アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

神秘にして不可知な、あらゆる宇宙を旅し続け

2025-02-13 21:07:30 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-15素直さと冒険心・根源的情熱(老子狂言)

 

『15○

素直さと冒険心・根源的情熱は、あなたに自信を与えてくれるだろう。

そして、あなたは、神秘にして不可知な、あらゆる宇宙を旅し続け、味わい続けることだろう。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

 

【神秘にして不可知な、あらゆる宇宙】とは、アメジスト・タブレット・プロローグのこの部分がふさわしいと思う。

『今ここにいることは、

君にできることではない。

君に、

今の中に完全にいることが起こったら、

余りの無気味さに圧倒されてはならない。 余りの未知・余りの神秘。

それは決して理解することはできない。

その時、すべてが開示される可能性を得る。』

アメジスト・タブレット・プロローグP176から引用

 

その時、【素直さと冒険心・根源的情熱は、あなたに自信を与えてくれるだろう。】

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平穏無事の安心

2025-02-13 19:43:50 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-14誠実であるのがいい(老子狂言)

 

『14○

誠実であるのがいい。

それは、平穏無事の安心を与えてくれる。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

人生の早い時期から不条理を感じる生い立ちを選んで生まれて来た人は別だが、人は子供のうちは、平穏無事の安心があって愛が育っていくものだ。

また大人になってからも、平穏無事の安心がなければやっていけない時期もあるものだ。

 

だから【誠実であるのがいい】。

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限りない「夢」と「真実」

2025-02-13 15:48:34 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-13君はかくありたいというイメージ(老子狂言)

 

『13○

君はかくありたいというイメージ、あるいは様々なイメージや、主観的イメージでないビジョンさえも、

さらには見性さえも、

答えにはなり得ないことに気づく時がくるだろう。

 

だが、

この絶対不可思議な、

限りない「夢」と「真実」、

この生々化々千変万化この者を、

実現することは唯一絶対の不可能だ。

——君にとっては。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

【主観的イメージでないビジョン】は、永遠不壊の霊界のビジョン、プラトンの言うイデア。具体的には、弥勒菩薩など。

 

【だが、

この絶対不可思議な、

限りない「夢」と「真実」、

この生々化々千変万化この者を、

実現することは唯一絶対の不可能だ。

——君にとっては。】

 

君にとっては、不可能だが、【この者】になりきれば、可能だ。

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限りない「何ものか」が、あなたと一体不二であったことを体験

2025-02-13 13:24:55 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-12見性においては(老子狂言)

 

『12○

見性においては、

あなたは、

限りない「何ものか」が、

あなたと一体不二であったことを体験する。

それは根源的な納得・充実・自由・歓喜・安心・生命力の爆発と称せられるものだろう。

 

私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。

・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

【見性においては、】【体験する】自分が残っている。

 

見性なのに、【それは根源的な納得・充実・自由・歓喜・安心・生命力の爆発と称せられるものだろう。】

と突っ込んだことを言っているが、

【体験する】自分が残っている。

 

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そんなものはそんなもの

2025-02-13 13:16:27 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-11悟り・見性・見神・神人合一(老子狂言)

 

『11

○悟り・見性・見神・神人合一・・・何と名づけてもいいが、

それは至福でも、幸福でも、陶酔でも、エクスタシーでもない。

そんなものはそんなものなのである。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

【悟り】には、大悟、小悟がある。

【見性・見神】は、仏や神をチラ見するだけで、神人合一ではない。

悟りを得た立場からは、【そんなものはそんなものなのである】と言ってもよいが、未悟の者が同じことを言ってはいけないと思う。

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何かわからぬが、全身全霊で求めている「何ものか」

2025-02-13 13:07:11 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言3-10ただ一人の例外もなく(老子狂言)

 

『10○

ただ一人の例外もなく、

私達の心と名づけられているものの、内部には、

何かわからぬが、

全身全霊で求めている「何ものか」がある。

その「何ものか」は、

人生の最高の成功・栄光・調和・美・悦楽・至福・遊戯自在あるいは三昧の境地・エネルギーの充溢感をも超えている「何かなのだ」。

— もっとも、

これも、かみさまの一つの、たった一つの刹那。

絶対不動の光でない光 ――― 

万物万象と一体となっている状態— 

生も死もない慈愛・至福—

もはや、

今は、

これ以上語れない。

愛情さえも、

本当に深い深い信頼さえも、

一場の茶番になってしまうような—

「何ものかだ」。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩文から引用。

 

人は、

【人生の最高の成功・栄光・調和・美・悦楽・至福・遊戯自在あるいは三昧の境地・エネルギーの充溢感】を求めるものだが、それが実現すれば面白いだろう。だが、その一歩先にある

【何かわからぬが、

全身全霊で求めている「何ものか」がある】から、この世に生まれてきているのではないか。

※想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。

 

【これも、かみさまの一つの、たった一つの刹那。】の中に須弥山もあらゆる時間も空間も封じ込まれている。これも隙間理論でいうところの隙間。

 

【「何ものかだ」】とは、

【絶対不動の光でない光 ――― 

万物万象と一体となっている状態— 

生も死もない慈愛・至福—

もはや、

今は、

これ以上語れない。】

ので、もはや体験とは言えない体験。

 

【絶対不動の光でない光】は、神あるいはタオから出る光。

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OSHOバグワンはクンダリーニ・ヨーガの技法を公開しなかった。

2025-02-13 06:59:32 | 人と神の「実際のところ」

◎準備ができた者にしか指導しない方針

 

OSHOバグワンの全著作を眺めているが、全体の三分の一くらいがなんと禅関係であり、禅僧名のほとんどが日本語読みなので日本語の書籍を英訳したもので読んでいるだろうことがわかる。彼の最終著作が禅宣言であるのは、ずっと奇妙なことだと思っていたが、実は本当に禅を推していたことがわかった。

だが、OSHOバグワンに禅師の峻険さはない。だから禅マスターとして一流とは思えないのだ。おしゃべり過ぎて、徹底しているとは思えないのだ。

 

OSHOバグワンの真骨頂は、クンダリーニ・ヨーガ。彼は正師なく独力で悟った得難いクンダリーニ・ヨーギ。

だから、さぞクンダリーニ・ヨーガの技法について微に入り細に入り語っているだろうと思いきや、どうもそんなのはないようなのだ。

多数ある弟子との問答集には、「グルジェフのクンダバッファーは、クンダリーニだろう?」という質問が何回も出てくるが、OSHOバグワンは、「それは生理・肉体現象であって、クンダリーニではない。クンダリーニは、微細身にある。」というようなことを回答している。

またゴーピ・クリシュナが変なクンダリーニ?の上がり方をして熱が出たり苦しんでいた話については、OSHOバグワンは、「それは、クンダリーニではなく生理現象。」と一蹴している。

さらに瞑想セッションか何かで女性が、「背中をクンダリーニが上がっていくのを感じます。」などと言っているのも、クンダリーニでなく、想像力、暗示からくる生理現象だと言っている。

そのくせ、ダイナミック瞑想法は、クンダリーニのエネルギーが蓄積されるなどと言っている。

 

OSHOバグワンは、クンダリーニ・ヨーガは、自然にクンダリーニが上がった者にしか指導しないと言っているシーンがあり、道教の魏伯陽のように、自分を死ぬ準備ができた者にしか指導しない方針なのだろう。

翻って、OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガを語っているのは、ウパニシャッドやパタンジャリのヨーガ・スートラを材料にしている講話において。

OSHOバグワンは、セックス、薬物、クンダリーニ・ヨーガに関する同じような質問に、何度も回答させられている。だから存在の詩のようなえらく冗長で読みにくい講話集があるのだと思う。

その点、出口王仁三郎は、同じことは二度と言われんとしており、そういう点は考えてみるべきだろう。

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