モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

心の重荷を

2021-07-20 05:43:37 | 福音について
心に怒りがあって、イライラして、不安な時、どうすればいいのですか?


先ず深呼吸を一つして、それから祈ってみてください。
わたしはそんなとき「平安と御霊を与えてください」と祈ります。

祈りに心を集中できるなら安心です。
そこには御霊があります。
徐々に平安を取り戻すことができるでしょう。

祈っていることと別のことが心に浮かんできて祈りを邪魔するなら
(わたしにはよくあります)、サタンが邪魔をしているようです。
そんなときは少しの時間をおいて、心を落ち着かせてもう一度祈ります。


本心から‟平安と御霊”を求めているなら、諦めずに何度も繰り返すことでしょう。
‟諦めないこと”が真心から願い求めていることの神への証明になります。
不義な裁判官のたとえ話があります。
「神は日夜叫び求める選民のために…」ルカ18:1~8


心の重荷が消えてなくなることはないかもしれませんが、
重く感じられていたものが軽くなると思います。
「神が…重荷を軽くし」(モーサヤ24:14)
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神の救い

2021-07-20 05:39:58 | モルモン書
「神の他に誰も彼らを救い出すことはできなかった」モーサヤ24:21


リムハイの民とアルマの民は共にレーマン人の支配から脱出し、
ゼラヘムラの地へ逃れて行きましたが、双方の違いは興味深いものです。

リムハイの民にはゼラヘムラからアンモンが送られ、策を練り、
レーマン人を酒で酔わせて脱出し、ゼラヘムラの地までアンモンが案内しました。
(人を介しての救い)

アルマの民は、主が逃れるように命じ、主がレーマン人を深く眠らせ、
主がゼラヘムラの地まで導きました。
(主の直接の救い)

結果的には同じなのでどちらでもいいのかもしれません。
でも、なぜそのような違いが生じたのでしょうか?
この過程の違いには何の意味があるのでしょうか?

興味深いと思いませんか?
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