◎心理上の投影を神と思い込む
昔、OSHOバグワンのところに、 いたる所に神を見る男がやってきた。この30年間、彼は、花や木や岩などあらゆる物の中に神を見て来たという。
OSHOバグワンは、男に直接確認したところ、彼は修練(サダーナ)によって万物のうちに神を見るようになったと答えた。彼は、万物のうちに神を見ることを想像したり、強く願ったりしたという。その修練を30年前に開始し、やがてあらゆるところに神を見ることができるようになったという。
OSHOバグワンは、彼に三日間ここでOSHOバグワンと一緒にいてその間、「あらゆるところに神を見ること」をやめるように申し入れたところ、彼は応諾した。
図らずも男は、その修練をやめてわずか12時間後、岩を岩として見、山を山として見始めてしまったので、もう神を見れなくなったと、OSHOバグワンに苦情を言ってきた。
OSHOバグワンは、たった12時間修練(行)をやめただけで消えてしまうようなものは神ではない。それは、想像でこしらえた作りごと、すなわち単なる心的投影であると喝破した。彼の神は、彼のオリジナルな幻想にすぎなかったのだ。
OSHOバグワンは、あらゆるものは神だが、神を見ることは、見ようとする修練の結果によるものではないとする。ただし、木、岩、山を神と見る体験とは言えない体験はあり得るが、その場合、木、岩、山だけが神でなく、人は神以外に何も見なくなる。神が岩の中にあるとは感じはしない由。この辺でOSHOバグワンは、男が偽物であることを知ったようだ。
またかの男は、見神をテーマにしているが、なぜかOSHOバグワンは、神人合一における神の見え方を語っている。(参照:死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/講談社P107-109))
またところが、一つの行に専心すれば、それで神を見ることがあり得るのが、不思議なところであると、一行専心を否定しないのがダンテス・ダイジ。
同じ状態の人でも、相手によって、TPOによって、違う意見を言うことはあり得るものだと思う。
世の中の神様詐欺、宗教詐欺にこうした手合いは多いのではないか。本人も取り巻きも疑わないのだろう。