夫は重い足取りで出て行き、フォルチュナ氏はほっと一息吐いた。確かに、彼は今の場面で十分に冷静さを見せていたが、内心ではヴァントラッソンが自分に飛び掛かり、羊の肩肉のような大きな両手で打ち据え、小切手を奪い取り、燃やし、車道に投げ捨て、自分自身は殆ど死んだも同然の状態でぐったり横たわる図が頭に浮かんでいた。
今やその危険は去り、マダム・ヴァントラッソンまでもが、彼が待たされることにじりじりしないよう、慌てて彼の機嫌を取り始めた。このみすぼらしい店の中で一番まともな椅子を彼に勧め、是非何か飲んでいただかなくては、せめて甘口のワインでも、と主張した。彼女は酒瓶を引っかき回して探しながら、彼に礼を述べるのと愚痴をこぼすのを交互に繰り返していた。曰く、自分には泣き言をいう権利がある、自分にも良い時代はあった、が、結婚してからというもの呪いのようなものが掛けられてしまった、このような惨めな境遇に陥ることになろうとは夢にも思わなかった、あのシャルース伯爵のもとで働いていた幸福な時代には……。
フォルチュナ氏は、いかにも同情を持って聞いているという態度の下に、深い満足を隠していた。十分な計画もなしにやって来たというのに、この事態は彼が期待し得たより千倍も好都合に進んでいるではないか。彼はヴァントラッソン夫妻に対し訴訟に持ち込む権利を保留することで彼らの信頼を得、巧みに夫人と二人きりで話しをする機会を得たのだ。それどころか、この夫人は、彼が尋ねようと目論んでいた質問をする前に、自ら進んでごく自然に話し出してくれたのだ。
「ああ!今でもシャルース伯爵のところで奉公をしていればねえ!」と彼女は言っていた。「給金は六百フラン、それと同額の贈り物、だから実質その二倍だったですよ! ……ああ良い時代だった! それが、こんなことになって!人は自分の運命に満足しないもんなんですね。それに、始末の悪いことに、人には心てもんがある……」
彼女は、客にお出しすると言った『甘口のワイン』を探し出すことが出来なかったので、カシス(クロフサスグリの実のリキュール)をブランデーで割ったもので代用することにし、カウンターに置いた大きなグラス二つに半分まで注ぎ入れた。
「ある夜のことですよ、不幸が始まったのは」と彼女は言葉を続けた。「ルドゥットのダンスホールでヴァントラッソンに出会ったんです。十三日のことでした。だから用心しなくちゃいけなかったのに!そんなこと、出来なかったんですよ。ああ、あのときのあの人の姿を見たら! 素敵な軍服姿でね。パリ共和国衛兵隊に入ってたんですよ、あの人は。女たちはもう皆夢中でね……あたしもすっかり目が眩んじまった……」
彼女の口調、身振り、傷を負った唇をすぼめる仕草などすべてが、苦い失望と取り返しのつかない後悔を物語っていた。
「ああ!見てくれの良い男たち!」彼女は言い継いだ。「何も仰らなくて結構……こいつはね、あたしの金に目をつけたんです。あたしは一万九千フランを貯めてましてね。結婚してくれないか、とあたしに言ったんですよ。あたしは愚かにも承知しました……ええ、愚かですとも。だってあたしは四十歳だったのに、彼は三十歳。あいつが欲しかったのは、あたしじゃなくて、あたしの金だってことに気がつくべきでしたよ……。結局、あたしは勤めを辞め、彼をずっとあたしの傍に置いておくために、あいつに兵役代理人まで買ってやったんですよ。(革命直後の1792年、軍隊補強の必要に迫られた立法議会は志願兵を募ったが、戦役は毎年12月1日に終わる、とされていたため、軍隊は人員の不足に悩まされ、義務的な兵役制度を作る必要に迫られた。選考には従来の抽選・指名の方法が用いられたが、一方で代理人制度が明記された。これは金持ちに革命への資金貢献を求める意図であったが、実際には富裕層を兵役から免除する結果となった。)
彼女は過去の自分の信じやすさを思い出し、次第に興奮し、悲劇的な身振りで、これらのあまりに残酷な記憶と決別しようとでもするかのように、グラスを掴み、一息に飲み干した。但し、客に次の一言は忘れなかった。
「あなた様の健康に!」7.31