もし戦争映画が好きな方ならどこかで次のようなシーンを見たことはないでしょうか。
ドイツ軍指令官、参謀将校たちが額を集めて戦況を分析し、作戦を討議している部屋。
一人の大尉が我関せずでピアノを弾く。
曲はショパンなどのロマンチックな曲。
討論が紛糾し、一人の将校が激高して叫ぶ。
と、大尉はピアノを弾きながらクールにこういう。
「ふっ・・。どうやらここでは理性が語ることが許されていないと見える」
この、ドイツ軍部の中で反戦論者の大尉がピアノを弾く、というエピソードは、
いつの間にかありがちな戦争映画の一シーンとして私たちの記憶に存在しています。
これを最初に着想したのは、1937年のドイツ映画「最後の一兵まで」(原題「ミヒャエル作戦」)だそうです。
この映画で、監督のカール・リッターはウェンゲルン大尉という青年将校にピアノを弾かせ、
冒頭のような戦争批判をさせています。
この映画は日本でも公開され、当時の映画関係者の対談でもその内容が語られているのですが、
「戦争映画なのに劇中で戦争批判とは」と、当時の映画人は驚きを隠せないコメントを残しています。
そしてこの「ピアノを弾く親衛隊将校」という着想は、後の戦争映画の監督の大いに気に入るところとなり、
たとえばロベルト・ロッセリーニ監督は、ドイツ軍司令部でニヒルな大尉にピアノを弾かせ、
戦争批判の言辞を弄させています。
のみならずそれ以降、私たちは絶えず厭戦家でピアニストの「ウェンゲルン大尉」に、
各国の戦争映画でお目にかかることになるのです。
スピルバーグ作品「シンドラーのリスト」では、
ゲットー(ユダヤ人居住地区)を夜襲したナチスの兵が各部屋で機関銃による殺戮をするさなか、
その銃声を伴奏にするかのように、子供部屋と思われる一室で一人の士官がバッハ(トッカータ)を弾き続け、
ドア越しに二人の兵が笑いながらそれを覗きこむシーンがありました。
今日の画像はそのシーン。
彼の襟章からドイツ親衛隊(バッフェン・エスエス)の指導者(フューラー)クラス、
中隊長か大隊長であることが分かります。
大隊長が職務を放り出してピアノを弾くことは無いと思われるので、
おそらく中隊か小隊を率いる中尉クラスの人物でしょう。
覗きこんだ二人の兵卒の会話(おまけにこの二人、酔っぱらっているっぽい)ですが、
日本語字幕ではあたかも弾いている士官に
「モーツァルトか?」
と聞いたようになっていましたが、この二人はこの中尉の部下なので、正しくは士官に向かって
「それモーツァルトですか?」
そして隣の兵卒が
「ちげーーよ、バッハだよバッハ」
というのが翻訳としては正しいかと思います。
殺戮の銃声の中、平然と職務を放棄し、自分の中に閉じこもるが如く一心にピアノを弾く青年将校。
ドイツは有数の音楽国。
音楽を嗜み演奏を能くするナチス将校は少なくなかったと思われます。
この「ピアノを弾く親衛隊将校」というモチーフは、
ひとりの青年将校の来し方、彼のそれまでの人生のドラマを喚起させ、
音楽という無上の美しいものと戦争という現実の乖離、
その矛盾と不合理に対する声なき抗議を一瞬で表してあまりあるものだと思います。
歴代の戦争映画作家が美しいこのシーンを好んだのはむべなるかなと言えましょう。
しかし、特筆すべきは、冒頭の「最後の一兵まで」が、
1937年ナチス政権下で撮られた映画であるということです。
後世、ヒトラーのお抱え映画監督と悪評の高いリッター監督ですが、
この一シーンに隠さざる彼の戦争に対する真意が見えると思うのは穿ち過ぎでしょうか。
(参考文献 「ヒトラーと映画」岩崎昶著 朝日選書)
註:この稿は以前の記事の再掲となります。
最近、少しは絵がまともな線で描かれているじゃないかと思われませんでした?
実はペンタブレットを購入したのです。
以前中指一本で仕上げていた画を描き直したので、内容を少し変えて
もう一度アップしました。
前の絵は細かい線が描けず、画面も小さかったので、ナチスのマントがまるで「はおり」。
ずっと描き直ししたかったんですよ。
将校も前の国籍性別不明と違ってちゃんと金髪のイケメンに見えるでしょう?
昔の画像であまりに酷いのはいくつか手直ししました。
いまだに閲覧数の多い菅野大尉シリーズもあまりに線が歪みまくりなので
描き直そうかと思ったのですが・・・・・まあ、あれはあれでいいかなと(笑)
それにしてもペンで描くのって・・・・・・・・・楽。