モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

実現する希望

2021-07-25 06:29:41 | 総大会
キリストに希望を抱くとは単なる希望的観測ではありません…期待していることが将来実現されるという意味です。
(キリストに希望を抱く バラード長老)


「もしキリストがよみがえらなかったとすれば…信仰は空虚なものとなり…」1コリント15:17

こんな質問をされたことがります。
「もしこの信仰がウソだったらどうするの?」
この質問は今も心に強く残っており、時々そのことについて考えます。

ある人がこう言いました。
「キリストを証明する材料ならいくらでもあるが、
キリストを否定できる材料はひとつも見つけることができない」

キリストの福音について‟否定できるもの”を一つでも見つけることができますか?
(教会に対する批判を聞くことがありますが、
そのほとんど(すべて?)は人の弱さに対するものです)

もしも福音を否定するとしたら、それは‟キリストを証する御霊”を否定しています。
御霊を否定する人に説明する力はわたしにはありません。
すべての証は御霊に頼っているからです。


「永遠の命を得られるように…神の証人になることを望んでいる」モーサヤ18:9

希望的観測で神の証人になることができるのでしょうか。
神の証人は、‟キリストの約束が将来実現される”という確信を得ています。

その確信はどこから、どのようにしてもたらされるものでしょうか。
キリストの羊(キリストに属する者)に与えられる聖霊の証(確信)に頼るなら、
それは明白な事実です。

神の羊、神の子ども、神の子孫、キリストに属する者、聖徒…  
(呼び名は他にもありますか?)
神に、キリストに、主の教会に、帰属意識を感じているなら、
その呼び名にふさわしいと思いますが、どうでしょうか?
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悔い改めと信仰

2021-07-25 06:18:38 | モルモン書
「悔い改めと…信仰以外にどのようなことも説かれなかった」モーサヤ25:22


‟悔い改めと神を信じる信仰”は福音の第一原則です。
主の教えは必ず‟悔い改めと信仰”に導きます。

聖典や預言者の教えをいくら熱く語ったとしても、
それが‟悔い改めと信仰”に導くものでなければ、福音とは呼べないかもしれません。
(いわゆる‟うんざりするお説教”はそれに当てはまるかもしれませんね)

たとえキリストや信仰、贖い、救い、御霊などの言葉がなくても、
人を‟悔い改めと信仰”に導くものであれば、福音と言えるかもしれません。

親(特に母親)が幼い子どもを悔い改めに導くために
教え聞かせようとする場面を見ることがあります。
それは福音に通じるもの、もしかすると福音と呼べるものかもしれません。


わたしは幼い頃、母親から「悔い改めるように」といつも教えられました。
彼女はクリスチャンではありません。
もちろん、‟キリストを信じる信仰”がなければ信仰に導くことはできませんが…

皆さんはどう思いますか?
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