風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

9.11

2007年09月11日 21時24分29秒 | エッセイ、随筆、小説








今日はあの同時多発テロが起こった日だったのだ。

朦朧としながらスケジュール帳を確認すると、

9月11日、あれから何年が経過したのだろう・・・・・






犠牲者の方々、ご遺族、今でも障害と闘っている皆様へ

宗教を持たないものの祈りを捧げることにします。














医療の緊急という取り扱い

2007年09月11日 21時05分41秒 | 医療





神奈川県厚木市の市立病院で8月、

救急受付に来院した同市に住む無職男性(73)が診察を受けられず、

別の病院に搬送された約1時間後に心筋梗塞(こうそく)で死亡していたことが

11日、明らかになった。

厚木市は「心肺停止状態の別の急患がいたので対応できなかった」と

説明している。




厚木市によると、男性は8月12日午前10時20分ごろ、

家族が運転する車で来院し、「頭が痛い」と訴えた。

しかし、同日は休日で当直の医師しかいなかった上、

別の急患の診療要請があったため、

病院側は男性と家族に自分たちで119番通報し、

別の病院で診察を受けるよう伝えた。

 

男性は市内の別の病院に救急車で搬送されたが、1時間後に死亡した。 


[時事通信社]












こうした記事が世に出ると、さも病院の対応がまずかった・・・と聞こえる。

けれど、現場側の、特に緊急を扱う病院の現状という視点から考えたとき、

私はこうした記事の書き方に疑問を感じてしまうのだ。







寿命とは言わない。

がしかし、どのような死に方ができれば、

寿命だと生きている人間は納得できるのだろうか、と

ふと考えてしまうときが私にはあるのだ。


そして、もしこの病院で診てもらっていれば助かっていたなどという保証は

誰にもできない。

けれど、これが高齢者が増加していく上での避けられない現実だとしたら、

それなりに国も、病院も、家族も覚悟をしておくべきだろうと思ってしまった。








また、私たちのような疾患、

命はとられないが、体調が急変する場合においても、同様のことが言える。

今回、空港から病院へ電話をかけると

「必要であれば救急車を呼んでどこか別の病院へ搬送してもらってください」と

平然と答えるからだ。








私は言った。

「では、主治医を持ち主治医のもと経過観察をする意味はありませんね?」と。

受話器をとったのはおそらく事務職員だと思われるが、

殺されはしない、けれど、体調が悪化すると動くことができない状態でも、

通院先は診察を拒否してくる。

通常の診療時間内に合わせて体調が悪化してくれるなら、

この世の中に緊急病院など必要ないのだ。

その旨の今後の対応をケースワーカーに訊ねると、

一石を投じるのはあなたにしかできない、とまたしても言われる。

私は患者であって、一石を投じるために存在しているわけではないのだ。








上記と私の病院対応の問題の根底は相違する。

けれど、そうしたことを踏まえて、私は主治医に面談を申し入れようと思う。

私に何かあった場合、病院に連絡を入れている以上、

責任が問われるのは医師だ。

事務方の無責任さになどかまっている暇などないし、

病院に勤務しているという意識も、緊急であるという優先順位も、

対応もできないのであれば

その職業に向いていないことだけが輪郭を露にしていくだけだ。








この1ヵ月の間で、体重は10k減少した。

それはしっかりと食事ができないためだが、お金の許す状態のときは、

ウニソースパスタや叙々苑や自分の好きなものだけでも口に入れて

体力低下だけは回避しなければ・・・・・・・









人の生き方が激しく問われるのは、

重い病気にかかったり死を直面にしたりしたときだ。

積本の中から引っ張り出してきたのは、

柳田邦男さんの「人生の答」の出し方だった。

冒頭の言葉に、今日読むために選んだ本であったことを、

その必然を感じずにはいられない。









音信

2007年09月11日 12時03分39秒 | エッセイ、随筆、小説








私には彼の気持ちがわかるわ、と娘に言われた。

私にはちっともわからん、と答えると、

そっとしておいてあげなよ、

しならくは、ねっ? などと私の方が諭される結果になってしまった。








手術から5日が経過したものの50cm開口の背中は相当痛むだろう。

そのなかで立位や歩行のリハビリを行い、

最後に届いたメールには、

泣きが入る痛さだと記されていたことを思い出していた。









絶対に会いたくないのが私だという言葉が脳裏から離れず、

私は私なりにこれでもショックを受けているのだとようやく自覚した。

タイ滞在中には5歳児のような態度であったのに、

やっぱり心配だから帰国する、と伝え、空港に到着した旨を伝えると

ゆっくりしてくればよかったのに・・・と言いつつも、

私が日本にいるだけで安心することが手に取るようにわかることがあったのだ。

とはいっても、お見舞いくらい行かせろ!!

送った千疋屋の高価な巨峰は食べちゃったんでしょう?

だったらお礼を直接伝える義務がある!!

いろいろなことを考えてはみるものの、

娘の言うことが一番正しい、

私も越えるべき山なのだと痛感させられるばかりだ。









辛い姿を一番見せたくないのが私だなんて、思いもしなかったことだ。

私は旅行気分でお見舞いにいけるものだとの考えが砕かれ、

甘さだけが際立ってしまったのだから。








神様(盟友)は言う。

男でいたいのよ、と。

しかも耐え難いことに耐えてきた貴女だからこそ。

負けたくない、弱っている自分ではなく、耐えて乗り越えた姿を見せたい、

胸を張っている姿を見せたいのでしょう。

堂々と向き合うために。









一日一通だけ出していたメールの返信すら戻ってこなくなって3日、

彼の主治医とは別件で連絡を取っているため、

もしものときは知らせてくれるだろう。

とはいいつつ、私の心は動き、乱されたままの状態が続き、

体調が悪いからこそ、その打撃は相当なものとして心身を侵食する。








受身の強さには自信があったのに・・・・・

携帯電話を投げつけ、破壊し、自分の生活だけに専念できたらと考えてしまう。

自分の生活すらままならない今、

痛みが私の体を好む以上、より平静を保たなければ体が持たない。








音信は冬になる前にくれば上出来だろう、きっと。






容赦を学ぶ

2007年09月11日 07時24分40秒 | エッセイ、随筆、小説









一通の電子メールが届いた。

はっとさせられる言葉がいくつもそこにはちりばめてあって、

鼓動の高鳴りが時計の秒針音と一致したとき、

「容赦」という言葉から目が離せなくなってしまった。








そこにはエネルギーの強い人について書かれていた。

体調が悪くてもこれだけのエネルギーを有するということは、

健常であった場合、そのエネルギー自体で相手を潰しかねない、と。

自由に動けていたら相手を侵食してしまい、

現実面での努力をするな、と電子メールの送信者はある方に言われたらしい。








そして、こうも書かれていた。

努力や根性や気合や気の持ちようでは

どうにもならないことを体の不具合から経験したことによって

「容赦」を学んでこれたのですよ、と。

確かに以前のままであれば、私は言葉という武器を使って、

私が抱えている問題の当事者たちを、

間接的な関与だけで死へ追いやることは可能だっただろうと思った。

しかし、私は容赦をしているのだ。

相手をずたずたに切り裂かないように、

見えない血を無駄に流させないように、

闘いながらも相手の逃げ道をつくり、

居場所の確保まで考えながら行っているのだ。








日本向けでないからこそ、日本に生まれてきたのでは?

またしてもこの言葉によって、私の時間は止まった。

何かの役割を担った者たちは、平穏な人生とは無縁だと聞く。








今生きるこの地をほんのすこしでも進化させるために種を蒔く。

容赦という、

許容という、

寛容という、

慈悲という、

畏敬という、

育成という、

識見という種をこの地に蒔き、一度浄化させる必要に迫られている。








容赦は手ごころと訳していいだろう。

労力を時間をかけたものは必ず、目を出し、鮮やかな花を咲かせ、

やがて、その地が必要とする実をつけ、多くの種を残す。

そして、それは自分たちを護るばかりではなく、

後世へも手解きとなって、凪の世界が継続する。