風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

タイ渡航前に・・・

2007年09月01日 18時17分15秒 | エッセイ、随筆、小説




 

自分へ問いかける。

沈黙が続く。

そしてまた、自分への問いかけがはじまる。








暦をめくると秋風が黒髪を揺らすように、

夏物の衣類はタイ行きのスーツケースに仕舞った分だけで、

他はもう役目を終えたことを風が知らせる。

季節の変わり目はさすがに私の体も直撃を受けていて、

朝の目覚め時の頭痛や頚椎痛は忘れていたものをふいに思い起こさせ、

耳の閉塞感は聴覚障害そのもので、耳の聞こえが悪くなる。

だから同時に話すことも困難を要する。






けれど、銀座へでかけた。

伊東屋で便箋などを買った。

ぷっと吹き出してしまうような細工をするためのメッセージカード、

千疋屋でフルーツを注文して、

今日の体力はあっけなく売り切れてしまった。






何をしているのだろう、と思った。

自分へは向けない情熱を燃やす原動力は、何が要因か、と。

なぜ、体に鞭を打ってでも、今しなければならないとこんなにも思うのだろうか、と。






自分でいくらこの答えを探しても

みつからないだろうことは自覚している。

やらなければ一生後悔として残る。

その後悔が私の人生に影を落とす。

影が闇へとかわり、私は私でなくなってしまうだろう。

 


少なくとも医療を必要とする身体になった私は、

障害の受容に何年もの歳月を費やした。

いや、いまだにそんなものは受け入れてはいない。

いつかどこかで健常を取り戻せるなどと無意味は期待は無ではあるが、

障害の受容となると、話は別なのだ。







3年に渡る医療とのかかわりの中で、

多少なりとも医療の内情を知りえていること、

一度、手術を失敗した者の気持ち、

男性が下半身麻痺になるかもしれないとの宣告は、

性交を取り上げられることを意味する。

その告知を受けた者の気持ちは、

彼にとって近しい存在の私だからこそ、理解してあげることができないのだ。

あくまでもそれを乗り越えるのは自分でしかできず、

私は私のまま、かわらず見守るしかできないのが現実だ。

現実は厳しいものなのだ。

どこまでも、とてつもなく、残酷だ。







彼とは男女を超越した関係の構築が私にはみえる。

今まで一度も見せたこともないスーツ姿でホテルロビーに颯爽と現れた。

銀座で豪遊したこと、

多少の距離でも歩くことを拒んだこと、

そっと手を差し出すのに私の目を見ようとはしないこと、

それは今まで私にはみせたことのない姿やしぐさだった。

これが最期になるのだろうか? と思えた程だった。

だから私は号泣しながら、膝を擦り剥いて泣く子供のように

めそめそとして地下鉄を乗り継ぎ、あの日、自宅へ帰ったのだった。

あのとき、タクシーを見送りながら振り向き手を振った彼の顔がどうしても忘れられない。







あれは何を意味しているのだろうか。

またあの温かな胸に抱きしめてもらうことは可能なのだろうか。

気持ちを受け止めてもらうことはできるのだろうか。

ふたりの隠れ家に星を眺めに行くことはできるのだろうか。

あなたに触れることはできるのだろうか。

冷めた肌ではなく、あなたのぬくもりに、私は触れることができるのだろうか。









自分へ問いかける。

沈黙が続く。

そしてまた、自分への問いかけがはじまる。








※執刀医となる主治医へ友人として手紙を送る。

  手術の結果、術後経過も、私宛て電子メールへ送ってもらうお願いをした。

  まるで、家族そのものだ。






 

 



 



カエラム

2007年09月01日 08時06分53秒 | シャーマンズボディ

 

 

 

カエラムとは、

「空」あるいは「天」を意味する。

精神的な状態が身体と結合された後、

周囲の世界と結び付けられる。

すべてが一になる場、一になる世界に共存する。







生と死をみつめたこの3年間の日々は、

自分自身の痛みを体現しているからこそ、

人はあなたを求め、

あなたに話を聞いてもらうだけで安心を取り戻し、

救われていくのではないでしょうか。

 



その3年間こそがあなたの人生への影響であり、

今後の導きとなり、恩恵とも結びついているのでしょう。

あなたがそれを与える側になりつつあるのだと思います。

快方はそのお知らせに過ぎません。








タイへの渡航を控え、静かな週末を送る予定だった。

ところが関西からある会社社長が餞別を渡したいとの連絡を昨夜もらい、

今日、お会いすることになった。

そう何度もできることじゃないから今回は甘えなさい、と。








友人の大手術がタイ到着2日後であるため、

早速、昨日のうちに病院へメールを送った。

その病院は地方にありながらも画期的なシステムを導入しており、

患者宛や担当医師宛にメールを受付、

それを本人に渡してくれるサービスがある。

旦那でも彼氏でもないが、病院という場所に一抹の感情を持つ私は、

入院翌日、手術前日にお見舞いの品が届くように手配した。

主治医へも送ろう。

ご挨拶とお願いを手紙に認めようと思うが、

私が今まで医療にかかってきた経緯を書き記せば、

きっと、理解してくれるだろう。

誤解ではなく、理解だ。





たまたまというか必然というか、

執刀医である主治医は整形外科頚椎専門医でもあった。

私は脳神経外科の主治医と相談して、

この人を整形外科医側からみたセカンドオピニオン医師に選ぼうと考えている。

何かメッセージを感受するのだ。

その内容はよくわからないけれど、

自分中心の視点から、

自分も参加者のひとりでしかないという視点への根本的な転換が、

ここに隠されているように思えてならないのだ。








痛みを持つこと、痛みを知ることによって

カエラム(空や天)へ一本の道筋ができたのではないか。

私は子供の頃から決して平凡な人生など送ってはいないが、

交通事故、処理、医療、家族、健康、人生、目標というテーマは、

この世のすべてを内包し、私にとって辛く苦しい時間ではあったが、

素晴らしい贈り物をしてくれたとも思えるようになった。








自分のできることをさせていただく。

自分の持っているものを差し出させていただく。

それが道となるなら、私にはそれ以外の道などないのだろう。







※一部、シャーマンズボディの内容を使用している箇所があります。