ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「Mishima―A Life In Four Chapters」

2011-08-08 | 映画

アメリカで「戦場のメリークリスマス」と「憂国」のDVDを購入したことから、
このフランシス・コッポラとジョージ・ルーカスが製作総指揮を手がけた日米合作映画に
興味が湧きました。
「憂国」のDVDは日本でも手に入れることができるようになったようですが、こちらはいまだに
「憂国」と同じく、三島夫人の抗議などの諸事情により、
公開は勿論のこと、手に入れることもできない幻の映画となっています。
「憂国」を観たあと、そう言えばこの「ミシマ」もあったなあ、とバーンズ&ノーブルズに行き、
一割引きになっていたのを購入してきました。

出演俳優は、全員日本人。
三島自身のモノローグは英語ですが、台詞は全て日本語での演技です。
三島を演じるのは緒方拳。
 

今日の冒頭画像は三島由紀夫のポートレイト。
三島自身がこの写真を気にいっていたらしく、元画像には本人のサインがあります。
描きながら何処かの出版社がつけた「ロゴスの美神」と言う言葉が脳裏をよぎりました。
意志的な力強いまなざし、貴族の血(母方は桓武天皇の血筋)を感じさせる鼻筋、完璧な口元。

三島は30歳からボディビルを始め、42歳で起こした割腹事件の際死後解剖をした医師が
「30歳台のような若々しい肉体」
とその体型を評したように、自分を包むその外貌に最後まであくなき情熱を注ぎ作り上げ、
その完璧な作品が老いによって醜くなる前に自らの手でこの世を去りました。

ところで、冒頭画像はいつもなら映画の一シーンを取るのですが、今回なぜそうしなかったか。
「すきな男優は?」と聞かれたらためらうことなく
「緒方拳、奥田瑛二」と答えるほど、役者としての緒方拳のファンであるわたしが
彼の画像をあげなかった理由については後述します。

この作品は、三島の子供時代から青年時代、そして市ヶ谷での割腹事件の一日の間に
彼の作品の『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』(『豊饒の海』第二部)が切れ切れに挿入されます。
題名の「四章」とは、この三作品に三島の人生を加えることで完成されます。


劇中劇としてセット(全くリアリティの無い舞台)の中で演じられる三つの三島作品を演じるのが

金閣寺(私『溝口養賢』)・・・・・・・坂東八十助
鏡子の家(収おさむ)・・・・・・・・・・沢田研二
奔馬(飯沼勲)・・・・・・・・・・・・・永島慎二


体格改造とともに取り組んだ文体改造によって書き上げ、彼の代表作となった「金閣寺」
この作品の不評により、ある意味彼自身を緩やかに自殺へと向かわせる引き金ともなった「鏡子の家」
そして、皇国思想により要人を殺害し割腹自殺する学生を描き、彼の死を想起させる「奔馬」

この三つを制作者が選んだ意味がここにあるかどうかはわかりませんが、
奇しくも三島の人生において、そして三島を語る上でのメルクマールともいえる作品群です。

やはり破滅の道を選んだ三島を含め、主人公は全員が終末にカタストロフを迎えます。
この4章をしてA Life」、一つの人生(THEではない)というタイトルがついています。
これら三景の小説の主人公の人生と三島のそれを並列で語っているわけです。
三人が三島の分身であるという暗喩でしょうか。

吃音の放火犯人、溝口。(三島も幼少時吃音だった)

ボディビルによって身体を作り役を得ようとする三文役者、収。
財界の大物を暗殺し、割腹自殺をする飯沼。

 

ところで耽美的な死の文学をものする一方、超俗的な文武両道を標榜していた三島でしたが、
これは同世代を生きた人々の証言によると、そのイメージはかなりの部分が、
外貌を作り上げるに伴い自身の手によってプロデュースされたものであったようです。

そのきっかけとなった出来事。
ダンスの相手(美輪明宏と思われる青年)に「身体が脆弱だ」と言われ顔色を変える三島。
 
肉体改造に成功した後、彼はその肉体を誇示し、料亭の女中にまで腹筋を触らせるナルシストぶりは、
映画に出演し、全裸で写真を撮らせる(写真集『薔薇刑』)といった露出にまで及びました。
 

 
禁欲的なイメージを作り上げ、小市民的な行為を唾棄していると標榜していた三島は、
現実には高級住宅地に西洋風の豪邸を建て、当時まだ珍しい外車に乗り、
映画でヤクザを演じ、レコードに自作の歌を吹き込み、テレビ番組に出演し・・・・。
戦後初めてマスコミを最大限活用したと言われるその実像は、超俗ならぬ「超・俗人」でした。
後年皇国思想の旗印を掲げたものの、戦時中は国に命を捧げる覚悟があったわけではなかったのも
徴兵検査を肺結核を装って逃れたことから明らかです。
小心で、臆病で、劣等感を持つ、つまりは等身大の人間がロゴスの神を味方につけ、
己の理想の姿を演出していたといえばいいでしょうか。
つまり、作家の描く自画像とその現実は決して一致していなかったということです。


一般論ですが、その作品における思想真理、さらに道義倫理の類はえてして
作家自身の真実とは一致しない、甚だしきは全く乖離しているものなのかもしれません。
言葉を巧みに操れることは一つの技術であり、人格的に円熟している、ましてや
世間的なモラルに忠実であるということとは全く無関係だからです。

三島自身も言っています。

「言葉はまやかしであるが行動に嘘は無い」

さらに彼は「自分の人生に欠落している部分を言葉で埋めてきたが、言葉には限界がある」
と感じることがあり、それが「思想」へと、そして「行動」へと向かわせたのではないでしょうか。

さて、三島の内面を形作っていたところの「自意識」は、強烈なナルシシズムとなって表に現れました。
しかし、それは絶対的なものではなかったと言えます。
前回「憂国」について書いたときにも述べましたが、映画「からっ風野郎」に出演した三島は、
おそらくその自己イメージと客観の間に遠い隔たりがあることに愕然としたのではなかったでしょうか。

鍛えられてはいるものの、ビジュアル的には動きを伴う映画に向いていると言えない小柄な体、
そして聞くに堪えない軽薄なセリフ回し。
静止画ではいかようにも演出ができた三島の美の鎧が剥落した瞬間でした。
三島ほどの人物がそれに気づかぬはずはなく、この事実はかなり彼自身を苦しめたはずです。

(自身の監督による『憂国』は台詞なし、そして軍帽で表情を隠し、パンが少ないなど、
この点をかなり払拭しており、この観点からはかなり成功しているともいえます)


緒方拳は上手い役者です。
しかし、彼の演じる三島は三島の実像からはかなりかけ離れてしまっています。
三島を三島たらしめた「自己イメージに対するナルシスティックな偏愛」、
それを緒方拳のような意志的な役者が演じると「自信」として現わされてしまうのです。

さて!(思わずマーク)
ここでまたまた(個人的に)嬉しいことに、坂本教授にも三島役のオファーがあったという件について。
外国人映画関係者の「軍人坂本龍一ラブ」が、ここにまたしても・・・・。
だから坂本教授は演技が(以下略)

しかし、前述の観点から言うと、はっきり言って緒方拳よりも坂本龍一の方が
三島に肉薄することができたのでは、とは個人的に思います。
なぜなら、緒方拳より少なくとも造形的に坂本龍一は三島に近いからです。
演技の上手い緒方では決して現わせない三島の「弱さ」を
あるいは坂本龍一ならあらわせた(演じられた、ではなく)かもしれません。
さらにナレーターは英語(ロイ・シャイダー)ですから、かなりの可能性はあったでしょう。
 

とはいえ、坂本龍一にこのような演技ができたかどうか、と言うことになると疑問です。
この写真だけとってみても、やはり緒方拳は役者として凄い、と言わざるを得ません。
しかし、どうしても緒方の三島は「三島を演じている緒方」としか思えないのです。
演じる対象の三島由紀夫の存在イメージがあまりにも強烈すぎる故でしょうか。

しかしそれでは三島自身なら「三島由紀夫」を演じられたか。

答はノーです。

おそらく、三島の理想にのみ存在した「三島の自己イメージそのもの」だけが、
三島を演じるにふさわしかったのではないでしょうか。
それはおそらく本日冒頭の写真そのものの姿形をしているに違いありません。
実際の三島から理想部分だけを抽出したような存在。
それはすでに三島であって三島ではないものです。

緒方拳ではなく、この三島を本日掲げた理由です。


三島が死を急いだのは、歳を取り醜くなることへの極端な怖れがあったためと言われています。
そして自分の受けた生への矛盾と疑問を創作によって埋めることの限界を感じたとき、
かれは「行動」と、最終的には「死」にそれを求めたのです。
三島はまた、死によって完成されるべき「美」についてこのように語っています。


男の美しくなろうとする意志は、女とは違って必ず「死」への意志なのだ。