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三菱航空資料館~零戦の増槽と牛車

2012-02-29 | 海軍



前回この資料館見学について書いた際、二〇ミリ弾の弾着痕について少し書いたのですが、
その後チェックのために映画「零戦燃ゆ」を見ていたら、加山雄三の下川大尉が
「二〇ミリ機銃は炸裂弾だから、一発当たれば敵機は木っ端みじんに吹っ飛んでしまう」
とおっしゃっていました。
(加山雄三が偉そうなのでつい敬語)
あのような小さい弾痕としては残らないということみたいですね。

ぞうそう、と言う言葉を日常で口にしたことがありますか。
わたしが初めて増槽という単語を目にしたのは、海軍飛行機についてものの本を読んだときで、
「ぞうそう」と口の端に乗せたのは、考えてみたら今回が初めてだった気がします。

その「今回」とは。
ここ、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所の一隅、
かつては格納庫であった建物を航空資料室として一般に開放している、その展示室の、
零戦の「増槽」について説明していただき、それについて質問をした時のこと。

増槽とは、零戦開発者の堀越二郎技師が設計主務者として開発した
九六式艦上戦闘機三菱A5Mから採用された、言わば「スペアタンク」のことです。
この九六式は、堀越技師が自ら「零戦よりこちらが会心の作だった」と言い切る、
日本海軍最初の全金属単葉戦闘機。

広い中国大陸における中国戦線に投入する為に開発された、この九六式戦闘機でしたが、
バランスが良く、運動性能に優れていたこの機の欠点とも言えるのが航続距離の短さでした。
増槽タンクはそれを補うために初めて採用され、前期の切り離せないタイプから、
後期は着脱可能なものに進化しました。



映画「大空のサムライ」の、模型の飛行機が戦闘の際、一斉に増槽を落とすシーンについて
書いたことがあります。
模型の増槽はマグネットで取り付けられており、スイッチを地上で押すとマグネットが切られて
落下する、という仕組みだったそうですが、このシーンの採用は、この映画の主人公であった坂井三郎氏のこだわりでもあったという話です。

落とされた増槽がくるくると縦に回転しながら落下していった、という証言に忠実にしようと
スタッフが苦心をした様子などは、DVDの特典映像で見ることができます。

燃料のあるなしにかかわらず戦闘開始時には増槽を落とすのは、その重さが運動性能を
妨げることと、敵の攻撃による弾着で引火爆発することを防ぐ意味があります。
勿論このタンクの中にガソリンが大量に残っている状態で捨てるのは、大戦末期の
「ガソリンの一滴は血の一滴」と言われたころでなくても勿体ないので、
普通は翼(機内)のタンクを温存し、増槽のガソリンから先に使用したそうです。



増槽をつける整備兵。映画「零戦燃ゆ」より。

ところで、このドロップ式タンク、地面に落ちた後のことを誰も考えなかったわけではありません。
南洋の海上がよく戦場となった、特に二一型の零戦では、増槽を回収することなど、
全く考えられてはいなかったと思いますが、欧州戦線では、しばしばそれは回収され、
タンクに使用されていたアルミニウムの合金がリサイクルされました。

ドイツ軍などは
「落下したタンクの発見者には礼金をだす」
というおふれまで出したそうですが、切迫したドイツのお財布事情を覗わせます。
そんな敵に対してリサイクル資源を与えないように、なんとアメリカ軍は紙で作ったタンクを
使用している部隊もあったということです。



ここに展示されているものではありませんが、メイドイン・ジャパンの「木製増槽」。
なんと、大戦末期、日本は木や竹で増槽を作っていました。
ベニヤを曲げて加工してあります。
どういう状態で撮影された増槽タンクかはわかりませんが、大きく破損していません。
意外と丈夫だったのでしょうか。
防水処理もされていたようですが、これを見ると継ぎ目に油染みのあとがあります。
おそらく「何時間か持てば十分」という程度の規格であったようですね。



この増槽を作っていたのは動員された女子学生でした。
網目が浮き出している増槽が、御覧のように飛燕用のものです。
表面に貼られているのは紙だそうです。
日本が金属製でなくこのようなものを作っていたのは、勿論相手にリサイクルされないため、
ではなく、ひとえに・・・金属不足。


ところで、この三菱の工場見学にTOが最初に来たとき、参加者の戦中派おじさんが、
戦時中の想い出を熱く語り出してしまい、時間が押してここの見学ができなかった、
と言う話を最初にしました。

そのおじさんの話、というのが、なんと
「動員で、ここで製作された零戦の機体を、牛車に乗せて運んだ経験」
だったというのです。



この資料館にあった資料をご覧ください。
まさにその光景が絵に描かれています。
ここ小牧に飛行機工場があったのはアメリカも勿論周知の上ですから、
こういう輸送隊はグラマンのターゲットとなりました。
その方はこの図のように牛車での零戦の機体を運搬している最中、グラマンに襲われ、
牛と零戦を放置して逃げるしかなかった、という話をなさっていたそうです。

牛・・・・・(/_;)

ところで、つい最近、インターネットを見ていた息子がこんなクイズをしてきました。
「自転車を最初に発明した国って、どこだか知ってる?」

なんと、答えは日本、とそのサイトには書いているそうです。
「えー、だって、日本で自転車なんてどこにもなかったじゃない」
「それはね、自転車を走らせる平らな道がなかったから、アイデアだけで終わったらしい」

この資料室で「何故牛車でないといけなかったのですか?」と案内の方に聞くとその答えは
道が舗装されておらず
牛車のゆっくりとしたスピードで機体を運ばないと、破損する恐れがあったから」

ああ、この理由も「でこぼこ道」でしたか・・・・。

先ほどの「零戦燃ゆ」では、四隅にコロをつけた台車に翼を乗せ、数人で運んでいましたが、
これは工場内のことなので、道は舗装。、当時はどうだったのか知りませんが。
因みに、劇中、三菱の技術者に

「試作機を牛車に乗せて各務原(かがみがはら)の飛行場まで運んで行きましてね。
私達も自転車でくっついて行くんですが・・・ありゃ疲れましたね」
「夜通しだからね・・。それに牛のお伴じゃあ」

と語らせています。
各務原は岐阜にあり、ちなみにグーグルマップで徒歩所用時間をはかったところ、
約二〇キロ、軽く四時間(多分牛はもう少し遅いかと)とのことです。



これを見ても、日本という国は、当時先端の技術を技術として持ちながら、
それを滞りなく運用するための経済的基盤、周りを取り巻く環境のお粗末さは、
インフラ整備などという言葉以前の段階だったということでしょう。

一部の科学技術が突出していたものの、全体で見ると実は
日本は、竹槍をもって銃と戦っていたとしか言えない状態であった・・・。

竹の増槽、そして牛車による運搬。
いずれも、国力の違う相手に戦いを挑んだ日本の、悲しき現実だったのです。