雨の日曜日、それを「静養のとき」と私は呼んでいる。
BGMは雨音、とくに気に入った曲をかけることもせず、
しっとりと心に残るだろう予感を感受する本を積本から取り出し、
読みかけの本はかばんに仕舞ったままにしておく。
内省でもなく、深慮でもなく、ただし、何かを考え、
複雑に絡み合うことを好む人の増加や
ミャンマーで亡くなったカメラマンの死の映像や
カンボジアで目にした無数の骸骨、死臭、地雷の被害を受けた人々、
手足を切られた不可蝕民族であるインドの青年の姿、
煌びやかなニューヨークのレストランでの毎夜のパーティー、
現在、東京にいる私がどこかしっくりと事の上に事が増し加わる結果である今を
受け入れること、受け止めることが、うまくいかない。
雨の夜は月や星に救いを求めることもできずに、
だからこそ、人には深みがこの瞬間にこそ添えられるのかもしれない。
地球上に吹く風は私たちの現実に吹く風とは方向を異としており、
盟友から届いた電子メールには「前例」という文字が
私の内面をゆさゆさと揺さぶり、叩き、
何かをより目覚めさせるように心や魂にそれらを刻み、
体が他のものを動かし得る力を届け、私はそれらを有難く受信した。
月があと4回欠けたとき、
風は本来の風の方向を取り戻し私たちが希求する結果へ
導いてくれるものだと確信する。
その挑戦は明日からはじまる。
月があと4回欠けたとき、静止している物体に運動を促し
また、動いている物体の速度を変えようとする作用が起こるだろう。