風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

人殺しをする者

2007年09月18日 20時08分25秒 | エッセイ、随筆、小説








ヘリコプターの爆音で目覚めたとき、

時計はすでに午後16時近くに針はあった。

東京へリポートが近いとはいえ、尋常ではない数、異常な倦怠感のため、

父のいる下階へ連絡をして、

水分補給のために水を運んでもらいようやく起き上がる。







娘が私を呼んでいる。

階段をかけあがる音。

いつもとは違う音が響き、慌てている様子が窺えた。

ごめん、体が重くって起き上がるまでに時間がかかりそうだから、

このまま寝たままで話を聞くね、というと、

近所で21歳の女の子が押入れの中で殺され発見されたのだという。

鳥肌が立った。

娘は学校帰り、

地下鉄の駅から家へ向かう途中に位置するそこでの人だかりの異様さに、

声をかけやすい人をみつけ、何があったのですか? と質問したのだという。

女の子が殺されちゃったのよ、あなたも気をつけるのよ、と

声をかけたおばさんは娘の安否を気遣いながら、

物騒な世の中になってしまったわね、と涙していたといって話してくれた。






男女のもつれが原因だという。

けれど、と思う。

殺したいほど愛していたのではなく、

ただ単に彼女が自分から離れてしまうという依存が、

殺人という結果を巻き起こす要因ではないか、と。

なぜ、そこまでして、つまり、人を殺すところまでとことん、

係わり合ってしまうのか私には不思議でたまらないのだ。







家はその事件を議題に、大激論となった。

母は言う。

殺される方にも原因があるのよ、と。

私は言った。

私にはたくさんの理由が存在していたわけだから、

親を殺しても罰せられなかったという意味かしら? と。

食卓はしーんと静まり返り、どんな理由が存在しようとも、

人を殺してはいけないことを教えない親は親の資格すらないというと、

じゃぁ、私が殺されてもばーちゃんは殺された私が悪いというのね?と

自分の身に置き換え考えることの大切さや

殺された人を誹謗中傷するようなことがあってはならないと

私と娘は両親へ訴えた。

自分の娘を発見した母親の心境がどんなに辛いものなのか、

これからその母親の人生がどんなものになってしまうのかまで、

想像してこそ人間だと言って。








交通事故でも犯罪でも、被害者ばかりが糾弾される。

けれど、加害者が護られる風潮は日本独自のものだと耳にする。

日本の場合、被害者が声をあげないかぎり、

行動に置き換えていかない限り、犯罪を受けたことを納得したとみなされ、

加害者は処罰の対象から外されてしまう。

だからこそ、日本には犯罪を犯すということへの、抑制がゼロなのだ。








娘の幼馴染へ連絡をするといって、一斉にメールを送信した。

唯一、学校の帰宅が午後9時以降になってしまう少年Aが電話をかけてきて、

ダッシュして走ればいいかなぁ?とか、

俺、どうしよう・・・と困惑しているから、

駅から自宅まで送ってあげるから、○○駅を通過するあたりから

メールかワン切りして教えて、と伝えた。





どんな理由が存在しようとも人を殺してはならない。

がしかし、もし私の娘を誰かに殺められたときには、

私は自分の人生を放り出す覚悟で、

その相手を殺めることに躊躇などしないだろう。






ご冥福を心からお祈り申し上げます・・・







 


清算の働き

2007年09月18日 08時16分05秒 | エッセイ、随筆、小説









人が寄ってくる、集まってくる場合、その理由を考えてみた。

また逆に、人が離れていく理由、

なぜ、私がそれらから「清算」にまつわる事柄を

『清算』という決断、諦めではなく呆れによって

自らが打ち出すまで起こり続けるのか・・・・・・を紐解いてみることにした。

その本質を浮き彫りにするまで「清算」の働きは動作を鈍らせることはないのだ。









昨夜の夢見では「清算」対象のひとりであるひとりの男の叫びが

まるで、和太鼓のようなずっしりと重い痛みを伴って私に感応する。

それは身体の痛みではなく内面の、心の悲鳴を嗅ぎ取ったようなもので、

だからといって、私はこの「清算」という働きを自らの手によって停止するつもりはない。









記録として残すことを前提に事実の詳細を書くことは、

それが事実であるからこそ、驚愕に満ちている。

が、「清算」によって他者の心を痛めつける者にはその働きが作動し、

おそらく今後、それは自らを裁く「清算」へとシフトを遂げていくものと推測する。

つまり、傷つけるべき対象ではなく、傷つけるべき理由がない者へ

その者の心を、痛みを、落胆を与えるだけの行動や言動は、

いずれ、いや、すぐに自らの問題として浮上する。

言い換えるならば、

自分が行った行為に対する他者の痛みや傷が自分へ舞い戻ることを意味し、

そして、最悪の場合、死へと誘われてしまう。

そうなった場合、救済策は今のところないものと思われる。

そのような働きを私は「清算」と名付けている。










人の気持ちを理解できない者は悲しい。

そして、自らの不幸がまるで他者によって引き起こされていると思い続ける癖を持ち、

現実に目を向けないばかりか、自分の思うように他者を、世の中を動かそうと苦心する。

悲しいというよりも愚かな者だ。

なぜ人が離れていくのかを真剣に考えたことがあるのだろうか・・・・・・・











私は今日、長野へ行く予定だった。

急遽、そのすべてをキャンセルし「清算」の働きに身を委ねた。

現地まで、または現地で必要なすべての予約を済ませたことは関係者にとって周知の事実で、

そのために、朝から新宿へ行って準備に時間を費やしていた。

が、帰宅すると、それも、しばらく経ってから、

携帯電話はメールの受信を知らせた。

内容はといえば「○時から○時(約一時間弱)で会えるかどうか」との内容からはじまり、

主治医への心配りは本当に迷惑であったため、

それをもっと強く止めなかったことに悔いが残り、その行為が家中をかき乱す騒ぎとなり、

そこへきて私がお見舞いに来ることが知られるとこの上なく迷惑だ、と

そこには記されていた。

私は・・・・・・といえば、自分の目を疑いながらその言葉らしきものを辿った。

人は窮地に追いやられたときにこそ、その本質や本性がみえると

祖母は事あるごとに言っていたことを思い出した。

だからこそ、自らが背負う問題と引き受ける問題を分別して捉え、

生き様が病や他不具合などを抱えているときに問われることのないように

生きることがどれだけ自分を護ることになるのかを

お茶の時間になると、茶を啜りながら、子供の私へ説教をはじめるのが私は好きだった。

 

 




今後生きている間におそらく、

私はこれほどまでに迷惑だとの言葉を連呼されることはないだろう、と思いながら、

すごい言葉を平然と言い放つのね?と返信に宛てた。

また、日時指定などは私ではなく本人が行い迷惑扱いされる筋合いのないこと、

すべての予約が終了しキャンセルの連絡が危ういことが予想される時間帯になり、

怒っている様子なので明日は会いたくないとの心境の変化からはじまり、

その怒りが鎮まった頃にでも、また連絡を取り合おうとめちゃくちゃな文章が送られてきた。

タイからの帰国、数日を費やして綴った主治医への手紙、

私の障害を知りながら子供を欲していた事実、そして、そのことへの強要、

私の体調がよくないことを知りながらお見舞いへ向かう事実、

点滴が行える病院の確保、そして、中1日しかない面会の日程指定、時間、もろもろ。









私にも身体の痛みは存在し、そして、心も痛みを感じるように設計されている。

なぜここまで腐ってしまったのだろうと不思議に思いながらも、

私には関係ないことだし、私が腐っているわけではないので、

他者の弱さに同情する気持ちにはどうしてもなれないことは当然だと思った。

今まで無垢な人をたくさん傷つけてきたのだろう。

そして、傷を負わせていることに気付かないため、人は離れていってしまう。

ずっと問題から逃げて、自分が引き起こした事態を相手の所為のように装い、

言葉では勝てないと思うと、

疲れた、何も考えたくないと言って、逃げに転じる。

私はこういった人間に対しては、容赦など必要ないものだということを学んだ。









自分の行動、言動に責任を持てない人とは友人としても私は認められない。

人の痛みが理解できない者は同じことを繰り返す。

こんなことまで言われてまだ連絡を取りたい、会いたいなど、ぬけぬけと、と思った。

幼稚だ。

ガキだ。

人間としてもっとも大切なことが欠如している。

そして、何が大切なのかの理解もそっくり抜け落ちてしまっている。

哀れだ。

まして、男になどなれていないし、またなるつもりなどないのだと思った。

人が離れていく理由は、とても単純で明解なのだ。








おまけといったら失礼かもしれないが、

先のタイ視察へ同行した会社社長のデイトナが偽物だということが判明した。

私は二度と連絡は取るつもりはなかったものの、

破棄したことを問題にされるのも嫌なので、どのような方法で返送すればいいか、

会社の住所をお聞きし、時計が止まってしまっていることをさりげなく伝えた。

そこまでして高級品を身につけていると周囲へ知らしめたいことへ、

某県長者番付首位である彼の哀れさを感じた。

彼のいう友達とは、金をばらまくことで集まる人間を意味しているし、

金の切れ目がすべての切れ目であるように、男女関係なく、

物事の治め方が卑劣で悪徳であることと、

偽物の時計がどこかしっくりと重なりあわなかったのだ。









所詮、偽者は偽物を好み、偽者にしかなり得ない。

崩壊を目前にした男2名との清算を済ませた。

私にはもう二度と彼らを救済できないという清算は終結している。

それが人のこころというものだ。

生身なのだ。

血を流すのだ。

たとえそれがみえないなどと思うものにはいつまでも見えることはない。

見えなくていい。

そして、いつしか人が離れていく。

本当の友こそ財産であるのに。

盟友になり得るということを知らずに生涯を終える・・・・・・・