◎果てしなく続く欲念のリィンカネーション
(2016-12-11)
ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。
『I AM NOT POET
私は、詩人でもないのに詩人にされ
私は、著述家でもないのに著述家にされた
すべては詩でもあるかもしれない
ウグイスの鳴き声も、
海ヘビの泳ぎも、詩そのものかもしれない
“すべては”という一つのパラノイア
存在・神・全知全能への欲望
果てしなく続く欲念のリィンカネーション
そして
それとなった
時なき時』
(老子狂言から引用)
私は、人間ではないのに人間として生まれ・・・・。
この時代に人は、自分の抱く欲望が、その欲望がたとえ実現したとしても、一時的、部分的、限定的なものであることを知っている。
でもって欲望にはこんなのがある。
厄除け、家内安全、商売繁昌、健康長寿、交通安全、試験合格、金運上昇、恋愛成就、美容アップ。いずれも成就したりしなかったりする。また成就してもその良い状態が永遠に続くものではない。
努力する、願望が実現する、元の黙阿弥になるということを何回か何千回か繰り返す結果、人はこのような現世的な願望成就プログラムにはキリがないことに気が付く。この感得は平均的現代人には普通の感覚ではないのだろうか。要するに諸行無常、空、色即是空を知的、感覚的に知っているのだ。これは、実は悟りの一歩手前の状態。
釈迦やキリストがいた当時は現代の多種多様の願望があったわけではないし、願望に比例した歓喜と失望があったわけでもないから、諸行無常、空、色即是空を実生活で体感できるのは、王侯貴族だけだった。だから平民以下にそれを説くときには、語るべき材料はとても少なかった。
どうにか体感させようとする場合には、観想法で想像の世界を作りそこに入り込むくらいしかなかったのだろう。
アンニュイ・退屈というのは、あらゆる願望成就と失望のサイクルに飽きた兆候である。
この時代は各人の欲望が無数に分化する一方で巨大化し、自分の欲望が他人の欲望と衝突することもまた多い。株式や証券、不動産、ギャンブルなど最初から他人とバトルするゼロサムものはその典型。だから釈迦イエスの時代に比べて、現代は諸行無常、空、色即是空について語るべき材料はいくらでもある。
こうして人は、果てしなく繰り返す欲望のリインカネーションの中で、いつしか無意識のうちに存在・神・全知全能への欲望を抱えるようになる。
この欲望を抱えること自体、破滅的であり、不可能なことだ。そんなことを発言するのは、非社会的であり、不穏当だし、正気とは思われないから誰も口には出さないものだ。
でも内心そう思っている人は少なくないのではないか。
ところがそんな不遜で誇大妄想的な願望がいつか実現する時節もある。それが“時なき時”である。
1987年の今日、ダンテス・ダイジは人知れず世を去った。