アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

本山博の最初の三次元

2024-12-11 06:59:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎心霊、神霊との一致の宗教体験と色界の四禅

 

ダンテス・ダイジの実家はかつて井の頭線三鷹台にあって(今は何もない)、駅二つ隣が吉祥寺。吉祥寺の井の頭公園の南側には、クンダリーニ・ヨーギ本山博ゆかりの玉光神社があった(今もあるかどうかは知らない)

 

ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガの教授を求められると本山博のところを勧めていたという。

出家並みの修行に打ち込める衣食住の整った環境がなければ、クンダリーニ・ヨーガの修行の継続、深化はないのだろうから、ダンテス・ダイジはクンダリーニ・ヨーガの自らの伝授には慎重だったのだろうか。

 

本山博は、七つの身体論ではないが、それなりに究極についてどう見ているかは、考えさせらるところがある。

 

『人間が、他の人間や自然と区別される小さな自分を見てと思っている間は、より大きな存在との一致の体験つまり宗教体験は生じない。しかし、死に直面する大病とか、自分が全力を尽くした事業に失敗するとかして、人間の有限な、はかなさ、小ささを自覚する時、より大きい存在との関わりが生じやすい。まして、断食、水行、瞑想等の修行を通じて、小さな自分の存在性の否定を日夜行ない、心を常により大きい存在、神或いは一切の存在を超えた絶対に向けている時、神或いは絶対は必ずその霊的成長を助け、成就せしめて、より高い存在の境位にまで次第に成長させて下さる。

 

この霊的成長には、一定の秩序と階梯がある。先ず、ヨーガの言葉を使えば、プラーナ(気)の次元、微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元)、原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元)での霊的成長がある。これらの三つの次元はそれぞれ違った存在次元ではあるが、未だ自己の存在のために身体を必要とし、身体をもち、個人のカルマ(因果)の法則に従う存在次元である。ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じる――これは、仏教でいう、色界の四禅に相当する。

 

次に、ヨーガでいうプルシャの次元、すなわち、己れの存在のために身体を必要としない、個人のカルマを超えた存在次元での、プルシャ(神々)との一致の宗教体験が生じる仏教でいう無色界の四禅に相当する---。

 

以上の、心霊・神霊や神々との一致の宗教体験による霊的成長が単なる主観的なものでないことは、霊的成長に応じて、物の世界を精神の力で直接支配できる能力、ヨーガの言葉ではシッディ(神通力)が生じることから、明らかである。これらのシッディに関する科学的証明については、拙著「Psiと気の関係」「ヨーガの生理心理学的研究」等々を参照して戴きたい。』

(場所的個としての覚者Piiから引用/本山博/宗教心理出版から引用)

 

上記の三つの次元とは、

・プラーナ(気)の次元:第二身体(エーテル体)

・微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元):第三身体(アストラル体)

・原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元):第四身体メンタル体または第五身体コーザル体

と考えられるが、特に原因身(カラーナ身)については、よくわからないところがある。

 ともあれ以上三つの次元については、個の次元なので、コーザル体以下だとわかる。

 

ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じるのは、色界の四禅に相当するとしているが、色界の四禅とは、釈迦が入寂する際に大涅槃(マハパリ・ニルヴァーナ)に飛び上がったスタート地点として重要なポイントである。

 色界の四禅と聞いても、私が大学生の時には聞き流したであろう言葉であり、汗顔の至りである。

 

この引用文では、この個の次元では、神通力(霊能力)が使えるようになることをことさらに言っているが、いわゆる科学的証明ということを考えた場合に、物質の世界とこうした次元が連動している証明のためには神通力があることを言わねばならなかったのだろうと思う。

だが往々にして、そこを信じない連中に無理に証明しても、結果は必ずしも善いことばかりではないのではないか。

イエスが復活した後に、ディディモのトマスにイエスは、破れたわき腹に手を入れさせたが、そこまで親切にしてあげる例は少ないのではないか。

超能力、霊能力を示さなくとも、もとより人間には、衣食住があることが奇跡ではある。

コメント
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