16世紀の宗教改革に発したキリスト教プロテスタント各派の思想・神学。
その思想的中心は、
人は信仰によって救われるとする信仰による義認(ぎにん)と、
聖書を信仰の唯一の根拠とする聖書主義の二点である。
新教。
ちなみに義認とは、罪ある人間がキリストの贖罪(しょくざい)によって
正しい人として神に認められること。
罪のゆるし。
カトリックでは、義化という。
朝から長電話となったのは、南房総のシャーマン。
「タイから帰国したとき、私の中には『慈悲』『慈愛』という言葉が
ぐるぐると出口を探すこともなく巡るだけめぐり、
その欠如が現代の日本の象徴であることを痛感させられました。
それが私の自問に対する自答であり、
批判ではなく、今後、実際にそれをどのようにしていくのかがテーマでしょう」
「僕もまったく同じことを考えていました」とシャーマン。
成田から高知湾上空まで私が見続けた薄雲の龍の話、
ベトナム上空でみた灰色の龍の意味、
タイでの火災、飛行機墜落事故、インドネシアの地震、ミャンマーの政治情勢、
僕とは違った感覚で少し先の未来を感知してしまうのでしょう、と
シャーマンは私の話をひとしきり聞いた後、
一度、ゆっくりお話できませんか?と申し出を受けることに。
すべてとは決して言わない。
けれど、ヨーロッパでは宗教観がビジネスの土台となっている背景からも
慈悲の度合いが日本とは相違する。
世界ではじめてシートベルトを考案したのはVOLVOらしく、
自社がつくる製品で他者の命が散っていくことに心が痛み、
自社製品である車が交通事故を起こした場合、
その事故現場に社員を送り、ダメージの現実を知り、
そして改良へと結びつけたらしい。
実際にベンツも同様のことをやっていると聞いた。
車社会である以上、事故をゼロにすることは不可能に近い。
けれど、ダメージを最小限にすることは、
開発者である販売元にも責任ありと私は考えてしまう。
では日本ではどうなのだろう?
私が知らないだけなのか、
それともやはり耳に入ってこないということは何も行っていない証か。
どの車種が年間どれくらいの事故を起こし、
人間の死を誘発し、ダメージを与えている詳細を知りえているのだろうか?
その後の二次・三次被害、保険会社や病院の対応を本当に把握している機関は
日本にはあるのだろうか?
私の今生のテーマのひとつが医療なのだと自覚したとき、
主張できる私の後ろには人間で生まれた人たちの人生がときに関与してくる。
人生の深さを考えたとき、そこには責任や慈悲や慈愛への思いが欠かせない。
日本に欠如しているとするのであれば、
欠如していない人間がそれを欠如した部分を補う役割を担えばいいのだ。
容易いことではないことは理解している。
けれど、私は批判ではなく実際に改革として着手したい。
ちなみに小泉政権が行った弱者への切捨ては、
障害を持った子供たちが通園する費用が1000円から2万円以上に、
私たちのように医療を必要とする身であったとしても、
健常者としての取り扱いが通常なされるのだ。
ということは、国は切り捨てに入り、
自立できない者は生きていく道が閉ざされ、
結果、健康問題での自殺者急増につながっているものと思われる。
自らの手をくださなくても人は殺せる。
功罪は功罪として、いずれ自らの首を絞めることになるだろう。
慈悲・慈愛の意味や必要を、もう一度、私自身も考える必要に迫られている。