しかし彼は独り言を言うのをやめ、馬車の通れる立派な門の陰に用心深く身を隠した。粋な身なりのフロランはヴィル・レヴェック通りでもひときわ豪華な邸の門の呼び鈴を鳴らしていた。門が開けられ、彼は中に入っていった。
「ふうむ、長い距離じゃなかったな」とシュパンは思った。「抜かりはないな、子爵と男爵夫人……近所なんだから、花を送ったりするのも便利というわけだな……」
彼はあたりを見回し、一人の老人が自分の店の前でパイプを吹かしているのを見つけた。その老人に近づいて行き、丁寧に話しかけた。
「ちょっとものをお尋ねしますが、あちらの立派なお宅はどなたのお住まいかご存じですか?」
「あれはトリゴー男爵邸さ」と相手は口からパイプを離さず答えた。
「それはどうも有難う存じます」とシュパンは鹿爪らしく答えた。「こんなことをお聞きしましたのも、わたくし家を一軒買おうと考えておりますので……」
こう言うと、彼はトリゴーという名前を四、五回繰り返して記憶にしっかり刻み付けた後、今度は脚をラ・ヴィレットの方向に向け、全速力で走り始めた。まるでルーレットの上を転がっているかのように自分自身にも信じられないような速さで疾走して行く彼は有頂天になっているように見えた……だが、実際はそうではなかった。事がうまく運び過ぎ、彼は逸る心を抑えられなかったのだ。ポケットに入っている手紙は真っ赤に焼けた鉄のように感じられた。
「マダム・ポール……」と彼は低い声で呻るように呟いていた。「これがあの悪党の正式な妻に違いない。そもそも、ポールというのはあいつの名前だ。彼女がタバコ屋の権利を買ったらしいということは話に聞いている……だから間違いない!……あの二人は仲の悪い夫婦なんだとばかり思っていたが、手紙で連絡は取り合ってるんだな……」
この手紙の中味を知るためだったら、彼の言葉を借りれば、一ショピーヌ(二分の一リットル)の血ぐらい流したって構わない、というところだった。封を開けて中を見てみたいという気持ちはやまやまだったが、彼を押しとどめたものは残念ながら人としての礼節ではなく、あの手ごわい暗紅食の封蝋であった。しかも金粉がちりばめられ、非常に入念に固められていたので、ほんの少しでも破ろうとすればたちまちその形跡を残すようなものだった。シュパンはフロラン対策に阻まれていたと言える。ド・コラルト子爵は下男の手の付けられぬ好奇心から身を護るためにこの封蝋を用いていたのだ。というわけでシュパンに出来ることは、その封書の表書きを何度も眺めることと、便箋から発するクマツヅラとアイリスの匂いを嗅ぐことだけだった。しかし機敏な彼は素早く疑惑を察知し、いろいろと推測を巡らし始めた……。11.9こ
「ふうむ、長い距離じゃなかったな」とシュパンは思った。「抜かりはないな、子爵と男爵夫人……近所なんだから、花を送ったりするのも便利というわけだな……」
彼はあたりを見回し、一人の老人が自分の店の前でパイプを吹かしているのを見つけた。その老人に近づいて行き、丁寧に話しかけた。
「ちょっとものをお尋ねしますが、あちらの立派なお宅はどなたのお住まいかご存じですか?」
「あれはトリゴー男爵邸さ」と相手は口からパイプを離さず答えた。
「それはどうも有難う存じます」とシュパンは鹿爪らしく答えた。「こんなことをお聞きしましたのも、わたくし家を一軒買おうと考えておりますので……」
こう言うと、彼はトリゴーという名前を四、五回繰り返して記憶にしっかり刻み付けた後、今度は脚をラ・ヴィレットの方向に向け、全速力で走り始めた。まるでルーレットの上を転がっているかのように自分自身にも信じられないような速さで疾走して行く彼は有頂天になっているように見えた……だが、実際はそうではなかった。事がうまく運び過ぎ、彼は逸る心を抑えられなかったのだ。ポケットに入っている手紙は真っ赤に焼けた鉄のように感じられた。
「マダム・ポール……」と彼は低い声で呻るように呟いていた。「これがあの悪党の正式な妻に違いない。そもそも、ポールというのはあいつの名前だ。彼女がタバコ屋の権利を買ったらしいということは話に聞いている……だから間違いない!……あの二人は仲の悪い夫婦なんだとばかり思っていたが、手紙で連絡は取り合ってるんだな……」
この手紙の中味を知るためだったら、彼の言葉を借りれば、一ショピーヌ(二分の一リットル)の血ぐらい流したって構わない、というところだった。封を開けて中を見てみたいという気持ちはやまやまだったが、彼を押しとどめたものは残念ながら人としての礼節ではなく、あの手ごわい暗紅食の封蝋であった。しかも金粉がちりばめられ、非常に入念に固められていたので、ほんの少しでも破ろうとすればたちまちその形跡を残すようなものだった。シュパンはフロラン対策に阻まれていたと言える。ド・コラルト子爵は下男の手の付けられぬ好奇心から身を護るためにこの封蝋を用いていたのだ。というわけでシュパンに出来ることは、その封書の表書きを何度も眺めることと、便箋から発するクマツヅラとアイリスの匂いを嗅ぐことだけだった。しかし機敏な彼は素早く疑惑を察知し、いろいろと推測を巡らし始めた……。11.9こ