エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2020-07-23 08:58:07 | 地獄の生活

「よし! お前が案内しろ」

この提案が珍しかったと見え、シュパンは戸惑いを見せた。

「え?行くんですかい、こんな時間に?」

「ああ、そうだとも。閉まっているわけじゃないだろう?」

「いや、そんなこたないっす。そりゃ確かなこって。ヴァントラッソンはホテルの他に、食料品屋もやってるし、酒も売ってるんすから……少なくとも十一時までは開いてまさぁ。ただ、ですね。この親爺はちょいと変わったとこがあって、食事の間邪魔されるのを嫌うんですよ。もし彼の家に行くのが、請求書を突き付けるためなら……ちょっと時間が遅すぎるんじゃないかと。あっしが旦那だったら、明日まで待ちますね。雨が降ってるし、猫一匹だって外に出ちゃいませんぜ。あそこはぽつんと人里離れたところでね、取り立てになんぞ行った日にゃ、どんなやり方で支払いをするか……手あたり次第の物で……例えば棍棒とか……」

「お前、怖いのか?」

この疑念はあまりにも滑稽だったので、シュパンは腹も立てなかった。返事の代わりに彼は軽蔑するように肩をすくめただけだった。

「それじゃあ、出発するとしよう」フォルチュナ氏が言った。「俺が支度している間、お前は馬車を見つけて来い。良い馬のにするんだよ」

シュパンは稲妻のように出て行き、階段を雷のような音を立てて転げ落ちるように駆け降りた。家を出たところに辻馬車の乗り場があったが、彼はフェイドー通りまで走る方を選んだ。そこに知っている貸し馬車屋があるのだ。

「馬車ですね、旦那!」彼が近づいてくるのを見て、御者の何人かが声を掛けた。

彼は返事をしなかったが、馬の一頭一頭を通らしく吟味し始めた。昼間の暇な時間をマルシェの馬市で馬商人たちと過ごす男といった風だった。そのうちの一頭が彼の気に入った。彼は御者に合図し、貸し馬車の事務所の方に近づいて行くと、そこでは一人の女が本を読んでいた。

「俺の五スー(1スー=5サンチーム)を貰うよ、姐さん」と彼は要求した。

女は彼をじろじろと見た。このような場所の多くでは、主人のために馬車を借りに来る召使には二十五サンチームを渡す習慣がある。この少額の手当が顧客を掴むのである。しかし、この窓口の女は、シュパンが召使ではないことを見抜いて、躊躇った。シュパンは良い顔をしなかった。

「気を付けねぇと、ポケットに穴が空くぜ」彼は言った。「何ならおたくの競争相手のとこへ行くからな」

シュパンの口調に恐れをなした女は彼に五スーを渡し、彼は満足の顰め面を浮かべながらポケットにしまった。この金はちゃんと正当に自分のものだ。これだけの手間を掛けて手に入れたのだから。

しかし、ボスの部屋に戻り、馬車が門のところで待っていると告げた時、彼は危うく倒れそうになった。フォルチュナ氏はシュパンのいない時間を利用して、変装するところまでは行かないものの、外見にかなり手を加えていた。7.23

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2020-07-18 19:31:21 | 地獄の生活

実際、彼の目は、敵の砲火に曝されている戦線の作戦変更を決断する将校のそれになっていた。

「しかし、即刻行動に出ることだ」彼は付け加えた。「一刻も早く」

彼は、時計を見ながら立ち上がった。

「九時か!」と彼は言った。「今夜中に戦場に赴かねばならん」

シュパンは隅でじっと動かず、しおらしい態度を崩さずにいたが、好奇心のあまり呼吸さえ抑えていた。彼は視線を落としていたが、出来る限り耳をそばだて、ボスのどんな小さな動きも逃さじと、油断なく気配を窺っていた。

ひとたび決心してしまえば、すぐに行動を起こす人間であるフォルチュナ氏は、引き出しから分厚い書類の束を取り出した。証書、書簡、受領書、請求書、不動産登記証書、羊皮紙に書かれた証明書等の束であった。

「ここに、必ず必要な口実が見つかる筈だ」と彼は、書類の束をかき混ぜながら呟いた。しかし、すぐには見つからず、じれったさに襲われた様子なのが、熱に浮かされたような性急な動作から窺えた。が、ついにぴたりと動きを止め、満足のため息が漏れた。

「ああ、やっと……」

彼は、垢に汚れ皺くちゃになった一枚の古い約束手形を手に取った。それは執達吏の令状にピンで留めてあったので、期日までに支払いがなされなかったことを示していた。この約束手形をフォルチュナ氏は頭上に掲げてひらひらさせ、手でぱちんと弾き、満足の態で言った。

「ここから攻撃を開始するんだ……ここから。もしカジミールが間違っていなかったら、俺にとって絶対必要な情報を手に入れてやる」

彼はひどく急いでいたので、書類をきちんと元通りに戻すことをしなかった。元の引き出しにぽんと投げ込むと、シュパンに近づいた。

「確かお前だったな、ヴィクトール」と彼は言った。「家具付き貸間を所有しているヴァントラッソン夫妻の支払い能力について調べ上げたのは?」

「へい、そうでさ。でも、その回答は伝えましたぜ。望みはないって……」

「ああ、分かっている。そのことじゃないんだ。彼らの住所を覚えているか?」

「よく覚えてるっすよ。現在は、アスニエール通りに住んでるっす。城壁跡を越えたところの右側で……」

「番地は?」

シュパンはぐっと詰まり、思い出そうとし、なかなか思い出せないので、猛烈に髪の毛を掻き毟り始めた。これが、何かを思い出そうとして思い出せないときの彼の癖なのだ。

「ち、ちょっと待っておくんなせい」彼はたどたどしく言った。「番地は、ええと、十八か四十六で、つまり…」

「もういい」フォルチュナ氏は遮った。「ヴァントラッソンの家の辺りまで連れて行ったら、分かるか?」

「ああ、それでしたら、もっちろん、目隠ししてたって大丈夫でさ……その家は目に浮かんでるっす。がたがたになったでかいぼろ家っすよ。隣は空き地になってて、後ろは野菜畑……」7.18

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2020-07-16 12:25:49 | 地獄の生活

怒りのため、彼の口角には泡が溜まっていた。今の彼を見れば、いつもの温厚で人当たりの良い彼の姿を誰も信じられないであろう。

「だがしかし、侯爵とても無傷というわけではない。俺と同じだけ、いや俺よりも損失が大きいだろう。何が確実な商売だ!確実に大儲けが出来る投資だなどと抜かしおって! これが駄目なら、それではどんな投資をすればいいと言うんだ! 金はどこかに投資せねばならん。地下室に隠しておくわけにもいかんではないか……」

シュパンはいかにも気の毒だ、という顔をして聞いていたが、それはほんの表面だけに過ぎなかった。内心では、彼は大喜びしていた。この状況では、彼の利害は彼の雇い主のそれとはまったく逆だったからだ。もしフォルチュナ氏がシャルース伯爵の死によって四万フランを失うとすれば、シュパンの方は百フランを葬儀で稼げる。まるまる百フラン! 年利五フラン!彼が折りあるごとに出入りしている葬儀屋が彼に支払ってくれるのだ。

「せめて遺言でもあればなぁ」フォルチュナ氏は言葉を続けていた。「いや、しかし、そんなものは見つからんだろう。確信がある。予め用心をするのは、四スーしか持っていないような貧乏人だ。通りで辻馬車に轢かれるかもしれん、などと考えて、署名入りの遺言書を作る。ところが、百万長者はそんなことは考えない。自分は不死身だと思ってるんだ……」

彼ははたと言葉を止め、考えに沈んだ。ようやく考えることが出来るようになったのだ。彼の興奮は素早く消えた。その変化は急激だった。

「結局のところ」彼はゆっくりと落ち着いた声で言い始めた。「伯爵が遺言を書いていようが、いまいが、ヴァロルセイはド・シャルースの何百万かを諦めざるを得ん。もし遺言がなければ、マルグリット嬢は一文も貰えない。はい、さようなら、だ。もし遺言があれば、あの娘は突然自由で裕福な身となり、ヴァロルセイを追っ払うだろう。彼女が別の男を愛していたら猶更だ。ヴァロルセイはそう言っているわけだが……で、そうなりゃやっぱり、はいさようならだ」

フォルチュナ氏はハンカチを取り出し、鏡の前に立った。額の汗を拭い、乱れた髪を整えた。彼は大事件が起きても、茫然とはしても打ちのめされたりはしない男の一人だった。かっとなり、大騒ぎして喚き散らすが、最終的にはきっぱりと決断を下すことの出来る男だった。

「結論から言えば」彼は呟いた。「俺の四万フランは得失勘定に入れるしかないようだ。この同じ事業で何とか取り戻すことが出来るか、それはやってみないと分からない」

彼は冷静さを取り戻し、自分の能力が十全に機能しているのを感じていた。これほど頭脳が明晰だったことはなかった。彼はデスクの前に座り、両肘をつき、額を手で覆い、じっと動かなかった。思考に集中するあまり、肉体が消滅したかのようだった。しかし五分後に立ち上がったとき、彼の身振りは勝ち誇っていた。

「そうだった」と彼は呟いたが、あまりに低い声だったのでシュパンの耳には届かなかった。「俺としたことが迂闊だった!もしも遺言がないなら、何百万フランかの四分の一は俺のものじゃないか!ああ、自分の領分をちゃんと心得てれば、戦いに負けることなんてあり得ない」7.16

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2020-07-15 16:02:20 | 地獄の生活

「遅刻だな、ヴィクトール」とフォルチュナ氏が穏やかな口調で言った。

「確かにそうっすけど、あっしのせいじゃないんで、これが。あっちは上を下への大騒ぎをやってましてね、おかげでこっちは長い間立ちん坊でさ……」

「え、どういうことだ? どうしてだ?」 

「いいですかい、こういうことっすよ。 シャルース伯爵が今晩脳卒中を起こしましてね、今頃はもう死んでいるかも……」

フォルチュナ氏はいきなりパっと立ち上がった。顔は蒼白になり、唇は震えていた。

「脳卒中……」彼は喉を締め付けられたような声で言った。「俺は破産だ……」

それから、ドードラン夫人に聞かれてはまずい、と思ったのか、彼はランプを掴むと自分の執務室に急ぎ足で向かいながら、シュパンに向かって叫んだ。

「後について来い!」

シュパンは一言も発さず従った。はしっこい若者である彼は、最も重大な状況に順応するすべを心得ていた。通常ならば、彼は素晴らしい絨毯が床を覆っているこの部屋に通されることはなかった。また、用心深くドアを閉めた後も、恭しく帽子を手にしたまま、ドアにぴったりくっついて立っていた。しかし、フォルチュナ氏は彼がそこに居るのも気づかぬ風であった。暖炉の上にランプを置いた後、怒り狂った様子で部屋の中をぐるぐると歩き回った。まるで捕らえられた野生動物が、逃げ出すための出口を探しているかのようだった。

「もしも伯爵が死んだら」彼は口に出して言った。「ド・ヴァロルセイ侯爵は破産する。何百万フランという金が失われるのだ!」

この打撃はかくも過酷で、しかも思いがけぬものであったため、彼は現実を受け入れることが出来ず、また受け入れたくもなかったのである。彼はまっすぐシュパンに向かって歩いてきたかと思うと、首根っこを捕まえて揺すった。まるで起きてしまったことを帳消しにすることがシュパンに出来るかのように。

「そんなことがあってたまるか」彼は言った。「伯爵が死ぬだなんて……。お前の聞き間違いか、誰かに騙されたんだ。お前は思い違いをしたんだろう。遅刻したことの言い訳をしたかっただけなんだな。おい、何か言え!答えろ!」

生まれつき、ものに動じないシュパンだったが、雇い主のこの激しい動揺ぶりを見て、さすがの彼も殆どたじたじとなった。

「カジミールさんが言ったことを、そのまんまお伝えしてるだけですぜ」 

彼は詳しく語ろうとしたが、既にフォルチュナ氏は荒れ狂った様子でまた歩き回り始め、喘ぎながら苦しい胸の内を吐き出していた。

「俺の損失は四万フランになる」と彼は言っていた。「四万フランの現金を、あそこの俺のデスクの隅で数えたんだ。今でも目に浮かぶ。ヴァロルセイ侯爵に彼のサインと引き換えにこの手で渡したんだ。十八か月かけて貯めた俺の貯金。五分の年利なら二千リーブルだ。それなのに、今手元に残るのは、花押の押された証書だけ、ただの紙屑だ!……糞、あの侯爵め! しかも今夜にもまたやって来る筈だ……まだ一万フラン彼に渡さねばならない。そこの引き出しの中に、金貨で置いてある。ようし、来てみろ、侯爵め、さあ来い!」7.15

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2020-07-14 15:35:50 | 地獄の生活

II

 

イジドール・フォルチュナ氏が居を構えているのは、ラ・ブルス広場二十七番地の中二階であった。彼はそこにかなり立派なアパルトマンを持っていた。サロン、食堂、寝室、そして大部屋が一つあり、そこでは二人の従業員が日がな一日書き仕事をしている。更に、立派な執務室もある。それは彼の聖域であり、彼が考え事をしたり瞑想に耽る場所なのだ。これらすべてひっくるめて家賃は年たったの六千フラン、家賃の相場からすれば、はした金程度の価格である。おまけに契約では、屋根裏の三・二平方メートルほどの小部屋を使う権利も与えられていた。彼はそこに召使のドードラン夫人を住まわせていた。彼女は世の辛酸をなめてきた四十六歳の女性で、彼の食事の世話をしていた。フォルチュナ氏は独身ではあったが、家で食事をする男だったからだ。五年前からこの界隈に住んでいる彼は非常に良く知られた存在だった。家賃や税金、それに行きつけの店の支払いは滞らせずきちんとやるので、彼は一目置かれていた。パリでは、一目置かれるからといって即信用にはつながらない。が、百スーをどこで稼いだかを問われたりはしないものだ。一目置かれれば、それで十分なのである。

それに、イジドール・フォルチュナ氏がどこで金を得ているか、人々はよく知っていた。彼の収入には確かな証拠があった。彼は係争中の訴訟や借金などの取り立てを業務としていた。そのことは彼のドアにエレガントな盾形紋地の銅板の上にはっきりと書かれている。そして彼の仕事は頗る順調に運んでいるに違いない、と人々は見ていた。彼は屋内で働く従業員以外に、六人の外回りに従事する人間を雇っていた。顧客は大勢彼のもとを訪れるため、ときどき管理人が文句を言うほどであった。宗教行事の列よりも大勢の人が詰めかけるので、建物の階段がそのために破損した、というのである。

隣人に対し、信頼関係を築く前に、より多くを期待したり、別のやり方を要求するのは、行きすぎというものであろう。公平を期するため、次のことは付言せねばならない。彼の外見、振る舞いや態度はどんなに気難しい人間でも好意を持ってしまうような性質のものであった。年齢は三十八歳、几帳面で優しく、教養があり、感じの良い話し方をし、非常に男前で、常により洗練された趣味を模索している、というような服装をしていた。仕事においては、丁寧だが厳しく、霊安室の板石のように冷酷であると非難されたが、誰しも自分の流儀で物を言うものだ。

一つ確かなことは、彼は決してカフェに行かない人間だということである。夕食後、外出することがあるとすれば、それは近所の裕福な仲買人の家で開かれる夜会に出席するためだった。彼は煙草の臭いが大嫌いで、信心深く、日曜八時のミサは欠かさなかった。家政婦は彼が結婚することを考えているのではないか、と怪しんでいた。それは当たっているかもしれなかった。いずれにせよ、フォルチュナ氏がいつものように一人で夕食を終え、極上の紅茶をちびちびと味わっていたとき、控えの間の呼び鈴が鳴り、来客があることを告げた。ドードラン夫人が急いで開けに行き、ヴィクトール・シュパンが姿を現した。走って来たため、すっかり息を切らしていた。ラ・ブルス広場からクールセル通りまでの距離を二十五分以内で駆け抜けてきたのだ。7.14

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