goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

明治村に行った

2012-02-26 | つれづれなるままに

明治村に今まで一度も行ったことがない、という人にあったことがありません。
TOなどは学校の修学旅行で来たそうですし、わたしも小さい頃二回、大人になってから一回、
という具合に、ディズニーランドレベルの頻度で日本人が訪れる施設と言えましょう。

ただし東北北海道、九州の人にこれを聞いたわけではありませんので念のため。

時間を置いてまた訪れると、そのたびに発見がある。
常にその姿を変えていっているので、来るたびに新しいものがある。
子供の時に訪れた人が、自分の子供に見せるために連れてくる。

まさにディズニーランドのようなリピーター心理が、明治村リピーターにもあるわけです。
歳を経て、価値観が変われば、同じものを観ても違う感慨を持つ、というあたりも同じ。

今回はどんな姿を見せてくれるのか、明治村。いざ。

車を停めたので、正門ではなく、駐車場直結の北入り口から入村?。
平日だったので車も十数台しか停まっていませんでした。




園内を走る蒸気機関車があったはずなのですが、動いていません。
予算の関係なのだったら、さみしいですね。
 

背ばっかり伸びてもまだ反抗期の息子。
「明治村なんぞ興味ねえ!早くホテルに帰ってコンピュータしたい!」
と車の中でブーたれるので、
「明治村ってさー、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルがあるんだけどなー」
「え?」
目の色が変わる息子。
かれは今、建物をバーチャル世界に建築するコンピュータゲーム「マインクラフト」に夢中。
相変わらず世界のどこにいるのかわからない「友達」と一緒に、
何がおかしいのかげらげら笑いながら、「ビョードーイン」などを作ったりしています。

フランク・ロイド・ライトは昔からそんな彼にとって「クールな建築家」の代名詞。
「OK!帝国ホテル見たらすぐ帰ろうぜ!」

北口から入ったら最初に帝国ホテルがあるんだから、そういうわけにもいくまいよ。



どこかの学校の遠足があり、ホテル内とこの前の広場には息子と同じ年らしい小学生が
子供らしくきゃあきゃあと走り回っていました。
 

昔、皇居のお堀端にあったパレスホテルの宣伝文句は
「宮様も外人もお泊りになったホテル」
でした。
宮様はともかく、外人がお泊りになったくらいのことが宣伝になるのなら、
マリリンモンローやチャップリンもお泊りになったこの帝国ホテルはどうなるのでしょうか。

後に公民権運動活動家になった、ハーバード大学初の黒人博士号取得者、
ウィリアム・デュボワ
は、1936年、まさにこのフロントで忘れ得ぬ体験をしています。
(Deboisという綴りなので、フランスから入植したアフリカ系の末裔と思われます。
日本で時々見る『デュボイス』という読み方は間違いであると判断し、デュボワと称します)

彼がチェックアウトの支払いをしていると、白人のアメリカ女性が
当然のように割り込んできました。
アメリカのホテルであれば彼女は優先されたのでしょうが、
このホテルマンは、そちらを見向きもせずにデュボワへの対応を続けたのです。
勘定がすべて終わると、彼に向って深々とお辞儀をしてから、
初めてその厚かましい女性の方を向いたのでした。

いたくこれに感動したデュボアは、帰国してからこの出来事を新聞に寄稿しています。

母国アメリカでは決して歓迎されることのない一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、 われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種で あり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、
心から理解してくれているのだ。

アメリカ黒人の、日本人に対する「被差別人種同士の同朋意識」についてはまた書くことも
あろうかと思いますが、とにかく、その出来事が起こった、そのフロントが、まさにこれです。

超余談ですが、今現在、帝国ホテルにはデュボワという審美歯科があります。
関係あるのかな。



このデザイン、部屋に欲しい!
「フランク・ロイド・ライトのライト」と、フランク・ロイド・ライト本人。



帝国ホテルを出て、いきなりおやつ休憩に入る我が家の面々。
だって、「コロッケー」が美味しそうだったんですもの・・・。
息子など、帝国ホテル見たら帰ろうぜ、とか言っていたのに、
「これ、一周してきてからもう一回食べていい?」

帝国ホテルの周りはなぜか裁判所、留置所、監獄など、穏やかでないものが立ち並んでいます。


 

裁判所。っていうよりちょっと進化したお白州、って感じですね。
廷吏?が一緒に横に座ってあげているのが、なんともヒューマニティ・・・かな?



それにしても、法曹関係者一同、なぜ法服がチャイナ風なのかしら、と思いません?
これはですね、中華風ではないんですよ。
法服のデザインを任されたのは国学者で東京美術学校の歴史教員であった、黒川真頼
服飾史にも通じていた黒川は、聖徳太子立像からインスパイアされた
古代官服風のデザインを法服として採用したのです。
聖徳太子の時代、中国風、というのがはやりのデザインだったのかもしれませんね。

因みに、当時の東京美術学校は同じデザインを学生と先生の制服にしていました。
ある事件で法廷で証言することになった黒川先生が、判事と間違えられたことがあるそうです。
このデザイン、制定から終戦後の昭和24年まで変わらず使用されました。


さて、寄り道しましたが、裁判が終わって判決が「収監」ということになりました。
容疑者は犯人に出世し、刑務所でお勤めをする運びとなります。


金沢にあった刑務所、監房が一部引っ越してきています。
入ったところにまず看守がいて受付をしてくれるのですが、その横に、
囚人が看守に見張られながらお手紙を書くことのできるブースがあります。
二人の囚人が、故郷に切々と便りをしたためていました。

 

なんだかそっくりな人たちです。モデルが同じなんでしょうか。

独房を覗ける廊下を進んでいくと、ある人は黙々とお布団を上げており、


ある人はお食事中。この人も同じ顔ですね。

 

今日も元気だご飯がうまい。
右は刑務所の食事メニューですが、真面目そうな女子小学生が座りこんで書き写していました。
「明治村見学で一番印象に残ったことは」という課題でも出てるんでしょうか。
それにしても、どうして学校ってのは、いちいちこうやって「課題」を与えるかねえ。
こんなことしている時間があれば、少しでも多くの展示を観た方がいいと思うんですが。

高校時代、映画鑑賞会の後に感想文を書かされたことを思い出しました。
同級生の男子が「主演女優の誰それの胸が小さかった」って書いてたなあ・・・。

入って左にこのような独房が並んでいるのですが、二人が出ようとするので、
「あ、こっちまだ観てないんだけど」
といって右の廊下を進もうとしたら・・・。



TOと息子、
「ミッションインポッシブルだー!」
今この後ろにイーサン・ハントがいて、だんだんスクリーンが近づいてきてるわけね。

順序は飛びますが、次に医療関係の施設を巡ってみましょう。


日赤病院の病棟。
昔子供の頃、ここを訪れたとき、離被架という医療器具が展示されていました。
リヒカと読むのですが、術後の傷に布が掛からないように体に乗せる鉄製のドームです。
その名前と鉄製の鎧のようなその形が強烈な印象だったのですが、
今回はどこにもその離被架はありませんでした。
どこにいったのか離被架・・・。

 

これは明治時代に開業していた「清水医院」。
当時にしては超モダンな建物を建てた清水医師、ハイカラ先生だったんですね。



医学者、北里柴三郎の細菌研究所。
東京、白金にあったそうです。
風光明媚なこの地にあると、まるで高原のホテルみたいです。



それにしても、昔の病院や研究所って、どうしてこんなに浪漫的なのかしら。
「サナトリウム」「風立ちぬ」「肺病」
なんて言葉をつい思い浮かべてしまいます。
「離被架」も、たしか夭折した詩人が短歌に詠んでいた覚えが・・。



ところで、小さい時にここに来たことのあるTOは、
「大人になったら絶対ここで・・・・」
という、ある野望を持っていたそうです。
その野望が数十年の年月を経て今回叶った、という話を次回にしたいと思います。



同じ園内バスに乗り合わせたイタリア人観光客。
三人組で興味深そうに写真を撮りまくっていました。