ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

再会~34年ぶりに会う母(草稿最終)

2009年11月30日 | 手放す~しがみつくのをやめる時
駅に到着し、レンタカーを返す。

「ありがとうございました。」

二度と会わぬレンタカーの方々へ、頭を下げる。

親切な方たちだった。


駅構内に入り、空を見上げた。 青空だった。

電車がくるまで30分。

ふとよぎる母との一日半を思い浮かべ、また涙がこみ上げてきた。

「上を向~いて  歩こうよ  涙が こぼれないよう~に」

そうだ、上を向いてみよう!

私は空を仰いだ。

涙が、こぼれなかった!

さすが、坂本九さん!


こぼれないのを確かめて、顔を元に戻したら、

涙がぼろぼろっと額にこぼれ落ちてきた。

「だめじゃん、九さん。 元に戻したらこぼれてきちゃうじゃん。」

そう思ったとたん、またあふれ出してきた。


無理に止めずに、泣けばいい

そんな風に、新潟の青い空は言った。

ありがとうございます、どうしようもなく止まりません。



電車が来て、座って、外の景色に目を向ける。

こみあげる感情は、何者なのか?

瞳をぬらす正体は、だれなのか?

私に何を学ばせたかったのか?

私は何から気づけというのか?

母よ あなたは 何も気づいていないのか?

ここまで落ちぶれても 何も気がつかないのか?


母に会うために書き綴った21の手紙がある。

11月1日から毎日、会いに行く21日までの、私の心の記録だ。

文房具店で、これを書くための毛筆ペンと、ノートとを選び、

貴女へ贈るはずだった。

でも、とうとう渡すことはできなかった。

貴女の心に届くかどうか、疑問が生じた。

貴女の解釈があまりに違いすぎて、誤解が生じるのではないか?と思った。

これが貴女に渡る時があるかは、今世では疑問だった。


山を越えた電車。 

ガタンゴトン ガタンゴトン と 何人もの思いを乗せて走る、

電車の音は、心に心地よく響いていた。

山が開けて見えた田んぼが、ぱーっと光った。

雲の間に間に浮かぶ太陽が、白い光を放ち、

それは美しかった。



私は、とても大切な一仕事を終えたと実感した。

もやもやとした心は、晴れてはいなかったが、

この混乱は、多くの人や言葉によって中和されることも知っていた。


この日、夜は3時過ぎまで眠れなかった。

たったの二日間が、走馬灯のように思い出されて、

興奮して眠れなかった。


あれから1週間が経ち、私は平常に戻っている。

いろんな方たちへ、いろんな方法で、私のことに関わってもらい、

私はまた一つ、経験値を積み重ねることができた。

私に何を見せたのか、誰が見せたのか、それはまだ分からないが。。。

おしまい


再会~34年ぶりに会う母(草稿5)

2009年11月30日 | 手放す~しがみつくのをやめる時
波の音は聴こえなかった。

防波堤で囲まれた、夏には海水浴場になるという海辺に、

もう風は吹いていなかった。

朝の6時、目が覚めた私は、寒々しい部屋をぐるりと見回し、

静かな空気を感じていた。

何事もなくて、よかったと、ほっとした。

バカみたいに不安がっていた昨夜を思い出し、

人を信じることができなくなる自分を恥じた。


だれも、起きてはいなかった。 人の動く気配がなかったから。

7時、母が起きたようだ。 階下へ降りていく足音が聴こえる。


母は、小さな体だった。 もともと小柄であるが、

昨年癌の手術をしたせいで、21年前に会った時よりも幾分ほっそりしていた。

大きくて、キリッとした瞳は、65歳を迎えた今も美しかった。

背は低いが、手足が長く、姿勢がよい。

真っ直ぐに立った厨房での姿は、凛々しささえ醸し出している。

何が、貴女をそこまで落ちぶれさせたのか。 思いを巡らす。。。


朝ごはんを食べる前に、緑茶を何倍も飲みながら、

また話し始めていた。

私は、左手の親指と人差し指の間に走る激痛に耐えながら、

どんどん動かなくなっていく指に触れながら、

早くここから帰りたい、という思いでいっぱいになっていた。


悲しいほどに、ここから去りたかった。


指は、新潟へ向かう車中から、様子がおかしかった。

八戸から大宮までの新幹線の中で、少しずつ痛みが発症し、

越後湯沢から直江津までの電車の中で、どんどん痛みが増してきていた。


母の家の中、話し込みながら、どんどんどんどん

その痛みは強くなり、夜には動かせないほどになっていた。

精神的なもの、なのかもしれない。 

潜在意識の中に、私の頑なに拒否している何かが、症状として表れたのだと

思った。

一刻も早く、立ち去りたかった。 私の役目は終わったんだと思いたかった。


「お金を貸して欲しい。」

ついに、言ってはならない言葉を口にした母。

21年ぶりに会い、34年ぶりに同じ屋根の下で眠った翌朝の出来事にしては、

衝撃的すぎた。

表情には出さずとも、私の頭の中には大きくて立派な鐘が

ごわーーーん ごわーーーんと 鳴り響いていた。

ずっと、鳴り響いていた。


これで、最後だ。

私の自慢の娘達や夫を、ここに連れてくることは、

これでもう無くなった。

はい、終了! どっとはれ!

鳴り響いた鐘の音も、ぴたっと止み、私の思考回路もここで閉じられた。


少ないお金だったが、封筒に入れて渡した。

そのお金を持って、一緒にスーパーに買い物に行った。

お客さま用のお酒・ビール・食材と、母用のタバコ。

親孝行、これでもう十分にしたと思った。


昼を過ぎ、帰る時間がやってきた。

ようやく、やってきた。

私は、かなりクールであったかもしれない。

握手もせずに、車に乗り込み、さよならと言った。

母は、いつまでも、私の車の見えなくなるまで、手を振っていた。

私も、母の姿が見えなくなるまで、バックミラーを見ていた。

涙が、溢れてきて、

なぜか、涙が溢れてきて、

前の景色がにじんで仕方なかった。

ハンカチに化粧をぬぐいながら、高速道路を走った。


再会~34年ぶりに会う母(草稿4)

2009年11月28日 | 手放す~しがみつくのをやめる時
まるで小説を書いているような錯覚を覚える。

いや、私の経験したことが小説だったのではないか?と勘違いしてしまうほど、

他人事のようにも思えてくる。


時が過ぎ、いろんなことを冷静に考えられるようになった今、

このブログという媒体に、これ以上掲載することに

戸惑いを隠せない。

書き始めた以上、書かねばなるまい、という責任もある。


・・・と様々に考えをめぐらすと、

禅師のおっしゃった「考えすぎるな」という言葉が通り過ぎる。


私は、とりあえず記しておきたい。

その欲求があるのなら、それに従うのみである。

読みたくない方は、これ以上は読み進めないようにお願いしたい。

わがままですみません。

◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇


「子どもの頃の、君の写真を見たことがあるんだよ。

面影があるね。」

私は、その弟に言った。 不器用そうな弟は、恥ずかしそうに笑い、

「え、そうですか。」と言った。

君の過去に思いを馳せて、しばらくしてやめた。

君も、苦しんできたね。


母は相変わらず、弾丸のごとくに話していた。

私の辿ってきた道のりに思いを転じることはなく、ただただ

まるで今までの自分の人生を回顧するがごとくに、

母の半生は続いた。 反省はどこにも見られないのだが。


ふと気がつくと、電話台の下に新聞紙に包まられた包丁が見えた。

柄が大きかったので、魚を捌くためのものか?

なぜ、厨房が隣りにあるのに、ここにあるのか? 不安がよぎる。

そして、一種の諦めも同居した。

人は死ぬときは死ぬもんだ。

命の時間は、私ではなく神様に委ねた。

かといって、怖くなかったわけじゃない。 怖くて怖くて、

夜寝床についても、しばらく眠れなかった。


綺麗に片付けられた部屋。 トイレ。 厨房。

そして、綺麗に掃除されたお風呂に入れさせていただいた。

母はとても綺麗好きだった。 知らなかった。


二階の部屋には暖房はなく、とても寒かった。

私の布団の中に、一個しかないであろう湯たんぽを入れてくれた。

ありがとう。

母は、寒くなかったんだろうか? 昨年癌の手術をした傷口が、

寒さで痛んではいないだろうか? 

そんなことを考えながら、さっきの包丁を思い出しながら、

なかなか寝付けない自分がいた。

財布は、手にもっていたバッグから、スーツケースの奥底に隠した。

なぜか不安がよぎっていたから。 怖い夜だった。





再会~34年ぶりに会う母(草稿3)

2009年11月26日 | 手放す~しがみつくのをやめる時
おいしい手づくり料理だった。

34年ぶりに食べる母の味は、こんな味だったのか。

当時5歳の私には、とうてい思い出せない。

思い出すのは、キッチンに立って、するめを焼く母の後ろ姿と、

焼きあがるのを今か今かと待ちわびる自分。


離婚してから、水商売、小料理屋と経験を重ねたらしい母は、

料理の腕を上げたらしい。

料理が大好きだといい、いろんなお料理の作り方を口頭で教えてくれた。


父親違いの弟である男性が、家に入ってきて、一緒に夕飯を食べた。

背の高く、すーっとしたよい形の鼻、眉は濃く、額とともに少し突き出ていて、

目が奥まっていて、眼光は鋭い。 外人のような姿だった。

明らかに、堅気ではない様子が見てすぐにわかった。


幸い、私はどんな人でも、とりあえずは受け容れる方針を持っている。

こうした方々にも、割と普通に接することができる。

いや、一応弟という存在だからできることではあるが。


怖くはない

と言えば嘘になる。

怖かった

こういう時、彼の怒りに触れぬように びくびくして過ごすのは

逆に事態を悪くすることも知っていた。

だから、普通の人と接するように話しかけ、冗談を言って笑い、

彼のよいところを見ようと、私の眼光の方が鋭かったかもしれない。


実際、彼はとてもナイーブで、純粋で、素直な男の子だった。

不器用だし、環境もいいとはいえない家庭で、心閉ざし、

きっと多く傷ついてきたであろうことは、すぐに分かった。


そんな自分を受け容れてくれるところは、右翼団体やどこかの組しか

なかったのかもしれない。


同情はしていない。

ただ、こういう社会でしか生きていけない人間が

たくさん存在することに、憂いを感じるしかなかった。


三人で、こたつを囲んで、

「おいしいね。」と言って食べた。

この時、私は姉なんだと自覚した。


再会~34年ぶりに会う母(草稿2)

2009年11月26日 | 手放す~しがみつくのをやめる時
直江津駅は、横殴りの雨だった。

細かい雨が、駅や駅前広場をはげしくなぶる。

私は小さなスーツケースをゴロゴロ引いて、

駅レンタカーへ向かった。

お借りする車についてと、糸魚川方面への道順について伺い、

案内の方と一緒に外へ出ると、

さっきまでの激しい雨は止み、

曇り空へと変わっていた。

これで濡れずに済みました、ありがとうございます、という気持ちを

空を仰いでお伝えした。


小さなナビ付きの車に乗り、行く先をナビに入力。

海沿いの道を選択して、さっそく走行してみると、

見えてきた日本海は大荒れだ。

波は、私の目線と同じくらいに、いやきっともっと高く、

その大きな手を岸辺へサバンと振り下ろした。

海沿いの道は、通行止めになっていた。

高速道路の方へと道を戻る途中、親鸞上人ゆかりの公園を通った。

綺麗なところだな、と感じた。

雨がまた降ってきた。


到着したところは、晴れたら美しいであろう日本海と、

小さな神社のある弁天島が目の前の漁村だった。

道に迷い、入ったところには、白山神社という美しい神社があった。

もうすぐ着く。


ほんとうに海のそばに、そこはひっそりと建っていた。

小料理屋の看板と布がかかった小さな家、そこに母はいる。


小さな玄関のベルを鳴らし、出てきたのは21年ぶりに再会する母だった。

瞳の大きく、きりっとした顔立ちはそのままで、

だいぶ年をとった感じがするが、以前と変わらぬ様子の母だった。


「よく来たねぇ。さぁ上がって。」

嬉しそうな母は、私を抱きしめたかったに違いない。

私は応じる余裕はなかったから、抱き合いはしなかったが。


「来る前に、すんごく雷が鳴ってさぁ、すごかったんだよぉ。

大丈夫か心配だった。」と、お茶を準備しながら話す母の声は、

気持ちが高鳴っているのがわかった。

「そうでしょ、きっと雷さまが挨拶にきたんだよ。」って言ったら、

笑ってた。


到着したのが3時頃。

そのまま夕飯の時間6時くらいまで、ひっきりなしにしゃべっていた母。

何 か を 、必 死 に 、しゃべっていた。

うんうんと聴き続ける私。

私は、今日のこの日のために、カウンセリングの技術を学んだんじゃないか?と

思わずにはいられなかった。

そして、この技術はとても役に立っていた。





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