アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

わたしは小麦色の肢体が好きだ

2025-02-06 15:02:28 | ダンテス・ダイジの風光

◎どこまで行ってもきりがない・・・(老子狂言)

 

どこまで行ってもきりがない・・・

 

あなたと言ったら

すでに

わたしが含まれていた

 

地獄と思ったら

もうそこには

天国が花開いている

思うがままに生きるのだ 

思わないままに生きているのだ

 

快楽と苦痛とは 

果てしのない戯れを戯れている 

この神秘のカオスのただ中には

永遠に答えなぞない

 

私はどこにも行き着きはしない 

どこに到達する必要もない

ニルヴァーナとマーヤーの 

交合歓喜は続き続ける

これが至福だとも知らずに 

これがやすらぎと生命力だとも知らずに

 

あなたが何をしたところで 

あなたにわかるものなぞ

一つとしてない

死がわからないと同じように 

わたしの言葉もわかりはしない

 

わたしは

小麦色の肢体が好きだ 

太陽と輝くエメラルドの海が好きだ

ニルヴァーナを愛し 

マーヤーを愛している

 

どこまで行ってもきりがない・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

ここには、既に自分個人が神人合一した時の実感がならんでいる。

あなたとわたし、地獄と天国、快楽と苦痛、それを

【思うがままに生きるのだ 

思わないままに生きているのだ】。

 

今ここを生きるということは、そういう実感を生きるということだが、どうだろうか。

 

だからといっても、何でも好きなわけではなく、

【わたしは

小麦色の肢体が好きだ 

太陽と輝くエメラルドの海が好きだ】。

これは水平の悟りが好きだということ。

 

今ここが、至福でやすらぎと生命力だが、あなたがある限り、

【あなたが何をしたところで 

あなたにわかるものなぞ

一つとしてない】。

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今は、帰れないことになっているらしい

2025-02-06 07:15:08 | ダンテス・ダイジの風光

◎人にはすべて夢があり(老子狂言)

 

『人にはすべて夢があり

 

人にはすべて夢があり、 

その悲しみは大きい。

 

あなたは、

かつて私に秘密を打ちあけた、

ささやき声で・・・ 

底力のあるささやき声で、

私は彼方の古里から来たものだが 

今は、帰れないことになっているらしい。

 

すべてに宿る無限性を教えてくれた 

アストラル界でのあなた———

最後の天使も、

今は、何処にいるのか?

 

私の

イトシイヒト 

今、一度、やさしくも堂々と帰っておくれ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【人にはすべて夢があり、 

その悲しみは大きい。】

これは、欲望と絶望、不条理の堂々巡り。それが本当にいやになったところで先に進む。苦しみですらまんざらでもないと思っている人は多い。

 

【アストラル界でのあなた———

最後の天使】ダンテス・ダイジは、徹底した霊がかり排除である。いまだに、高級神霊を見たとか、霊がかかったとか、宇宙人に出会ったとか、霊がかり花盛りな人々もいる。そういう人々を横目に、ダンテス・ダイジが、高級神霊のポジティブなサポートに言及したのは、「観音に出会ったのはポジティブであったが、それだけのこと」みたいなニュアンスの話をしたことが一回あるきりである。

霊がかりは、どんなにハイレベルであっても、天国地獄を超えることはない。神仏は天国地獄の先にある。

 

【最後の天使】は、【私のイトシイヒト】だが、このテクノロジー全盛で、他人の悪意に寛容な地獄的な時代には、アストラル界の【最後の天使】が戻ってくれば混乱を助長するだけなのだろう。

万人が神知るみろくの世、至福千年に至って、すべての人が普通に霊があることを認めるようになってから、【私のイトシイヒト】が戻ってくるのではないか。

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オレと冥想とは流れもの

2025-02-06 06:41:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎ドナルド・シモダ(老子狂言)

 

ドナルド・シモダは、大ベストセラーのリチャード・バックの『イリュージョン』に出て来る聖者。彼は飛行機乗りで、最後頭を銃で撃たれる大けがを負いながら、リチャード・バックに末期の言葉を述べるシーンは印象的だ。水平の悟りを得ているドナルド・シモダには、透徹した孤独感がある。

リチャード・バックの前世記憶から出してきた救世主入門は、この本で初登場、世に知られることとなった。

 

『ドナルド・シモダ

 

オレたちゃ空の遊び人 

オレと冥想とは流れもの

干し草畑をふらふらと 

おてんとさまに包まれて

冥想 お前がオレの情婦だ 

黒いガーターちらりと見せて

酒場で踊る女より 

オレはお前と寝たいんだ 

お前の中で寝ていたい

雲は二人の愛の巣だ 

風や嵐は恐くない

すねるお前がなお恐い 

白い尻から火を吹いて

お前が怒ればオレは死ぬ 

死んでもくいはないけれど

王冠かむった帝王や 

ペントハウスの金持ちが

手をのばしてもとどかない 

七千フィートの甘い大気

それが二人の絹布団 

オレたちゃ空の流れもの

 

 

いくたびもなく・・・

いくたびもなく・・・

ここに終わり 

ここに始まる

今は死ぬに最高の時だ!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【いくたびもなく】は、「鳥は鳥に帰るのだ(老子狂言)」とモチーフが同じ。

出口王仁三郎の「死生観」の転生観と同様に、大悟の後、ただの凡俗に戻って再び大悟を冥想により目指す、超長期の転生観を感じる。

 

【今は死ぬに最高の時だ!】

これは、自殺を勧めているわけでなく、禅でいう大死一番を遂げ(十牛図第八図)、今しかない今ここを生きるのだ。

 

詩全体を通したメインテーマは、冥想の戯れ

『今 ここに 冥想は戯れ

かつて誰も見知らぬ

まったく新しい 人間と文明とを産んだ』

(超宗派的冥想/雨宮第慈 巻頭言から引用)』

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太乙金華宗旨の光について-5

2025-02-06 03:43:40 | 覚醒のアーキテクチャー

いっさいの思考が消えることを思考の集中という

 

このあたりから光の話が出て来る。

 

ポイントは、以下。

  1. 中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめ、その中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。これを思考の集中という。
  2. 生命と空虚さは内なる神が持つ二つの顔だ。それをただ見守りつづけていたら、人は、完全無欠な顔と無の顔を持つ神になる。

 

開眼は光の外向、閉眼は光の内向とあるが、ここでは、閉眼を勧めている。だが、半眼の冥想もある(ヴィギャンバイラブタントラとは別のことを言っている)。

※『光があなた自身の実存に降り注ぐ』とは、中心太陽への突入だろうか。

※一寸四方:人間一人が周天すれば、天地万物すべてのものが、自分一人とともに周天する。そしてこれは、一寸四方のところで生起する。

(一寸四方に入る大きさの身体は、コーザル体だけである。コーザル体は、小さな種なしぶどうの大きさと言われ、生きている時は、心臓内部の位置にある(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ))

さらに、太乙金華宗旨の第二章では、人が胎内に入る時、目と目の間の方寸に元神があり、下方の心臓?に識神があるとする。

目と目の間の方寸(一寸四方)は、経穴マップや人相学では印堂と呼ばれ最重要とされる。

眉間(印堂)と心臓は区別され、ここではまず印堂の話しか出ていない。

チベットでは、器具で眉間の奥に穴を開ける話がある。でも天光は、肉体レベルの話ではない。

また一寸四方のことは、神秘生理学の記述に時々出て来るが、ダンテス・ダイジは言及なく、謎である。

 

『そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

人間は中心であると同時に周辺でもある。周辺に向かって動いてゆくと、たくさんの思考が湧き起こってくる。周辺は”多"から成っている。中心はひとつだ。中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめる。まさにその中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。この秘法の書が 述べているのはそのことだ――それにより思考の集中が起こる。

 

光は内側に向かって動いてゆかなければならない。

樹を見ているとき、あなたの目は、その光を樹に向かって放出している――光は外に向かって動いている。目を閉じると、光は内側に向きを変えはじめる――メタノイア、悔い改め、回帰が起こる。そして光があなた自身の実存に降り注ぐとき、自己認識、自己知が生まれる。その自己知はあなたに自由をもたらす――いっさいのしがらみからの自由、いっさいの執着からの自由、死からの自由、肉体からの自由を。それはあなたの内部に魂をつくりだす。

 

グルジェフがよく弟子たちに言っていたのはそのことだ。あなたがたは魂をもって生まれてきたのではない、あなたは"メタノイア"によってそれをつくりださねばならない、と。

 

 

「黄庭経』にはこう記されている。「一尺四方の家の一寸四方の場所で、生命を統制することができる」

 

あなたの肉体のこの小さな寺院のなかで、生命を統制することができる。

 

一寸四方の只なかには、光輝く者が住んでいる。碧玉の都の紫の広間には、最も空虚で生命力のある神が住んでいる。

 

いかにも矛盾した言明だ――空虚さと生命。生命は男性的であり、空虚さは女性的だ。

生命と空虚さ――両者は内なる神がもつ二つの顔だ。そのどちらかを選り好みしなければ、まったく選ぶことをせず、ただ見守りつづけていたら、人は一方には死の顔を、もう一方には生の顔をもつ神に――一方には完全無欠な顔を、もう一方には無の顔をもつ神になる。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。

 

そして光が内側に向かって動き、あなたの実存のなかを巡るとき・・・・・・というのも、出口が残されていないからだ。瞑想とはまさにそれだ。仏陀が菩提樹のもとでやっていたのはまさにそれだ。

あなたは静かに坐り、すべての扉を閉める。すると光が内側で巡る。そのときあなたは肉体と肉体のなかにあるすべてのものに、そのすべての神秘にはじめて気づくようになる。この小さな肉体のなかに宇宙のいっさいの神秘が含まれている。肉体は小宇宙だ。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。それはあたかも聖王が都を建設し、支配の基本原則を定めると、すべての国が貢物を携えて来るようなものである。あるいは主人が寡黙で穏やかであれば、男女の召使が進んで主人の命令に従い、各自の仕事につくようなものである。

 

 

そしてこの光がそこにあり、あなたの内側を巡っているとき、肉体は召使になる。五感は従順な召使になる。それらをコントロールしようとする必要はない――それらはひとりでにあなたに従う。

 

これがタオの美しさだ。けっして何も強要することがなく、品性を磨きたいという欲求もない。タオは言う。ただ光に満ちあふれればいい、そうすれば他のことはすべてついてくる、と。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP35-38から引用)

 

この後、本文は、『ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ』と続く。

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