◎準備ができた者にしか指導しない方針
OSHOバグワンの全著作を眺めているが、全体の三分の一くらいがなんと禅関係であり、禅僧名のほとんどが日本語読みなので日本語の書籍を英訳したもので読んでいるだろうことがわかる。彼の最終著作が禅宣言であるのは、ずっと奇妙なことだと思っていたが、実は本当に禅を推していたことがわかった。
だが、OSHOバグワンに禅師の峻険さはない。だから禅マスターとして一流とは思えないのだ。おしゃべり過ぎて、徹底しているとは思えないのだ。
OSHOバグワンの真骨頂は、クンダリーニ・ヨーガ。彼は正師なく独力で悟った得難いクンダリーニ・ヨーギ。
だから、さぞクンダリーニ・ヨーガの技法について微に入り細に入り語っているだろうと思いきや、どうもそんなのはないようなのだ。
多数ある弟子との問答集には、「グルジェフのクンダバッファーは、クンダリーニだろう?」という質問が何回も出てくるが、OSHOバグワンは、「それは生理・肉体現象であって、クンダリーニではない。クンダリーニは、微細身にある。」というようなことを回答している。
またゴーピ・クリシュナが変なクンダリーニ?の上がり方をして熱が出たり苦しんでいた話については、OSHOバグワンは、「それは、クンダリーニではなく生理現象。」と一蹴している。
さらに瞑想セッションか何かで女性が、「背中をクンダリーニが上がっていくのを感じます。」などと言っているのも、クンダリーニでなく、想像力、暗示からくる生理現象だと言っている。
そのくせ、ダイナミック瞑想法は、クンダリーニのエネルギーが蓄積されるなどと言っている。
OSHOバグワンは、クンダリーニ・ヨーガは、自然にクンダリーニが上がった者にしか指導しないと言っているシーンがあり、道教の魏伯陽のように、自分を死ぬ準備ができた者にしか指導しない方針なのだろう。
翻って、OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガを語っているのは、ウパニシャッドやパタンジャリのヨーガ・スートラを材料にしている講話において。
OSHOバグワンは、セックス、薬物、クンダリーニ・ヨーガに関する同じような質問に、何度も回答させられている。だから存在の詩のようなえらく冗長で読みにくい講話集があるのだと思う。
その点、出口王仁三郎は、同じことは二度と言われんとしており、そういう点は考えてみるべきだろう。
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