◎念仏はスタートライン
これまでの12段の観想は、まるで曼陀羅を作り上げていくように、太陽を作り、水を造り、大地を据え、大樹林を置き、川を流し、摩天楼群を配置して、続いて仏像をイメージさせて、仏・菩薩そのものを現前させるという、ユニットを一個一個作り上げていくようなきめ細かな作業の積み重ねである。
だから細切れにしか時間のとれないフツーの人達ではなかなかこの膨大な観想カリキュラムを完成することはできない。特に大きさが無限である阿弥陀仏(無量寿仏)を観想することは至難である。
それでは、まとまった時間のとれないフツーの人に救いはないのか。そこで登場するのが13番目の冥想である。
13.雑想観
阿弥陀仏は、その身を変化して出現する能力があって、1丈6尺(約5メートル)にして出現することもできる。
これを応用して、これまでの12観想を行なうかわりに、この丈六の阿弥陀仏が池の水の蓮台の上にあることをありありと観想できれば、西方の仏国土に生れることができる。
この後に器根別に(仏道修行の段階別に)、死後どのように仏国土に入るかの説明がある。その最後に不善悪業を繰り返す下品下生の人については、様々な苦しみに迫られて仏の観想をする暇がないので、臨終にあたり、心から南無阿弥陀仏を唱えれば、仏国土に往生できるとある。
南無阿弥陀仏の功徳によって、その方は亡くなってすぐ、仏国土の蓮の華の蕾に入ることができるが、それから12大劫の長い年月が経過しないとその蕾から出られず、華が開かないという条件付きではあるが。
こうして見ると南無阿弥陀仏という念仏は、修行のプロ向けの何カ月も何年もかかるような観想のシリーズができない人で、毎日悪事を積み重ねている人が、死ぬ直前に唱えれば、いつかその冥想の華が開くことを約束するものとなっていることがわかる。
つまり念仏だけで仏国土への往生はできるが、往生した後に膨大な期間の冥想修行がやはり必要であると観無量寿経は見ているということになる。つまり念仏とは、観想を主体とするクンダリーニ・ヨーガ的修行のとっかかりに位置付けられていると思われる。