課業始め
このような符調の喇叭が鳴ると「課業始め」です。
海軍では授業や朝の作業を始めることをこのように称しました。
本日画像は、海軍経理学校の課業始め。遠くに見えているのは「勝鬨橋」です。
今でもこの橋はこのままの姿で威容をとどめていますが、完成は1940年。
なんと、70年も経っているのです。ご存知でしたか?
この橋は当時、東京オリンピックを控えて、日本の国力を世界に見せるために、
設計から施工を通して日本人だけの手によって行われた、文字通り日本の技術の結晶でした。
電動跳開式の可動橋は世界でも珍しく、勿論アジア初。
現在でも日本の橋梁建築技術は世界トップだと聴いたことがありますが、このときすでに、
技術力においてトップクラスの仲間入りを果たしていたのだということですね。
当時、ここは3000トン級の船舶を通過させており、一日5回、橋は開閉しました。
アメリカに住んでいたとき、通りかかろうとした橋の信号が止まったままになり、
?状態で待っていたら、いきなり目の前で橋が持ち上がり、船が通過したので驚いたことがあります。
門番ならぬ「橋番」という係が待機していて、全てをチェックしていましたが、
電動であのような巨大な橋が跳開するとき、当時の日本ではどうやって交通を遮断したのでしょうか。
勝鬨橋は、1980年に電源の供給が止まり開閉を永遠に停止し、今日に至ります。
前置きが長くなりました。
海軍には全ての行動の五分前にそこに待機し、心の準備をするという習慣があります。
勿論海自、空自にも受け継がれているこの良習ですが、例えばこの課業始めの場合、
休ませるー、のラストサウンドで発動、つまり行動開始です。
まず分隊監事の定時点検。
これは「現代版勝利の礎」とも言える海上自衛隊幹部候補生の訓練を追ったドキュメンタリーで、
外出前に、アルファ、ブラボーと呼ばれる「鬼の分隊監事」が、整列している候補生を一人一人
鋭い目つきで粗さがし、じゃなくてチェックし、イチャモンじゃなくて指導していた、あの
「鬼の身だしなみ点検」と同じようなものでしょうか。
あれも確か、「ネクタイ不備!」って何かと思ったらネクタイのシワ。
・・・・・・毎日締めていたらネクタイに皺くらいできるでしょうよ。
「ボタン不備!」これも何かと思ったら、ボタンの模様(碇マーク)がまっすぐでなかった。
って、これ、本人の責任?制服を作った人のせいなんでは・・・?
まあそういう、厳しすぎるくらい厳しい身だしなみへの気配りが海軍ならではとも言えるのですが、
兵学校でも髭が濃かったり剃り残しがあったりすると
「川真田生徒、髭不備!」なんてやられたりしたんでしょうか。
やっとのことで点検が終わると、その後、同期だけの教班別に課業整列し、
格調高い行進ラッパに送られて講堂に向かうわけで、この画像はその行進の様子です。
左小脇に抱えているのは各自の荷物。
これは画像では白ですが、別の画像で黒いものを見たことがあります。
風呂敷に包まれているようですね。
この行進ですが、軍隊の基本は行進。世界共通事項です。
先日、陸軍の落下傘部隊のドキュメンタリ―映画についてお話しした時に少しふれたように、
訓練終了後の報告に向かうわずか何メートルでも、整列、行進。
授業の間に次の教室に移動するのも、整列、駆け足。
軍歌演習は、67期の皆さんがグラウンドを手に手に軍歌集を持って行進している様子が、
写真に残されていますが、兵学校に限らず、海軍では軍歌行進必須でした。
先日、あるフネの艦上で総員が行進をしているのを俯瞰で撮影した写真を手に入れました。
これが、軍歌を歌いながらなのか、ただ歩いているだけなのか、
それとも見えないところに軍楽隊がいて演奏しているのか、まったく分からないのですが、
広いようで狭い甲板を五列縦隊で歩くのですから行列は輪になります。
しかし、そこが軍隊らしいところ、円ではなく「四角く」輪を作って歩いているのですね。
外側の人ほど歩く距離が長くなるわけです。
この写真、ある海軍士官が撮ったものなのですが、不思議なことにその輪の中央、そして行列の手前、
そして行列の向こう側の甲板の表面にぼかしが入れられているのです。
うーむ、これは・・・いわゆる軍機、ってやつだったんでしょうか。
自主規制だったんでしょうか。
もうすでにこの写真を撮られた方はこの世にいないので、確かめるすべはありませんが。
さて兵学校の課業始めに話を戻しましょう。
この生徒の来ている作業服、この洗濯のききそうでごわごわしていそうな木綿のユニフォームは、
どうやらシーズンレスで使用されたもののようです。
つまり、この寒そうな恰好で厳寒の候も課業行進をしたのです。
当然ポケットに手を入れることはまかりなりませんから、
彼らの手はあかぎれ、しもやけ、凍傷で腫れあがり、ひび割れから血が滲み、
何かにあたると激痛が走り、とにかく大変辛かったようです。
そして、雪の日すら、課業始めのグラウンド行進は変わりなく行われました。
ストーブに置いたやかんからシュンシュンと湯気が出る教員室で、真っ白に降り積もった雪の中、
課業行進をする生徒たちを眺めながら、
英語担当名物教授の平賀源内こと平賀春二教授がうっとりとつぶやきます。
「綺麗だなア・・・・・・まるでレビューの様だ」
それを聞いて、武官教授が
「何イ!何イ!」
と色めき立ちます。
「我が海軍の将校生徒をこともあろうに少女歌劇と一緒にするかあ!」
しかし、これは本気で怒っているのではなく、丁々発止のこうしたやり合いは、
源内先生と武官教授の間にしょっちゅう起こりました。
源内先生が文官教官の域を超えて兵学校の士官教育に熱心で、演習や行事には必ず参加し、
みずからも「平戸」(リタイアして教材用に江田内にあったフネ)に寝泊まりし、艦長を自認する、
根っからの「海軍さん」であることを皆知ってのやりあいです。
いわば「お約束」のイベントだったというところでしょうか。
雪の中の真っ白い事業服の集団の行進。
平賀教授ならずとも、美しさにため息をついてしまいそうな光景ですね。
ところで、本日の話題とは少し外れるのですが、この「課業始め」を調べていて、
元兵学校生徒である医師が、戦後書き残した随筆を見つけました。
最後にこの話を紹介させてください。
兵学校は、末期に本土空襲の際グラマンの攻撃にあい、何人かが犠牲になっています。
勝利の暁にはその建物ごと接収する計画であった米軍は、さらにルメイも
「この西欧風建造物を破壊することは我々の魂を破壊するようなものだ」と言って、
決して爆撃をさせませんでしたが、グラマンはそこにいる未来の軍人を少しでもせん滅すべく、
何回となく江田島上空を訪れ、銃撃を行いました。
映画「ああ江田島」では、この銃撃で亡くなったのが主人公の生徒であるという設定です。
ある兵学校生徒、Kは、終戦間際の初夏のある日曜日、巡航実習から帰って来たところでした。
帰ってくると「空襲警報」の吹き流し。
急いで潜水艦桟橋に並ぶカッターの脇に帆走達着します。
そのまま、カッターを次々飛び移りながら移動し、運動靴を両手に生徒館に向かってひた走りました。
半ばでひょっと振り返ったら、上空にはグラマンが二機飛来していました。
そのとき、飛行士の眼鏡越しに、K生徒はかれの顔を見たのだそうです。
生徒館からは教官が「危ない!急げ!急げ!」と叫んでいます。
K生徒は夢中で彼らが決して銃撃をしない建物内に飛び込み、難を逃れました。
あのとき撃たれていたら、今の自分はない。
外科医となって、何人かの命を救うこともなかったはず。
なぜ撃たなかったのか。眼と眼が合ったからか。
戦後、自分の命のある不思議さとともに、K生徒はあの時の飛行士のことを時々思うのだそうです。
そして、いつもこのように常に考えを結ぶのです。
会って聞いてみたいし、礼も言いたいが・・・。