モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

望みはどこから

2021-07-16 05:56:27 | 福音について
望みを持つため、望みを持ち続けるためにはどうすればいいのですか?


愛を感じるとき、心には何がもたらされるでしょうか。

幼い子どもは一人切りになると不安になるようです。
親を見つけると急に元気になり、笑顔になり、
強気になるのを見て微笑ましく思うことがあります。

愛する人と手をつないでみてください。
何だか勇気が湧いてきませんか?

神に祈るとき、神の愛を感じるとき、心に小さな変化を見ることはありませんか?
勇気と望みが湧いてくる… そう感じます。

もし皆さんもそのように感じられるなら、それを続けてください。

愛とは不思議なものです。
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力の限り尽くした後に

2021-07-16 05:45:53 | モルモン書
「あなた方がこの後、わたしのために証人になれるように」モーサヤ24:14


「力の限り努力した後に…あなたの願いを…聞き届けよう」エノス1:12
どうして「力の限り努力」している時ではなくて、その後なのでしょう。
どうせなら頑張っているときに助けてほしいと思いませんか?

力の限り努力しているときは自分の力に頼っています。
それで願いが叶えば、‟自分の力で成し遂げた”と思うかもしれません。
それはそれでOKでしょう。

自分の力の限りを尽くしても願いがかなわず、
‟自分の力では無理”と認めるなら、主にすべてを委ねるしかありません。
それによって願いが叶えば‟主の力によって成し遂げられた”ことを認め、
「それは主の力によって成し遂げられた」と心から証することができるでしょう。


でも力の限りを尽くして「もう無理です」と感じるまで頑張るのは大変なことで、
それは常に試練です。
「これだけ頑張ったのだからもういいでしょ?」と思っても、
力を尽くし切っていなければ「まだまだ」と言われるかもしれません。
実際にそれは少なくありません。

心の中にまだ‟自分の力に頼る気持ち”が残っているからのようです。
主を欺くことはできません。
これってものすごく大変です。

リムハイの民は何度も戦いに出て、ゼラヘムラの地を探しにも行きました。
他にも色々と行ってみたはずです。
自分たちの力で何とか切り抜けようと万策尽きるまで努力しました。
大きな犠牲を払い、嘆き悲しみ、その後に救われました。

アルマの民は最初から主に頼りました。
主に頼ることに力の限りを尽くしました。
それでも大変でした。

リムハイの民とアルマの民の違いから何を学ぶことができるでしょうか?


長い時間を要し、疲れ切って、サタンの誘惑で不安に押しつぶされそうにもなります。
でも、それを経て主の祝福を経験したなら、真心から主の力を証できます。

皆さんもそんな経験がありませんか?
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