皇=ジェームス二世、持統天皇=メアリー二世と擬えれば、壬申の乱とは日本版名誉革命であることがわかる。イングランドが対岸の大陸の小国オランダに国を乗っ取られたのと同様に、日本は壬申の乱で対岸の大陸の小国新羅に国を乗っ取られたのだ。これは、唐の侵略の脅威に対抗するには新羅と同盟するしかないという現実的な判断でもある。唐は支配階層が鮮卑拓跋という遊牧民族であり、元と同様の遊牧民族による制服王朝である。それ故に軍事力も強大であった。白村江の戦いは第一次の元寇なのだ。
天武天皇と持統天皇の間では恐らく、天皇の后は天智天皇の子孫にすることで日本の皇室の血統を女系ではあるが維持することで合意があったのだと思われる。「持統天皇」という名前は、新羅系に天皇の地位を乗っ取られた苦しい状況の中で、女系で天智天皇の血を守り続けたことを意味しているのだ。天武天皇崩御後は草壁王子が皇太子でありながら天皇になれず、母の持統天皇や妃の元明天皇が皇位を継いでいるなど、露骨に天武天皇の男系子孫を皇位から異物として排除する動きが見られる。皇室の菩提寺である泉涌寺で天武系天皇が奉られていないのとよく合致する。唐の脅威に対抗するには、日本の皇室が新羅系と百済・日本系の共同統治であるかのように唐に見せつけることが必要不可欠である。ただ、形式上は共同統治と見せかけながらも可能な範囲で、異国・異民族の新羅の影響力を排除したいと日本政府が考えていたのだろう。
さて、755年から763年の安史の乱で超大国唐は一挙に弱体化し、日本侵略の危険はほぼ消滅した。玄宗がやむを得ず寵愛する楊貴妃を殺したとされる事件である。この時の日本の天皇は天武天皇系列の最後の男系天皇である淳仁天皇(在位758-764年)である。淳仁天皇は孝謙天皇=称徳天皇に764年に廃位を宣告され、脱走後捕まり765年に病死している(恐らく暗殺)。この廃位の764年の前年には唐・ウイグル(モンゴル高原を支配)。その他の西域商人などが関与した国際的事件である安史の乱が終結、その後唐の弱体化につけこんだ新たな外敵チベットの侵入と首都長安占領が起きている。この状況を見た日本政府は、もはや唐による日本侵攻の脅威はなくなり、日本の皇室に新羅系天皇を置くことで唐に対する抑止力とする必要がなくなったと考えたことだろう。一年間のタイムラグは不安定な航海での情報伝達に「かかった時間と考えられる。その後井上内親王と他戸親王(新羅が日本での影響力拡大を狙って送り込んだスパイ?)を殺すことで新羅系女系皇族も排除されていき、長かった国難は終わりを告げるのである。
私が知る範囲では、淳仁天皇の廃位と安史の乱の関連性は指摘されていない。大海人皇子の正体も不明なままである。ただ、状況証拠を積み上げ論理的思考でそれらを組み合わせると深い関連が疑われる。日本史は従来日本国内だけで完結した歴史として扱われてきたが、実際には国際情勢を深く反映している筈である。そして、それが「新羅系王族による日本国乗っ取り」という屈辱的な事態であるが故に入念に隠蔽され、国内で完結した嘘の日本史が流布されてきたのだろう。淳仁天皇の廃位を行った未婚の女帝・孝謙上皇=称徳天皇は道鏡との姦通説で有名だが、これは天武系から天智系への皇統移転を正当化するための世論操作ではないかと想像する。雅子妃は現代の道鏡である。
秋篠寺は第一の国難である白村江の敗戦と天武王朝に関連して設立され、第二の国難である元寇にも大元帥明王を通じて深く関係している。秋篠宮は泉涌寺を守る会の会長を務めることからも分かるように、今上天皇や皇太子が恐らく南朝系=長州系天皇であるのとは異なり北朝系=孝明天皇の血を引いていると思われる。明治維新以来皇室が二系となってしまったことは明治維新以来現在まで続く第三の国難に深く関係している。秋篠宮の名は国難に立ち向かってきた秋篠寺から取られたのだ。それは、秋篠宮が国難に立ち向かい解決する指導者として天皇陛下から指名されたことを意味する。現皇太子の徳仁殿下は恐らく淳仁天皇と同様の行方を辿り廃太子となるシナリオであろう。このような「秋篠」の言葉が持つ深い意味合いに気付いたが故に私はこの度秋篠寺を訪れたのであった。このブログの読者の皆さんも是非秋篠寺を訪れられることをお勧めする。
日本の第一の国難は安史の乱によって終わった。現在の第三の国難は、9月17日発表のFOMCや9月18日のスコットランド独立投票、9月20日のG20財務大臣・中央銀行総裁会議、11月9日のカタルーニャ独立投票等の結果次第だが、国際金融資本の劇的な弱体化によって終わりそうな気配である。これは現代版の安史の乱に他ならないのだ。長く辛い国難の日々はもうすぐ終わる。読者の皆さんも私も、秋篠宮を中心にしてもう少しの間、皆で団結して国難に立ち向かっていこう!!!
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僕は支持してます。
本家の菩提寺岡山県旧西大寺に新羅からもらった鐘があるらしい
江戸時代に越前より来ました
三宅久之先生はとは家紋も宗派も岡山出身も同じです
が新羅と関係がるらしいです
藤原北家の拠点なのでしょうか?
神社合祀と平成の大合併で標的にされ岡山市になってしまい西大寺の名称は消えました
全くその通りです!!
朝日新聞は自爆し、マスゴミ一層、工藤会も捜索と、在日南朝鮮勢力排除と「除染」は進行中です。
今回の「安史の乱」は「除染活動」「中韓の分裂・消滅」でしょうかね?
prince先生がいるから心強いです。
いらないのは、『のん気』だけだ。
やる時はやる。やることはやる。
修造先生の応援のお陰か分からないが、毎日が楽しい。
修造先生にも感謝です。
松岡修造・有名なシーンを集めてみた。 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pXwEFM4UcFU
初めてプリンスの人間臭さを見た気がする。
それだけ嬉しさが込み上げているという事か。
私もプリンスの言う状況証拠を論理的思考力で構築する事をよくやっているが、
プリンスのこの記事は恐らく正しいと私も思う。
そういえば、日本の政治の奥深くの住人であると思われる二階堂ドットコムの二階堂氏も、
途端に皇太子夫妻批判をしだしたな(また同時に企業経営者や大企業の幹部がブログで次々と皇太子夫妻批判をしだした。合図でもあったのだろうか?)
もしそうであれば、
秋篠宮に皇位が移ることによって天皇家は東京という牢獄を脱出できるのだろう。
そういった意味では、雅子妃のスクープやスキャンダルはみな計算されているのだろうか?
秋篠宮に皇位が移る正当性を強くするために(特に対国民感情)、わざと批判をされるような事を行っているのだろうか。(直接、皇太子自身が批判をされるような事を行えば、天皇家自体の名誉に傷がつくので妻がそれを行っている?)
もしそうであれば、雅子妃も国難に立ち向かう者として静かにたたえたいところだ。
戦後アメリカにあやかって利益を追求しぶくぶくに太ってきた卑しい売国連中どもも、皇太子夫妻の廃嫡とともに沈んで欲しいものだ。
新しい時代に、古き悪しきものは必要ないので。
後は皇居周辺の皇居を監視する目的のスパイビルの連中どもも、一網打尽にして欲しい。