アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

大祓と大洪水-2

2024-12-26 21:39:07 | 時代のおわりneo

◎霊界物語の大洪水

(2019-04-05)

 

霊界物語では、第六巻第三篇大峠の中の2章が大洪水に当てられている。

 

大洪水そのものは、禽獣、鳥類が、発生直前に一斉に山を目指して逃げるのに気づいた人間が、真っ先に山に逃げ、事前に大洪水があるのを予知した人間は、船を用意する。うち何百隻かが山の麓にたどりついて生き延びるのだが、サブマリンみたいな目無堅間の船でないとだめというようなことが書いてある。

 

そもそも大洪水は、霊界の太陽が、霊界高山の氷を溶かし、その水が地球に流れ込んできたものという霊界的説明であり、現界と霊界をチャンポンにした説明である。

 

大洪水の最中は、グルグル回るが上部の床がすべりやすい巨大黄金橋に乗ることができれば、洪水から助かるとか、銅橋から出る金属製の救ひの鈎につかまれば助かるなどと書いてはいるが、こうした大洪水と救命の描写の陰に隠れて、人間がいかに悟っていくかの道筋を小出しに織り込んでいる。

 

目無堅間の船などは、その最たるものだと思うし、大物神霊である野立彦神、野立姫神が天教山火口に飛び込むなどもその真意をよく冥想せねばならないと思う。

 

ある一定の意識レベルに達して、将来の大洪水シーンを幻視して、どこにどのように行けば助かるか、自分の財産、地位、名誉、権力をどう保全するかを考えるのではなく、自分が新たな神の時代、住民全員が神を知っている時代に生き残る資格を持っているかどうかを思うべきだと思う。

 

霊界物語第六巻の第三篇大峠は次のような構成になっており、第四篇立花の小戸に続く。単純な世界的大洪水の惨状と人類の救済状況とその後の新世界を描いているわけでなく、古神道の行法でどう悟るかを現界と神秘生理学ないまぜにした描写で、クンダリーニ・ヨーガ系求道者にヒントを与えていると思う。

 

 

第三篇 大峠

第一五章 大洪水(一)

第一六章 大洪水(二)

第一七章 極仁極徳

第一八章 天の瓊矛

 

第四篇 立花の小戸

第一九章 祓戸四柱

第二〇章 善悪不測

第二一章 真木柱

第二二章 神業無辺

第二三章 諸教同根

第二四章 富士鳴戸

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大祓と大洪水-1

2024-12-26 21:37:07 | 時代のおわりneo

◎古事記仲哀天皇の段

(2019-04-04)

 

古事記仲哀天皇の段で、これから熊曽の国を撃とうとしている前に、建内宿祢大臣は、神功皇后に神託を請うた。

すると神功皇后に懸いた神は、「金銀本位制度で、享楽的な西の国を帰順させようと思う」とお告げになった。

すると仲哀天皇は、「高い所に登って西の方を見れば、国土は見えず、ただ大きな海があります。」と述べ、神功皇后に懸いた神は嘘を言っていると思い込んで、琴を押しやって黙っていた。

すると神がこのような仲哀天皇のことを怒って最後に崩御に追い込むシーンに続く。

 

西の国が大海になるというのが、見間違いでなく、大洪水のことであるとは、思いもしなかった。

洪水になると屋根に上がった人が下に降りられなくなるのは、洪水災害シーンで時々目にする。

 

出口王仁三郎のつぶやき集に『大祓になったら大変なことになる。屋根の上にあるものは下に降りられぬ時が来る』

(新月の光/下巻/木庭次守編P146から引用)とは、この西の大海のことを言っていたのか。

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ベラ・コチェフスカ(Vera Kochovska)と伊勢神宮

2024-12-26 03:26:13 | 浅い霊感から神人合一まで

◎伊勢神宮にヤーウェが祀られている

 

東日本大震災の一か月前に故人となったが、ブルガリアの予言者ベラ・コチェフスカが伊勢神宮に参拝した。その際、伊勢神宮にヤーウェが祀られていると述べた。

これを聞いた人が、古神道の神社に異教のユダヤ教の神が祀られているとは・・・と驚いていた記事を読んで、そんなことを意外に思っているとはと、私も意表を突かれた。

 

全知全能にしてすべてのすべてである神は、当たり前のことだが、世界各国に存在して、これは一般に主神や主宰神などとされ、呼び名は異なるが、実体は共通であって、

天之御中主神(古神道)

道(道教)

ニルヴァーナ(インド)

ヤーウェ(ユダヤ教)

ゴッド(キリスト教)

大日如来(真言密教)

等々

宗派が変われば呼び名は変わるが、主神そのものが別の主神に入れ代わるわけではない。出口王仁三郎が万教同根と言ったのは、そういう意味だが、それを受け入れられない人が多い。また共産主義国民は、全員無神論者だが、逆に彼らにも平等に神の恵はある。

 

なお主神には、有の顔と無の顔の二つの顔がある。有の顔は、すべてのすべてにしてすべてが夢幻。無の顔は、言葉で表現できない石ころのようなもの。

 

有の側は、第六身体アートマンであり、無の側は、第七身体ニルヴァーナ。

 

この二面性についてのダンテス・ダイジの説明は以下。

 

『無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。

 

ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 

無          有    (タオイズム、禅仏教)

 

 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)

 

 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)

 

 メン         アー    (キリスト教)

 

 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)

 

 ウン         ア     (真言密教)

 

 カ          ミ     (日本古神道)』

(未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」/ダンテス・ダイジから引用)

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