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宇宙開発競争と世界初の弾道ミサイルV2〜スミソニアン航空宇宙博物館

2023-02-11 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙開発競争コーナーは、コーナーというには大規模な
ワンフロア全てを占めるその資料によってその歴史が語られています。

■ スペースレースとは

第二次世界大戦後、最強国となったアメリカとソビエト連邦は、
軍事力の均衡を保ちつつ相手を牽制し合う冷戦に突入します。

半世紀にわたり、二つの超大国は、その思想御社会構造の違いから、
方や民主主義国、方や全体主義的共産主義国として、
世界一の覇権を手にするべく、互いにその優位性を競い合ったのです。

そして宇宙は、このライバル関係の重要な舞台となりました。

宇宙空間を舞台としたロケット工学や宇宙飛行の分野で互いが鎬を削りあい、
世界の注目を浴びながらその優位性を示そうとしたのが、
いわゆる米ソ宇宙開発競争です。

宇宙開発の分野は、また、敵を監視するためのツール(秘密衛星)
として、発展していきました。

そして、これから述べていく様々な研究とその実行において、
あるときは成功し、あるときは失敗で貴重な人命を失い、
互いの国の総力を上げて宇宙を目指すための技術を積み重ねていきます。

しかし、冷戦の間、宇宙という一つの方向を見続けたことは、
いざ冷戦が終わってしまうと、そのわだかまりも消えることになりました。
一発の砲火も交えなかったことは、雪解け後の和解もスムーズだったのです。

冷戦終結後、アメリカとロシアは宇宙ステーションの建設など、
宇宙での共同事業に合意することになりました。

恐怖と敵意から始まった競争は、冷戦終結後はパートナーシップに変わった
・・・・・と果たして言えるかどうかは断言できませんが。

アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニクを打ち上げた、
いわゆる「スプートニック・ショック」の一年後、このように述べました。

「ソ連の脅威が歴史上ユニークなのは、その包括的なものであることだ。

人間のあらゆる活動は、拡大のための武器として利用される。
貿易、経済発展、軍事力、芸術、科学、教育、思想の世界全体・・・。

全てがこの拡大のための戦車に繋がれているのだ。

つまり、ソビエトは完全な冷戦を展開しているのである。

全面的な冷戦を展開する体制に対する唯一の答えは、
全面的な平和を実現することである。

それは、私たちの個人的、国民的生活のあらゆる財産を、
安全と平和が育つ条件を構築する仕事に投入することを意味する。

我々は、ほんの少し前までは、長距離弾道ミサイルに
年間100万ドルしか使っていなかった。
1957年には、アリアス、タイタン、トール、ジュピター、
ポラリス計画だけで10億ドル以上を費やした。

このような進歩は喜ばしいことではあるが、
だかしかし、まだもっとやらなければならない。

つまり、私たちの真の問題は、今日の強さではなく、
明日の強さを確保するために今日行動することの必要性なのである」

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領、1958年

アイクの言う「強さを確保するための行動」とは
具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。

アイゼンハワーのこの演説の年、アメリカでは
初の衛星、ヴァンガード1の打ち上げを行なっていました。



ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星です。
当初はソ連にえらく遅れをとっているとされていたアメリカの宇宙開発ですが、
ちな、このヴァンガード1は、地味にまだ軌道を回っており現役です。

当初の見積でも軽く2000年間は保つと見込まれていましたが、
いろいろ訂正があって結局寿命240年というところで落ち着いています。

ヴァンガード1は、打ち上げ当時と抵抗特性は基本的に変わっておらず、
今日もせっせと大気のデータを地球に送り続けており、
「最も長い間宇宙に存在している人工物」
の輝かしいタイトルを持っています。

とはいえ、この頃総力を上げて宇宙開発に取り組むソ連に対し、
アメリカは周回遅れというくらい後塵を拝する屈辱的な状態が続き、
1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは演説を行うのです。



「最後に、もし私たちが今世界中で起こっている、
自由と専制政治の間の戦いに勝つためには、
1957年のスプートニクのように、
ここ数週間に起こった宇宙での劇的な成果、この冒険
世界中の人々の心に与える影響を私たちが知らなければならない」

ジョン・F・ケネディ大統領、1961年5月25日

1961年初頭にアメリカはチンパンジーを打ち上げる実験を成功させ、
演説の少し前になる5月5日には、ついにアメリカ人宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に打ち上げることに成功しました。

しかし、ソ連がボストーク1号でガガーリンを打ち上げたのは
そのわずか1ヶ月前でした。

しかもガガーリンの軌道上打ち上げに対し、シェパードはただの打ち上げ、
と見かけこそ大きく差がついていたということになりますが、
さすがと言うのか、この時のケネディの演説は
シェパードの「遅れをとった成功」をさらに国民の希望へと押し上げます。

我々は、月に行くべきです。
しかし、この国のすべての市民と議会のメンバーは、
私たちが何週間も何ヶ月もかけて注目してきたこの問題を、
慎重に検討して判断すべきだと思います。

なぜなら、この事業はあまりに負担が多いので、

それを成功させるために働き、負担をする覚悟がなければ、
米国が宇宙での立場を得ることに同意したり、
望んだりする意味はないからです。

しかしもしその覚悟があるなら、今日、今年中に決断しなければなりません」

そしてさらに翌年、1962年、同じくケネディ大統領はこう言いました。

「宇宙開発競争において、私たちは長い道のりを歩んでいます。
私たちは遅ればせながらスタートしたのです。
これは新しい海であるが、アメリカ合衆国はこの海を航海し、
どこにも負けない地位を築かなければならないと私は信じています」


ジョン・F・ケネディ大統領、1962年

■ 宇宙戦争の「軍事起源」

アメリカの「航空の父」、ハップ・アーノルド将軍はかつてこう言いました。

「次の戦争は、海戦で始まるのでもなく、
ましてや、人間が操縦する飛行機の攻撃で始まるのでもない。
一国の首都、例えばワシントンに
ミサイルを落とすことから始まるかもしれない」


彼がこの「未来」を予言したのは、1945年のことでした。

その予言が当たったのかについては諸説あるかと思います。
なぜなら、戦争の始まりというものは、作為的にせよそうでないにせよ、
小さなきっかけから、というのが今のところ定石となっているからです。

しかし、始まりはともかく、攻撃はミサイル発射とイコールであることは
今現在の世界において全ての人々が周知のことでありましょう。


その後冷戦が始まると、米ソの戦略家は同じ課題に直面することになります。

戦争になった時、いかにして敵の心臓部を素早く攻撃するか。

第二次世界大戦後から出現し始めたロケットは、
次世代の新しい戦争のスタイルを予感させました。

それは、核爆弾を世界中のどこからでも敵国土に届けることができること。

それゆえ戦争は前触れもなく、突然、決定的に始まり、
そして戦う前に終わるかもしれない、ということを意味します。

そして地球を横断する爆弾を搭載できるロケットは、
当然ながら機械や人間を軌道に乗せることもできます。

宇宙開発競争は、とどのつまり長距離兵器の開発競争でした。
この両大国アメリカとソ連にとって、宇宙開発用も戦争用も技術は同じ。

宇宙開発競争の名の下に、アメリカとソ連は「長距離兵器としての」
ロケットを製造するようになったということになります。

ところで宇宙開発戦争において、どうしてソ連が当初リードできたかですが、
当時のアメリカはまだ武器の主流が爆撃機であったのに対し、
ソビエトは最初からミサイルを念頭に置いて、
国家単位で戦略的に開発を行ったからでした。


■V-1ミサイル〜巡航ミサイルの元祖



第二次世界大戦後、ソ連とアメリカが目の色を変えて獲得しようとしたのは
ドイツのロケット技術と技術者でした。

ドイツは第二次世界大戦中にミサイル兵器の開発を行っており、
ミサイルに核を積むと言う戦略の未来予想図を思い描く両国にとって
これらはとりあえず喉から手が出るほど欲しいものだったのです。

1944年6月に実戦投入されたドイツのV-1は、世界で初めて実用化された
「巡航ミサイルの元祖」で、スミソニアンに本体が展示されています。

(が、わたしはこの”小さな飛行機”がV-1だと夢にも思わなかったため、
ちゃんと写真を撮っていませんでした。
わたしが撮った写真は巡航ミサイルの後ろにかろうじて写っていたもので、
どこかしらが欠けてしまっています)

V-1のVはビクトリーと言う英語の意味ではもちろんなく、
(どうでもいいけど日本の女子って写真撮る時なんでVサインするんだろう)
ズバリ「報復兵器」Vergeltungswaffeを意味し、
宣伝省大臣、ゲッベルスの命名でした。



パルスジェットで発射されるV-1は、ヨーロッパの都市に向けて
何千発も発射されましたが、(1日平均102発、全部で2万1千770発くらい)
案外低速で精度が低い上、迎撃され、撃墜されやすいものでした。

とはいえ、イギリスに到達した時の死傷者は2万4千165人もおり、
ロンドン市民にとっては大変な脅威となっていたのも事実です。


V-1着弾後、瓦礫の下の生存者を探す民間防衛部隊と消防隊員

連合国ではこれを「バズボムbuzz-bomb」(ブンブン爆弾)とか、
「フライングボム」などと呼んでいました。

ブンブン爆弾って可愛いんですけど。



前にもこの「報復兵器」についてお話ししたとき、
ヒトラーの最終目的はイギリス国民の戦意の喪失だったのが、
彼らのモラル(戦意)はこんなことでは失われなかった、
と言うことを書いたのを思い出しました。

国民全体の戦意を喪失させるまでの爆撃はこの爆弾には不可能で、
せいぜいロンドン市民を恐怖に陥れるくらいが関の山だったともいえます。

つまり、住宅地を狙って国民の戦意を喪失させるより、
戦略地域や軍事施設を狙えばそれなりの効果はあったはずなのですが、
巡航ミサイルの元祖として記されるべき存在と言いながら、
如何せん当時の制御技術ではV-1の誘導着弾は不可能でした。

■ 世界初の弾道ミサイルV-2


というわけで、スミソニアンには本来V-2ミサイルが展示されています。
この写真では手前に見えている白黒市松柄のロケットがV-2です。

が、わたしが訪れた時、V-2の展示は(断じて)ありませんでした。
どこかに貸し出されていたのかもしれません。



もしこんな実物を目にしたら目の色変えて写真撮っちゃうはずだしね。
ちなみにこのV-2の左上にチラッと見えているのがV-1です。

見るからに凸凹ですが、長年乱暴に扱われた結果でしょう。

V-2(Vergeltungswaffe zwei)は、
遠隔地攻撃のために使われた最初の弾道ミサイルでした。

現代における最初の長距離弾道ミサイルであり、これこそが
今日の大型液体燃料ロケットや発射体の祖先と言ってもいいでしょう。

ドイツ陸軍兵器局は、1930年代から長距離ミサイルの開発を目指し、
ロケットエンジンを搭載した航空機の開発を模索していました。

そして1942年10月、バルト海に面したドイツのペーネミュンデから
液体燃料のV-2ミサイルを初めて発射し、成功させたのです。

先代のV-1はイギリス、ベルギー、フランスに多大な物理的、
かつ精神的損害を与えることに成功し、これに続くV-2は、
さらに決定的なテロ兵器となるはずでしたが、ここでも問題が。

このロケットは精度も信頼性もコスト効率も良くありませんでした。

とはいえイギリスに対して発射されたロケット弾は週平均60発ほど。

戦争の残りの期間には3,200〜600発が連合国側に向かって発射され、
このうち、1,115発がイギリスに到達し、1,775発が大陸の目標に命中、
ほとんどはベルギーに向けて発射され、パリにも19発が命中しています。

V-2による死者数は約5,500人、重傷者数は6,500人、
V-1、V-2両兵器によって破壊された家屋や建物の総数は約33,700棟。

それなりに兵器としては成功したといえますが。

戦後、アメリカと他の連合国は、
この革命的な新技術のノウハウを獲得するために、
V-2本体、文書、V-2技術者をできる限り多く捕獲しようと奔走しました。

その中には、イギリス、フランス、そしてソ連が含まれていました。

イギリスは、「バックファイア作戦」「クリッターハウス作戦」
V-2を打ち上げる実験を行なっています。

フランスはヴォルフガング・ピルツをはじめとするV-2研究者の協力を得て、
初の液体燃料ミサイルを完成させました。
この技術はのちにV-2と外観が似ている
ヴェロニク型観測ロケットに生かされることになります。

ヴェロニク


V-2とソ連の研究

そしてソ連です。

1945年5月5日、ペーネミュンデを占領したにもかかわらず、
避難してきたドイツ軍が大部分を破壊し、有用な資材も奪われました。

しかし、ソ連はその後占領したノルトハウゼンから貴重な資料を押収し、
この地域にロケット研究所を設立し、多くのV-2を再建しました。

数千人のドイツ人技術者、科学者、技能者とその家族がソ連に送られ、
その結果、ソ連は復元V-2を発射することに成功しています。

ソ連はV-2の基本技術を大幅に改良しいくつかの派生エンジンを製造。
1948年初めて打ち上げに成功したR-1は、ロシアでは初の
「国家的ロケット」とされていますが、外観はV-2とほぼ同じでした。


つくづく思うV-2の完成度の高さ

R-2は上層大気の研究や、生物学的研究のためにウサギや犬など
動物が打ち上げられ、最終的には
宇宙飛行を視野に入れた研究へと移行していきます。

V-2とアメリカの研究

アメリカもまた、V-2技術が出現するとほぼ同時に入手計画を始めています。

1944年、最初のV-2がパリとロンドンに向けて発射されてから2ヶ月余り後、
米陸軍兵器部隊はゼネラル・エレクトリック社に、捕獲したV-2を研究させ、
ドイツの設計に基づくミサイルを開発する契約を結んでいるのです。

これはプロジェクト・ヘルメスと名付けられました。

1945年5月、ソ連軍が進駐する前に米軍はミッテルヴェルクに入り、
100機のV-2の部品が米国に輸送されました。
そのうちの2機はスミソニアンに引き渡されたと推定されています。

この間、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその主要メンバーが
降伏してきて、アメリカはいえーい!と喜びました。

ペーパークリップ作戦(当初はオーバーキャスト作戦)のもと、
最終的に118名が弾道ミサイルや後の宇宙開発用ロケットの開発に関わります。

1946年、アメリカでV-2の静止発射が行われ、1947年には、
パラシュートによるV-2ノーズコーンの陸上回収に初めて成功。

ケープカナベラルのロングレンジ実験場(後のケネディ宇宙センター)では、
合計で67回のV-2の飛行が行われています。


戦後、アメリカやソ連は鹵獲したV-2をもとに、ロケット開発を行いました。
それは次第に変遷を遂げ、究極の兵器を得るという大国の欲望は
ICBM、巡航ミサイル、大陸間弾道ミサイルに結実していくのです。


続く。