◎本当の当たり前さを出す、ただそれだけ
ダンテス・ダイジが冥想の求めることを語っている。彼の片言隻句では、イメージする範囲が広すぎて迷うかもしれないが、このブログの『Overview of the meditation 冥想の全体像』や『ジェイド・タブレット』を読んだ人ならおおよその方向性は見当をつけることができるのではないか。
『ここは冥想の会なんだ。冥想の会っていうのはね、ギリギリのギリギリっていうより、本当の当たり前さを出す。ただそれだけ。
そう、まるでそう。人にはね、身体のある一カ所にね、中心っていうようなものがあるんだ。合気道の植芝盛平の弟子の誰かがね、腹の一点っていうのに気付いた時に合気道に開眼したんだ。合気道の奥義を達成したんだ。腹一点ものすごくしみじみとしたもんだぜ。それは腹でなくてもいい。胸でもいい。どこでもいい。この人差指から三センチくらいのところでもいい。その時初めて潤うんだ。触れるんだ。触れるっていうのはね、本当に触れるんだよ。それが信じ切るっていうこと。
君たちはいつも。今一つ、今一つ、今一つ。それ嫌いなんだ。どっかに乾燥した部分があると信じ込んでるんだ。ううん。現代人のやり方さ。
でも沁み渡るようなって何?そう砂漠のど真ん中をこう放浪しててさ、一杯の水にやっとありつけたって。その時、本当に沁み渡るんだよ。
どうやって? 今、おやすみなさい。』
(素直になる 雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編P190から引用)
上掲『人差指から三センチくらい』は体外の一点だが、古神道の鎮魂法では、体外の一点である鎮魂石に集中するのだが、体外の一点もありなのだなと知った。
中心というようなものに一歩進んで、信じ切って、どこか乾いた部分が潤い、沁み渡る。
それが冥想。
それで、本当の当たり前さを出すのが冥想。