アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アメリカの遠隔透視の実情

2024-12-18 03:58:32 | 浅い霊感から神人合一まで

◎無意識の支配下にあっても意識的であること

 

熟眠中に夢を見てしまうケン・ウィルバーは、やがて熟眠中に夢を見ない状態を達成した。これが冥想修行の極み。

熟眠中に夢を見ないとは、熟眠という無意識の支配下にあっても意識的であることを継続できていることだろうと思う。

 

アメリカの遠隔透視部隊のマクモニーグル(マックモンイーグル)は、トランスという無意識優勢な状態に入っても遠隔透視のために意識的な部分を残すことができた。

 

※マックモンイーグルの上司がアットウォーター。マックモンイーグルは、オーストリアでの臨死体験があり、おそらくアストラル体で肉体を離脱したことがある。

 

『さまざまな要因のなかでも、ケルト人の血とオーストリアでの臨死体験のふたつが、マックモンイーグルにとって非常に有用な能力を与えたようだ。つまり、夢を見ているような意識の状態まで入りこんでいても、半覚醒状態を保っていられる能力である。多くの人びとが、そのような状態、「鮮明な夢」と呼ばれるたぐいのものをときどき経験することはある。夕食を食べ過ぎたあとや、病気のときなどに多い。しかし、マックモンイーグルはその不思議な状態に意のままに入りこむことができるのだった。

 

その結果、彼の遠隔透視はすばらしく現実的で、話が一貫していた。ゾーンへ入りこんだ透視のあと、しばしばどんなこまかいことまでも、自分の見てきたことを思い出して絵にすることができた。透視の最中でさえ、ときには、まるで映画館で映画を見ているかのように、その情景を説明することができた。彼には本当に簡単なことだったのだろう。

それでもたまには、透視中に解釈のむずかしい奇妙な知覚のゆがみが入りこんでくることがあった。一九八〇年ごろに、ある情報組織の依頼人がフォートミード部隊に任務をもってきた。ある人物の動きを遠隔透視で追ってもらいたいという依頼だった。ヨーロッパで活動している 外国人諜報部員をおよそ十二時間おきに、最近の数日間にわたって透視してほしいというのだ。

 

アットウォーターはすぐにマックモンイーグルを透視目標にあたらせた。ファイルには諜報部員の写真が入っていた。表には、彼が何をしているのか依頼人が知りたい特定の日時が書いてあった。アットウォーターはマックモンイーグルに、目標は人間だと伝え、任務は封筒に書かれている日時のその人物と周囲のようすを透視することだと命じた。

マックモンイーグルはゾーンに沈んでいき、指定された一連の日時を探りはじめた。ある特定の日時で、彼は丘陵地帯をうねって走る道路を感じた。透視目標の人物がその道を進む車を運転しているのだと、マックモンイーグルは気づいた。その人物は黒髪の男性で、きちんとした身なりをしており、おそらくビジネスマンだろう。マックモンイーグルはその道路と丘と車について口述した。五分ほど透視が進んだあたりで、透視目標に何か変化が起きたようで、マックモンイーグルは混乱しはじめた。「男は私の行けない場所へ行ってしまった」彼は言った。「どういう意味です?」とアットウォーターは聞いた。「そう」とマックモンイーグル。「彼の写真を見ていたら、急に写真が裏返しになったみたいなんだ」透視目標は突然消えてしまったのだ。

依頼人に透視結果を報告したあとで、アットウォーターはその写真の男が担当部員との約束の場所に現われなかったのだと聞いた。それで依頼人は男の過去の動向を知ろうとしたのだ。他の複数の遠隔透視者が結果を出してしばらくのち、依頼人はその男が、マックモンイーグルが透視した日時に、イタリアの山道で運転をあやまり、崖から落ちて死んだことをつきとめた。』

(サイキック・スパイ-米軍遠隔透視部隊極秘計画-ジム・シュナーベル/著扶桑社P85-87から引用)

 

マクモニーグルは、遠隔透視していた対象の男が交通事故で死んだ際、死んだと透視できず、男は私の行けない場所へ行ってしまって、写真が裏返しになったと知覚した。

まずマクモニーグルは、リアルタイムの透視ではなく、過去を透視している。これはすなわち現在の現界でなく、霊界の過去を透視しているということだと思う。

というのは、今ここである現在は過去現在未来が一枚板のようになっていていわば現在しかなく、時間がない世界だが、それを透視しているのであれば、亡くなっても居場所を知ることができるだろうと思われるからである。

 

さらに死後の中有などの個人を見失っても、それは知覚のゆがみではないのではないか。

遠隔透視はあるトランス状態で行われるが、この覚醒状態は、報酬も受け取るし、神仏に近づこうとしてやっているわけでもないし、そういう点では、本件は無意識状態での覚醒例ではあるが、冥想修行者の参考にしてはいけないところなのだろう。

はたしてマクモニーグルの透視が精確になるほど、彼の結婚生活は破綻していったという。

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真実の道心はむずかしい

2024-12-17 00:01:30 | 達磨の片方の草履

◎臨済録-心心不異

 

2024年12月15日、世界各地にレーダーで捕捉できないUFO群が出現。同日イスラエルのシリア攻撃で、きのこ雲が目撃され核使用を疑われているようだ。世界全面核戦争の予言あるいは警告として、霊界からUFOが出現したのか。

ダンテス・ダイジは、UFOは霊界のものと言っている。

 

「究極を悟ることができずに一生を終えれば、この世でむだ飯を食ったその飯代を請求される。」などとダンテス・ダイジは語っていたものだ。

 

河北省で活躍した禅マスター臨済が弟子たちに同じようなことを語る。

『「修行者たちよ、真実の道心を発(おこ)すことはむずかしく、仏法は幽玄で奥深いものだが、しかしみんながわかることは相当にわかっているのだ。わしは一日じゅう、彼らに説き明かしてやっているが、修行者たちはまったく問題にしてくれぬ。彼らは千べん万べんそれを脚の下にふみつけていながら、心中まっくらでそれを気づかずにいる。

それは一箇のきまった形がなく、しかもはっきりとして、他の力を仮りずにそれ自身で輝いているのだ。修行者たちはそれが信じきれないで、すぐに〔仏とか法とかいう〕名句の上で理解しようとする。よわい五十になんなんとして、ひたすら脇道にそれて、死屍(しかばね)を背負って行き、荷物をになって天下を歩き廻る。そんなことでは、閻魔の庁で草鞋銭を請求される日がきっと来るぞ。

 

諸君、わしが『外には法はない』というと、修行者たちはその真意を理解しないで、すぐに内にあると解して、早速壁によって端坐し、舌は上の顎(あぎと)をささえ、じっとして動かず、これが祖師門下の仏法だと思っておる。大まちがいだ。ほかならぬ君たちが不動清浄の境をそれだと考えるならば、君たちはとりもなおさずあの無明を本心と見誤っていることになる。

古人もいった、『深い深い真暗な穴こそ、実に怖るべきである』と。これがそれである。君たちがもしあの動くものをそれだと考えるなら、すべて草木はみな動くことができるのだから、当然それは道だということになる。では言おう、動くものは風の要素であり、動かぬものは地の要素である。動いても動かなくても、どちらも自性はない。君たちがもし動く所にそれを捉えようとしたら、それは動かぬ所に立つ。もし動かぬ所にそれを捉えようとしたら、それは動く所に立つ。

『ちょうど泉にひそむ魚が波を打って自分で踊るようなものだ。』諸君、動くのと動かぬのとは、二つの境にすぎぬ。実は無依の道人こそが、動くものを働かせ動かぬものを 働かせているのだ。』

(禅の語録 10 臨済録 筑摩書房P115-116から引用)

 

『壁によって端坐し、舌は上の顎(あぎと)をささえ、じっとして動かず』これは、坐禅の姿勢

 

隙間理論でいえば、現象の側が真っ暗な穴。坐禅して、不動清浄の境地は真っ暗な穴なのだ。

隙間理論でいえば、隙間のニルヴァーナの側が道。

  

上掲『それは一箇のきまった形がなく、しかもはっきりとして、他の力を仮りずにそれ自身で輝いているのだ。』。

だから上掲『外には法はない』。これは隙間の側。

 

※無依の道人:大宇宙すべてが自分の所有となっている人。仏人合一。即身成仏。第六身体

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生き通しの次元

2024-12-16 03:03:43 | 浅い霊感から神人合一まで

◎大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし

 

人間の本質は神の宮。肉体を生きかわり死にかわりして人間は、永久に生き続ける。

釈迦と仏教者は人生を苦と見るが、肉体人間が永久に生き続ける場合は、苦に始まり苦に終わるので、解脱あるいは苦の卒業がなければいささか都合が悪い。

 

出口王仁三郎は、人間の本質は、精霊、神の宮であって、神と人間が合一した立場にあって、そこで人間も神も永久に生き通しと説いているように思う。

 

出口王仁三郎の歌集言華より。

『あめ地に神なきものとほこりつつ

まさかのときに手を合す曲(まが)

 

衣食住これより外に望みなき獣のはばる世こそさびしき

日の本の国の名のみは残れども外国人やけもののみ住む

 

くにの為め世人の為めと言ひながら世の大方は身のためにする

 

霊肉の分離したのを死と言へど

その本体は生き通しなる

 

人の世のあらゆる艱苦をなめつくしはじめて悟る神の大道

 

大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし

 

百千千に乱れからみし人ごころそろへて救ふ一すぢの道

 

善き事にあしきことあり曲ごとに善き事まじる現世の道

 

有りがたしかたじけなしと朝夕におもひ暮せば曲事のなし

 

片時も神をわすれぬこころこそ天国にいたる栞なりけり

 

逝く年を心にかくることなかれ不老不死なる魂と生れて

 

八百萬千萬の神ことごとく綾の高天に集ふ御代なり』

(出口王仁三郎の歌集言華より引用)

 

上掲『大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし』が、神と人間が合一した立場を示す。第六身体。

 

上掲『人の世のあらゆる艱苦をなめつくしはじめて悟る神の大道』とは、ダンテス・ダイジの言うところの、悟るということはあらゆる実感を経るということ。

 

上掲『八百萬千萬の神ことごとく綾の高天に集ふ御代なり』は、上掲『大宇宙己が所有と為すとき』には、時間のない世界のことだから常にそういう目出度き御代であるのではないかと思う。

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ダンテス・ダイジの『死生観』-2

2024-12-15 03:20:36 | ダンテス・ダイジの風光

◎生まれて死んでまた生まれ、死んで生まれてまた生まれ

 

ダンテス・ダイジの死生観続き。

『死ぬというのは人の世の

果てにはあらず 

生魂(いくみたま)の

重荷下して休むとき

神のみ前に遊ぶとき

栄えの花の開くとき

歓喜充てる時ぞかし

またもや神の命令に

神世の宿を立ち出でて

再び人生の旅をする

旅は憂いもの辛いもの

辛い中にもまた一つ

都に至る限りなき

歓喜の花は咲き匂う

 

神の御子たる人の身は

生まれて死んでまた生まれ

死んで生まれてまた生まれ

*死んで生まれてまた生まれ

*どこどこまでも限りなく

堅磐常盤に栄えゆく

常磐の松の美し世の

五六七(みろく)の神の太柱

玉の礎つき固め

高天原に千木高く

宮居を造る働きは

神の御子たる人の身の

勤めの中の勤めなり

 

ああ頼もしき人の旅

ああ頼もしき人の身の

人は神の子神の宮

神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく

五六七の世まで栄えゆく』

 

霊界物語第11巻第3章死生観に同一の文章がありましたので、この文に感銘を受けたダンテス・ダイジが筆写したものと思われます。

なお、上記文中*の2行は、ダンテス・ダイジ文にはなく、霊界物語にはあったので、当方で追記しました。

 

また霊界物語のこの部分に輪廻転生の見方がありましたので、挙げてみます。

『東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』』

(霊界物語第11巻第3章死生観から引用)

 

人間は、神の生き宮であって、肉体は乗り物。肉体が死ねば、次の人生では次の別の肉体で出るが、人間の本質が神の生き宮ということは生きようが死のうが変わらない。

神には生死の区別がないように、人間にも肉体の乗り替えはあるが、このように人間の本質に生死の区別はない。だからと言って前世記憶を持ちながら生きるのは大変なので、前世記憶は持たせず再生してくる。

この故に上掲

『神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく』なのである。

 

さて人の輪廻転生は永久に終わらないという見方は、解脱がないという見方。永久に終わらないという見方は、過去現在未来が一緒になった、今日只今しかないという現実感覚を想定しているように思う。何の問題もない世界だけが真実、これが、堅磐常盤(ときわかきわ)に栄えゆくということ。

 

※生魂について

玉の礎(出口王仁三郎)から以下引用:『(百十五)「死んで居らぬ」言ひやうと、聴きやうに依りて、生身ともなり、死身ともなるべし。日之出之神は瑞(みず)の御魂に引添ひて、高天原に現れ給へども、誰も知るものなし。生身と生魂の区別をよく弁へて、不覚を取るなかれ。肉体そのままにて神に使はるる者は生身なり。肉体を替へて神に使はるる者は生魂なり。生魂の働きある者はその者の肉体生きたると同じきなり。』

 

つまり肉体が生きているのが生身、肉体が死んでも生きていても活躍できるのが生魂。人は生きていれば、生身として神に使われ、死ねば生魂として神に使われる人もいる。一般に人は生き死ににかかわらず神に使われる。だが、生きていながら神に使われない場合もあるのだろう。

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ダンテス・ダイジの『死生観』-1

2024-12-14 06:35:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎古神道の奥義開陳

 

ダンテス・ダイジの断簡に古神道関係のものはほとんどない。道場の壁に墨色黒々と、出口王仁三郎の高熊山での開悟の歌『われは空行く鳥なれや』の一節を彼が揮毫したのを見たことがある程度だ。

 

以下は、珍しいダンテス・ダイジの古神道の死生観を歌ったもの。出口王仁三郎の霊体からダンテス・ダイジは、古神道の奥義を受けたが、誠に出口王仁三郎直伝をうかがわせる。

 

『天と地とは永久に

陰と陽との生き通し

神の水火(いき)より生まれたる

人は神の子神の宮

生くるも死ぬるも同じこと       

 

これをば物にたとうれば

神の世界は故郷の

恋しき親のいます家

この世に生まれた人生は

露のしとねの草まくら

旅に出でたる旅人の

クス野をたどるが如くなり

 

辿りたどりて黄昏に

いずれの家か求めつつ

これに宿りしその時は

この世を去りし時ぞかし

 

一夜の宿を立ち出でて

またもや旅をなす時は

まだ人間と生まれ来て

神の働きなす時ぞ

生まれて、一日働いて

死んで、一夜をまた休む』

(続く)

 

生き通しというのは、人が輪廻転生を永遠に繰り返すということではなく、現象世界の転変が止むことはないということ。輪廻転生の終わりはあると思う。

 

※クス野:三五(あなない)教(大本教のこと)の宣伝使が、アルタイ山を右に見て、西へ西へとクス野ケ原の曠野を進んで宣教するシーンが霊界物語第10巻から11巻にかけて展開している。

 

日中が活動の生で、夜が休息の死で、生が旅路で、死が生家での休息。生と死は分断していないと見る。これはマンツーマン輪廻の実態からすればどうかというところはある。

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本山博の個別神霊との合一と創造神との一致

2024-12-13 03:43:40 | 浅い霊感から神人合一まで

◎個人は完全に消滅し神となる

 

本山博は、お不動さんなどの個別神霊が人間と合一する場合は、人間は死にはしない。その人間も残ったままで、お不動さんも残っている。つまり二つのものが合わさるが、二つのままでいる。これが合一。霊能者は、このパターン。

一方創造神(第六身体アートマン)と個人が一致した場合は、個人は完全に消滅する。個人はその時死なねばならない。大死一番である。創造神とは、場所的神のことであり、有の側のことである。

第七身体は、無の側であり、創造神(場所的神)とは別のことになる。

第七身体(無、ニルヴァーナ)のことを本山博は、絶対者と呼び創造神と区別している。

 

本山博は、神秘家は、有である神を感得し接し得るが、それは無の側ではないと見ている。さらに有が絶対無に接する時、有は絶対的に無となるので、生死の場所は有であるとしている。

絶対無(ニルヴァーナ)のことは説明できないが、有の側から見た説明をしているわけである。

 

本山博が大涅槃(マハパリニルヴァーナ)に入ったかどうかはわからないが、大体はわかっているような印象である。

(参照:場所的個としての覚者/本山博/宗教心理出版P22-28)

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OSHOバグワンは頓悟の方法を開示しない

2024-12-12 12:42:38 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎頓悟の大なるリスク

(2021-01-12)

 

OSHOバグワンは頓悟の方法を開示しない。その理由の一つは、その方法を用いれば、修行者は死んだり発狂したりすることがあり得るからである。もう一つの理由は、開示すると文書として伝承され、単なる好奇心の結果、不幸な修行者が増えるからである。翻ってその教えは邪教として廃されかねない。

 

さらに頓悟の方法はグループで為されるべきであるとする。理由は修行者が長期にわたって無意識に留まり日常生活ができなくなることがあるから。

 

一人で修行する代表例は、経典やハウツー本やマニュアルだけで冥想修行するものだが、これも危険だとする。頓悟するのに必要な鍵は、経典の外に師から弟子への口伝として存在しているからである。

(以上参照:究極の錬金術Ⅰ/OSHOバグワンP177-181)

またそういった口伝を持たない師につくのも当然に危険だが、未悟の弟子は師が悟っているかどうかを見分けることなどできない。行=無意識を操作するというのは、容易に精神病になり得る技術でもある。

 

禅は代表的な頓悟の法だが、一人で修行してはならず、必ずグループで修行している。だが唐代の破仏後などは一人で山で修行する例が少なくなく、よほどの覚悟の上のことである。

錬金術書などに近道、乾いた道などという言葉に出会うことがあるが、近いがゆえに危険性も高いということは字面からも想像される。

早い安いは経済的メリットの定番だが、それを求める冥想修行は邪道であり、また一人でやる近道も危うい。だからと言って、わけのわからないカルト教団に入信するわけにもいかない。

OSHOバグワンは、ちゃんとした悟境のグルだったが、彼の宗教コミューンに参加したからといって、全員を親身に面倒を見たわけでもない。

だから、人を水辺に連れて行っても、本人が水を飲むかどうかは、あくまで本人次第なのだ。

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自己中心人間は眠れない

2024-12-12 12:33:43 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎坐って目を閉じても冥想などできない人が多い

(2020-11-07)

 

インドでは、人間のたどり着くべき境地が、熟睡中の夢を見ない状態であることを古来唱える。それを枕に、OSHOバグワンは、『自己中心人間は眠れない』とする(死・終わりなき生/OSHO/講談社P155-162)。

 

彼は、西洋における無神論の根底には、西洋人の乱れて混沌とした睡眠の状態があるとし、ニューヨークでは、三割以上の人が精神安定剤なしで眠れないという。つまり、世界の広汎な赤化の原因のひとつは、その睡眠を奪われつつある生活スタイルだと断じている。睡眠薬や精神安定剤なしで眠れるようになれば、無神論と赤化の勢いは止まるということがあろう。科学的論証は困難だが、そこに冥想が広まれば、自然な睡眠を取り戻す人が増え、無神論の暴走は止まるという法則が推測される。

 

この伝で、2千年前は、人々は目を閉じるだけで睡眠に入れたが、いまや西洋人は、目を閉じてもまぶたの下で思考が走るので、目を閉じても眠れない。同様に2千年前は、人々は目を閉じるだけで冥想に入れたのが、いまは、目を閉じても落ち着きなく不安な心なので、目を閉じるだけでは冥想に入れない。

 

睡眠できない環境では、容易にトランスが起こるので、それを利用して共産主義洗脳が行われてきたのは知られている。これは、睡眠を奪われた極みの状態。モバゲーやスマホで、中断なく操作を続けさせる工夫がゲーミフィケーションなどと言ってとても発達しているが、これも睡眠を奪うテクノロジーであって、その結果は、メリデメで成る無神論の強化であって、無思考な暗示・洗脳を受けやすい心理を作り出す。

 

かくして坐って目を閉じても冥想などできない人が多いので、まずは柔軟体操そしてハタ・ヨーガの若干のポーズでリラックス。特に死体のポーズは重要。全身くまなくリラックスを行き渡らせるのだ。そして身体を起して冥想。

 

よく資格取得講座などで、金を払ったから一生懸命やる動機とするなどということと冥想は対極にあるが、ここまで準備しないと冥想できない時代になったと覚悟して、冥想しなければならない時代になった。

 

世界の無神論化は、核戦争に至るロジックを強化し、それが発生するまで強者同士の対立が終わらないだろうとは容易に想像できる。自分ひとりの冥想が世界を救うロジックがここにある。

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本山博の「場所的個」

2024-12-12 03:29:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎「場所」には、創造神と個別神霊がある。

 

本山博の「場所的個」とは、神人アヴァターラのことのようである。三身、三位一体の構成要素としての人間のことだと思う。

 

「場所的個」とは、

  1. 「場所的個」とは、ヨーガでは「アヴァターラ」、仏教で は「応化身」、キリスト教では「神が受肉をしてキリストになった」、あるいは「神の子」のこと。
  2. この場合の「場所」というのは「神様そのもの」。だから、「場所的個」とは神とイコールな人間で、普通の人間ではない。人間なのだけれども、神様になった状態でいる人。
  3. 「絶対」と個人とのつながりを本当にこの人の存在全体で体験した人が「場所的個」
  4. 絶対と現実(相対)とをつなぎ、両方を成り立たせるものが「場所的個」。
  5. 「場所」には、創造神と個別神霊がある。創造神とは、一切のものがそこで死んだり生きたりするような、そこで宇宙が滅んだり出来たりするような 「生死の場所」。個別神霊とは、そこで一切のものが死んだり生きたりはしないが、或る範囲の場所に存在するもの、生きているものが生かされているような、そういうプルシャ的な、あるいは神霊というか、そういう場所。お不動様や観音様のようなもの。

(以上参照:場所的個としての覚者/本山博/宗教心理出版P10-12)

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本山博の最初の三次元

2024-12-11 06:59:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎心霊、神霊との一致の宗教体験と色界の四禅

 

ダンテス・ダイジの実家はかつて井の頭線三鷹台にあって(今は何もない)、駅二つ隣が吉祥寺。吉祥寺の井の頭公園の南側には、クンダリーニ・ヨーギ本山博ゆかりの玉光神社があった(今もあるかどうかは知らない)

 

ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガの教授を求められると本山博のところを勧めていたという。

出家並みの修行に打ち込める衣食住の整った環境がなければ、クンダリーニ・ヨーガの修行の継続、深化はないのだろうから、ダンテス・ダイジはクンダリーニ・ヨーガの自らの伝授には慎重だったのだろうか。

 

本山博は、七つの身体論ではないが、それなりに究極についてどう見ているかは、考えさせらるところがある。

 

『人間が、他の人間や自然と区別される小さな自分を見てと思っている間は、より大きな存在との一致の体験つまり宗教体験は生じない。しかし、死に直面する大病とか、自分が全力を尽くした事業に失敗するとかして、人間の有限な、はかなさ、小ささを自覚する時、より大きい存在との関わりが生じやすい。まして、断食、水行、瞑想等の修行を通じて、小さな自分の存在性の否定を日夜行ない、心を常により大きい存在、神或いは一切の存在を超えた絶対に向けている時、神或いは絶対は必ずその霊的成長を助け、成就せしめて、より高い存在の境位にまで次第に成長させて下さる。

 

この霊的成長には、一定の秩序と階梯がある。先ず、ヨーガの言葉を使えば、プラーナ(気)の次元、微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元)、原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元)での霊的成長がある。これらの三つの次元はそれぞれ違った存在次元ではあるが、未だ自己の存在のために身体を必要とし、身体をもち、個人のカルマ(因果)の法則に従う存在次元である。ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じる――これは、仏教でいう、色界の四禅に相当する。

 

次に、ヨーガでいうプルシャの次元、すなわち、己れの存在のために身体を必要としない、個人のカルマを超えた存在次元での、プルシャ(神々)との一致の宗教体験が生じる仏教でいう無色界の四禅に相当する---。

 

以上の、心霊・神霊や神々との一致の宗教体験による霊的成長が単なる主観的なものでないことは、霊的成長に応じて、物の世界を精神の力で直接支配できる能力、ヨーガの言葉ではシッディ(神通力)が生じることから、明らかである。これらのシッディに関する科学的証明については、拙著「Psiと気の関係」「ヨーガの生理心理学的研究」等々を参照して戴きたい。』

(場所的個としての覚者Piiから引用/本山博/宗教心理出版から引用)

 

上記の三つの次元とは、

・プラーナ(気)の次元:第二身体(エーテル体)

・微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元):第三身体(アストラル体)

・原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元):第四身体メンタル体または第五身体コーザル体

と考えられるが、特に原因身(カラーナ身)については、よくわからないところがある。

 ともあれ以上三つの次元については、個の次元なので、コーザル体以下だとわかる。

 

ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じるのは、色界の四禅に相当するとしているが、色界の四禅とは、釈迦が入寂する際に大涅槃(マハパリ・ニルヴァーナ)に飛び上がったスタート地点として重要なポイントである。

 色界の四禅と聞いても、私が大学生の時には聞き流したであろう言葉であり、汗顔の至りである。

 

この引用文では、この個の次元では、神通力(霊能力)が使えるようになることをことさらに言っているが、いわゆる科学的証明ということを考えた場合に、物質の世界とこうした次元が連動している証明のためには神通力があることを言わねばならなかったのだろうと思う。

だが往々にして、そこを信じない連中に無理に証明しても、結果は必ずしも善いことばかりではないのではないか。

イエスが復活した後に、ディディモのトマスにイエスは、破れたわき腹に手を入れさせたが、そこまで親切にしてあげる例は少ないのではないか。

超能力、霊能力を示さなくとも、もとより人間には、衣食住があることが奇跡ではある。

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鳥に餌をまいても逃げられる人

2024-12-10 06:03:55 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎私に殺す心があるからです

禅の食事作法では、生飯といって餓鬼に施すため米飯数粒を膳のわきにのけて、係が全員の生飯を集めて野鳥に供する。

 

ある日、院主が鳥に生飯をやろうとしているのに、なぜか鳥が皆飛んで逃げる。

趙州「鳥はあなたを見て、どうして鳥が飛んで逃げるのですか?」

院主「私がこわいからです。」

趙州「なんということを言っているのだ。」

趙州は、院主に代わって言った「私に殺す心があるからです。」

 

現代人は、何はさておきメリット・デメリット、タイパ、コスパと他人を出し抜いて一円でも儲かってやろうという気持ちの人が多い。幼少時から、敵をせん滅することを繰り返すモバゲーで成長してきたせいか他人を殺し続けるのはお手のもの。

 

だが四六時中そればっかりでは、一日のうちにどうしても安らぐ時間を求めることになる。

冥想、瞑想は、本来そんなリラックスのための道具ではないが、半ば精神病の人が正気とされる現代では、まずだんだん呼吸を落としリラックスから冥想を始めるのも致し方ないことだと思う。

 

内心で鳥を殺そうとしている院主の心は、ともすれば現代人の心であって、意馬心猿。

自分の癒しのためにペットを飼い始め、諸事情で殺処分のために市役所に持参したり、捨て犬・捨て猫をしたりということもあるのだろうが、殺す心がなければそういうことにはなるまい。

キリスト教は愛の宗教、只管打坐でも愛・慈悲を知る時節がある。愛や癒しを求めても、他人やペットを殺す心が心の奥底に残っていては、野鳥にも覚られようというもの。

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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-3

2024-12-10 03:28:27 | チャクラと七つの身体neo

◎八番目のチャクラならざるチャクラ

(2019-04-12)

 

「八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイント」とダンテス・ダイジは、云う。

 

人間の絶対性とは、人間を外的な部分・社会と内的な部分・個人とに自分というものを区分して認識し、個々人が分かれていながら、同時に神・絶対者から個々人が流れ出ているものであって、今ここしかない今しかないが、過去現在があるものとして時間の流れを想定してしまう認識形態とでも言おうか。

 

個と全体の並立・共存と七つの次元に亘りながら、今ここという一つながりのものの不断の変容を現実と認識する一方で、それが夢幻でもあることをよく承知することもできる。

 

その意味で、芭蕉がその庵を幻住庵と名付けたのは至高のネーミングだと思う。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。

 『だが、アメンティーの教えでは、無限絶対それ自身を、生きているあいだに体験できるとされている。

 

そして、無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私は、当然、アメンティー・タントリストとなった。

 

 私は、八番目のチャクラならざるチャクラを地球人として生き味わわずに、ニルヴァーナそのもの、つまり、いかなる顕現をともなわぬ非存在そのものとして、神の仮現としてではなく、神そのもの無限に帰郷することとして選んだ。

 

 したがって、今、私は神自身である。』

 

『無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私』、これについては、ダンテス・ダイジがどこかで言及しているが、前世を遡って幻視していったら、個なる人間が彼の転生の始まりではないことを、確認したみたいなことを書いていることを思い出す。

 

要するに、我ら俗物連と同じではないやんごとなき人なのだ。

 

この文の前段で、『クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』とするのに対し、私は、死ぬことなく、生きながら究極のニルヴァーナ、大涅槃を生きていると宣言している。

 

死とニルヴァーナ突入そして再生という定番ルートの他にルートがあるかのように語っているわけだ。

 

ここは、二律背反なことを述べている可能性があるので、ここに書いていることは嘘かもしれないなどと別のどこかで書いていることを思い出させる。

 

だが8チャクラ説というのは、チャクラというも愚かな世界そのものの転変と人間の採る世界の見方についてのごくストレートな見方でもある。だが、誤解や偏見を最も排することのできる厳格な世界観でもある。

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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-2

2024-12-09 03:22:38 | チャクラと七つの身体neo

◎大涅槃とクンダリニー

(2019-04-11)

 

サハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ、泥丸)をチャクラに数えるかどうかの議論は、頻出であって珍しいものではない。

だが、チャクラを解説した本を開くと、なにげなく会陰のムラダーラとクンダリニーが接して描かれているものだが、決してそうではないことを、ダンテス・ダイジは、8チャクラで暗示する。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。

『クリヤ・ヨーガつまり、クンダリニー・ヨーガの場合は、クンダリニーをチャクラの一つに加えるかどうかで、七チャクラズの流派と六チャクラズの流派とに別れる。同様に、サハスラーラ(ブラフマ・ランドラ)を、チャクラの一つに入れるかどうかについても言える。

 

一方、アメンティー・タントリズムにおいては、八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイントとされる。

 

アメンティー・タントリズムでは、尾骶骨に位置するクンダリニー又は、サハスラーラをチャクラの一つに数えて七チャクラズとなり、サハスラーラ・チャクラの上にと言うか、七チャクラズを絶対無・絶対精神が包含したチャクラではないチャクラ、あるいは大涅槃そのもの(釈迦が死んでから入った無限絶対自身)のことをしめし、クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』

 

まずクンダリニーを独立したチャクラと見ているのは、ムラダーラとクンダリニーが分離し得ることを示しており、同じ説を寡聞にして知らない。

 

さらに窮極のニルヴァーナ、大涅槃そのものを第八チャクラと見ているのだろう。個ではないものをチャクラとわざわざ置くのだろうか。悟った者限定の世界観を以って定番としている。

 

第八天球を意識しているのはヘルメス文書(七つの遊星天と恒星天(8番目)。だがその外側に神があるので、8チャクラ説ズバリではない)なのだが、アトランティスの残党が大挙して渡ったに相違ないエジプトに8チャクラ説みたいなものが残っているのは偶然ではあるまい。

 

今のエジプトは、観光客がテロの標的になることがあるほどの治安の悪い地域。この地でもこれから一つのスペクタクルがあるのだろう。

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ノストラダムスのセザールへの手紙を読む-3

2024-12-09 03:11:19 | メインストリーム予言と先行モデル

◎神の意志は果たされるのである

 

セザールへの手紙の続き。

『天空の、目に見える判断について言うと、私たちは今すべてを終息させる七〇〇〇年代にいるけれども、八〇〇〇年代に近づいてもいるのだ。そのとき、広大な次元にある第八番目の天球をもつ天空となり、そこで、偉大な永遠の神が変革を仕上げ、星座群は自らの運動と、地球を揺るぎない安定したものにする超越的な運動とを再開するだろう。「その運行はいつの世までも続くものではない」――神の意志が果たされないというのはありえないのだから。マホメットの夢想のようなあらゆる自然の理性を超える曖昧な説がどう言おうと、神の意志は果たされるのである。だから、創造主たる神は幾度も、炎を携えた火の使者を仲介として、予知する人にはっきりと示されるはずの未来の出来事を明かす。未来に関する予言の諸々の原因を、私たちの知覚と目に提示してみせるのである。』

(時の旅人ノストラダムス ミシェル・C・トゥシャール ボーダーランド文庫角川春樹事務所P267-268から引用)

 

七〇〇〇年代は、この現代で、七身体と七つの次元の時代。八〇〇〇年代は、至福千年、千年王国のこと。八〇〇〇年代は、第八の天球と同義で、大涅槃のこと。第八の天球を用いるのはグノーシスのヘルメス文書やミトラ教。また8チャクラ説でもあって、これは、アトランティスのアメンティー・タントリズム。

 

ダンテス・ダイジが殊更に8チャクラを言うのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』にあるクンダリーニ・ヨーガの窮極突入プロセスが念頭にあったのだろう。

 

ノストラダムスは、グノーシスやミトラ教の文献を持っていて、かつ自分でも第八の天球を確認したのだろう。文中に迫害を恐れて危険な文書を焼いた記述があるが、それはこうした類の文献だったのだろうと思う。

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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-1

2024-12-08 21:18:50 | チャクラと七つの身体neo

◎私が始めて地球へやって来たのは

(2019-04-10)

 

街も老い、国も老い、世界も老いる。するとその中の数少ない若者の中から新しい大地の到来を予感する者が出て来始める。

 

 

ダンテス・ダイジの8チャクラ説は、それまでの5チャクラ説や7チャクラ説とは一線を画す説である。まずどのボディにおけるチャクラかという前提すら、彼らにとってはあまりにも自明なのことなのか、説明を省く。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用。

『私が始めて地球へやって来たのは、今からおよそ七万年ぐらい前だったと思う。今の私は、地球ロゴスの流れに乗って、ニルヴァーナに充足した存在である。

 

 通常、地球ロゴス内のアラハンのレヴェルにある覚醒、すなわち悟りを開きつつ人間としての生存を続ける生命は、七回又は八回の転生を選ぶ者が多い。

そして八回目の転生で、地球ロゴスから、別の高次元ロゴスへ移行する者と、ブッダとして人間最後の生涯を送る者とに別れる。

 

もちろん、八転生目に、人間としてブッダの生涯を選んだ場合でも、ブッダが子供の頃からブッダの自覚を持って生まれることは難しい。現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧とを必要とする階梯にあるからである。

 

レムリア末期・プレアトランテスの時代が私の地球人としての最初の誕生であった。

 

 七回又は八回のアラハンあるいはボーディサットヴァの輪廻転生は、インドのクリヤ・ヨーガ、アトランティスのアメンティー・タントリズムなどのチャクラに対応している。』

 

7転生、8転生で転生を終了するのは、各転生において毎回大悟覚醒を持ちつつ生きるタイプの人(アラハンあるいはボーディサットヴァ)であって、万人が7、8回ではない。

 

出口王仁三郎は、艮の金神の転生は役行者であり、空海だなどと言っている(新月の光)彼らもそういうタイプの人なのだろう。俗人から見れば、超人過ぎる。

 

なぜだか知らないが、7転生、8転生は彼らのチャクラの数に対応している。

そして彼らがその転生での最初の悟りを開いた時に、7万年前に銀色の光輝く円盤で自分が始めて地球へやって来たことを思い出したりする。

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