理屈では分かっても、「イエスキリストを100%信じ切ることができない」ときはどうすればいいのですか?
例えとして数字で表すことをお許しください。
バプテスマを受ける前、福音についてのわたしの知識は‟1”くらいでした。
イエス・キリストに対する信頼は‟3”くらいでした。
残りの‟96”くらいは望みでした。
合わせてほとんど‟100”ですね。
だから不安をほとんど感じませんでした。
(これはちょっと普通ではないかも w)
今は知識が‟20”くらいかもしれません。
主への信頼も‟20”くらいであってほしいと思います。
福音に対する望みは‟50”くらいでしょうか。
すると‟100”に‟10”足りません。
その‟10”は心にある不安・疑いであり、サタンの誘惑です。
望みと不安はいつも揺れ動いています。
不安が大きくなって、望みを上回ると霊的に危険な状態かもしれません。
信仰とは‟知識+信頼+望み”と考えることができるかもしれません。
知識とは、心にある証であり、確固たるものであり、信仰の基盤となるものです。
信頼とは、「信じていること」であり、持ち続け、行い続けるときに、
結果として知識に変わるものだと思います。
望みとは、「こうあってほしい」というものであり、
それが主の御心に叶うものであるならやがては信頼に変わって行くものであるようです。
それですべてであればいいのですが、‟不安が付きまとう”のは常にあることです。
それが「イエス・キリストを100%信じ切ることができない」理由かもしれません。
たぶん、誰でもそうではないのでしょうか。
この世からサタンの誘惑が消えてなくなれば、楽かもしれませんね。
(これはあくまでも例えの話です)
例えとして数字で表すことをお許しください。
バプテスマを受ける前、福音についてのわたしの知識は‟1”くらいでした。
イエス・キリストに対する信頼は‟3”くらいでした。
残りの‟96”くらいは望みでした。
合わせてほとんど‟100”ですね。
だから不安をほとんど感じませんでした。
(これはちょっと普通ではないかも w)
今は知識が‟20”くらいかもしれません。
主への信頼も‟20”くらいであってほしいと思います。
福音に対する望みは‟50”くらいでしょうか。
すると‟100”に‟10”足りません。
その‟10”は心にある不安・疑いであり、サタンの誘惑です。
望みと不安はいつも揺れ動いています。
不安が大きくなって、望みを上回ると霊的に危険な状態かもしれません。
信仰とは‟知識+信頼+望み”と考えることができるかもしれません。
知識とは、心にある証であり、確固たるものであり、信仰の基盤となるものです。
信頼とは、「信じていること」であり、持ち続け、行い続けるときに、
結果として知識に変わるものだと思います。
望みとは、「こうあってほしい」というものであり、
それが主の御心に叶うものであるならやがては信頼に変わって行くものであるようです。
それですべてであればいいのですが、‟不安が付きまとう”のは常にあることです。
それが「イエス・キリストを100%信じ切ることができない」理由かもしれません。
たぶん、誰でもそうではないのでしょうか。
この世からサタンの誘惑が消えてなくなれば、楽かもしれませんね。
(これはあくまでも例えの話です)