ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

戦争のつくりかた

2006年11月29日 | 観劇・読書・感想記
[戦争のつくりかた] マガジンハウス
りぼん・ぷろじぇくと文
  いのうえやすみち 絵 

「わたしたちの国は,60年ちかくまえに,
『戦争をしない』と決めました。
だからあなたは,戦争のために
なにかをしたことがありません。
でも,国のしくみやきまりを少しずつ変えていけば
戦争しないと決めた国も,戦争できることになります。」

と始まる、絵の入った、そして子どもに分かりやすく解説されている本です。
約2年前の12月1日、山口で働いていた「子育てほっとサロン」http://www.teto2.jp/blog/?n=193でのスタッフ日記に紹介したことを、ほぼ2年後の今日思い出した。
以下抜粋~
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 師走に入りました。今年もあと1ヶ月。私はまた、クリスマスと大晦日の控えたこの月を、なんとなく心ワクワクさせて、なんとなくテンション高めで過ごしていくことでしょう。いや、でもちょっと待てよ。高知県や新潟では、いまだ避難生活をしている人がたくさんいるし、海の向こうのイラクでは、いまだ昼夜を問わず戦闘体制で、不安な生活を強いられている人達がたくさんいるんだよね。それなのに、私、こんなにのほほんとしながら、年越ししていいのかしら?と、ちょっと反省。遠くのことだし、自分自身の問題ではないから仕方ないじゃない?で、いいのかしら?気持ちだけでも、困難に遭っている人達のことを思ってみよう、と思います。

 「戦争のつくりかた」という絵本をご存知ですか?てとの掲示板でも紹介されたこの本は、薄くてとても読みやすく、憲法第9条や有事関連法のことを、子どもにも分かりやすいように説明している絵本なのです。現在戦争をしていない日本(自衛隊派遣をしたり、経済的支援をしていること自体、すでに参戦しているのではありますが。)が、戦争をするまでを描いた本で、書店にもおいてあり、東京ではベストセラーにもなっている本です。
 私は、この絵本を、赤児におっぱいを飲ませながら読んでいました。読みながら、ある妄想にかかりました。
 
 私の赤ちゃんにおっぱいを飲ませている上を、戦闘機がとんでいる。
 私が、ああまた飛んでいる・・・。ん?でもなんだか音がいつもと違うような?
 と思った瞬間、銃弾がダダダダダダダダーっと駆け抜ける、
 ものすごい音が頭上で鳴った。
 私の耳は、一瞬何も聞こえなくなった。
 ふと見ると、赤い水滴が周りに飛び散っている。
 「なにこれ?」と思う、耳の聞こえない私。
 耳が少し聞こえてくるようになって初めて、状況を把握する。
 おっぱいを飲んでいた私の赤ちゃん、頭に銃弾を打ち込まれて、
 すでにおっぱいを吸っていた口は動いていなかった。
 私の腿も、銃弾がいくつか貫通しているみたいだった。
 腿が熱い。でも、赤ちゃんがピクリとも動かないことにショックで、
 自分の足なんてどうでもよかった。
 少し離れた場所にいた上の子が、走ってきて、
 「ママー!赤ちゃんが!赤ちゃんが!」と泣いて叫ぶ。
 だんだん自分の足の痛みが増してきて、苦しくなっていく自分に思う。
 我が子が死んでも、自分の痛みには気付いてしまう。
 そのことが悲しい、と。

読み終えて、涙が止まらなかった。再び戦争を起こしてはならない!と思った。涙を血で洗うようなことは、決して、してはならない!
でも、戦争をすることができるようになってしまってからでは、戦争反対とは言えない世の中になっている。戦争擁護派の情報戦略で、世論はなんとなく「戦争も仕方ない、外交のひとつとして持っとくべき」とかなんとか、正論ではない正論に傾き(傾いたように見せられ)、反対派は少数意見となり、無視され、そのうち肩身が狭くなり、誰も「反対」とは言えなくなるんだ。そうなってからでは遅すぎる!今から、「戦争反対!」と、強く思っていなくっちゃ!世の中の情報に左右されることなく、自分の、人間の本音に正直でありたい。

戦火の子どもたちは、みんなとても元気だという。悲しんだり、苦しんだりするよりも、こういう風に口をそろえて言うという。「僕が大人になったら、やっつけてやる!」
そんなだから、戦争は終わらない。止まらない。
だから、始まる前に声を出さなくちゃいけない。
日本を再び、あの異常な世界にしちゃいけない!
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そして、イラクではまだまだ戦火は絶えず続いている。
新潟の被災者や先月のサロマの竜巻の被災者は、仮設住宅での暮らしをよぎなくされている。
戦争のない平和なはずの日本では、自ら命を絶っている人々の叫び声やうめき声が聞こえている。

私は、我が子に、そして我が子と同然の大切なコドモタチに、何を伝えていかねばならないか。
どんな風に教えていかねばならないか。
未来は明るい!!!と決して言えないような混沌とした世の中であるけれど、諦めた時点でフェイドアウト。
先行きの見えないのは、今も昔も変わらないと思うから、先行きが見えないからこそ、前を向いて歩こう。
しっかりと、見据えながら。

苦情・苦言への対応

2006年11月28日 | 愛ある辛口
今日、とあるショッピングセンター内の某ドーナツショップでの出来事。
いつものようにドーナツを購入。エリーと食べ始める。
ん?なんだ、このドーナツ?
ダブルショコラなのに、なんだこのマーブルな生地は???

そう。ここのドーナツ、なってないんだよ。
学生の頃、渋谷公園通りにある同じドーナツショップでアルバイトをしていた私だから、ちょっとのミスも見逃さないぜい!!
ダブルショコラは、丸型なんです!完全の!!
ファッション系とは違って、きれいな丸の形を保ってこそ、おいしいのです!

・・・お金、払っているので、とても悲しい気持ちになります。
ここは、前もそうだったんです。チョコレートのコーティングがしょぼかったり、小さいドーナツがいくつか入っているシリーズの大きさが、えらいマチマチだったりしてたんです。
どうせ利用するなら、おいしく、楽しく、感じよく利用したいじゃないですか。
日々の格闘の中の、コーヒータイムというひとときを、ほっと安心して過ごしたいじゃないですか。

・・・というわけで、苦情出してしまいました。本社HPから、お客様相談室みたいなところへ・・。
以下、苦情内容。

~利用するたびに、ここのドーナツの形といい、チョコレート等のコーティングといい、すべてがなっていない。

詳細
・今日の話ですが、ダブルチョコレートを頼んだが、食べる時に持ち上げたら、裏側の3分の1がチョコレートではなくノーマルの生地だったし、まん丸のはずの
裏が、オールドファッションのようにガタガタ・生地が空洞になっていた。

・○-popについても、大きさに明らかな違いがあり、極端に小さいもの有り。また、コーティングのチョコレートがほとんどついていないもの有り。

・チョコ○ッション:たいてい上部3分の1以上はチョコのコーティングがなされているものと思うが、ここは上部の半分上の部分にのみ、3分の1以下のコーティング。これでは、○ールドファッションに間違えてチョコがついてしまったの?としか思えない。

・カフェオレ:薄すぎて、ただのお湯の時がある。

・スタッフ:苦情を申し上げても、問題のドーナツを差し替えるわけでもなく、そのまま放置。謝りもしない。

貴社の方針を変更したのかと思っていたが、他の店舗ではこういう事例は見当たらず、変わらずに美味しいので、この店舗だけであろうと思い、投書させていただいた。
お金を返してほしい!と思ってしまうほど、ヒドイです。なんとかしてほしい。~

非情・・・と思われようといい。
だって、心地よく利用したいし、せっかくやるんなら、ちゃんとしてほしい。
ファンだからこそ、苦言を言わせていただいたのだ。

メールをした後、ものの15分で返信されてきた。
謝罪メールだ。
この即効ぶりには、正直予想だにしていなかったので、驚いた。
そして、その返信後、30分後には、直接電話が来た。某ショッピングセンター店から、直接だ。
なぜ、うちの電話番号がわかったか。
それは、苦情を送る際に、住所も名前も電話も、すべて記入したからだ。きちんとした意見を述べるのに、匿名というのは相手に失礼である。というのが、私の持論。ただの中傷や陥れるためにしているわけではなく、相手を想ってこその苦言・苦情・意見だから、平等に、公平にしたいのだ。

某ショッピングセンター店の店長さんらしき人が、これから謝罪のために、我が家へ来ると言う。断っても、引き下がらない頑なな姿勢に押され、お待ちすることにした。
ドーナツを持ってやってきた店長さんは、若い女性だった。
私の、貴社への想いや頑張ってほしい旨を伝え、なんだか申し訳ない思いをしながら、ドーナツを受け取った。複雑な思いではあったが、これで貴店がとても素敵なお店になることを、心から応援したい気持ちになった。

それにしても、この対応の速さはすごい!!
過去にいろいろな不祥事を起こしているからなのかもしれないが、会社全体の危機管理が行き届いている。次の不祥事があったら、今度こそまるっきり信用をなくし、社会から排除されてしまうということを身をもって知っているのだ。
これが本来の企業の姿勢なのだろうが、なあなあな世の中に慣れてしまった私の体には、衝撃だった。
歴史ある企業が、まるでつい最近起業したかのような新鮮さを持った対応。
とても気持ちよく、心地よく感じられた。

世の中に、様々な会社や、NPOや、店舗があるが、ダレテシマッテハ イナイカ?
苦情を言う人は、来なきゃいい。
嫌だと思うんだったら、合わない。
客は、自然淘汰されるものだ。
ここを好きな人しか来なくなるものだ。
そう思っているとしたら、少し考えてほしい。
本当に、そうだろうか?

私はここへ行きたいのだけれど、どうもここは私を受け容れてくれる感じがしない。
ここのサービスがいいな、と思って電話してみたけれど、素っ気なくって、利用しない方がいいのかな?
ここへ来たいから、苦言を言いつつ、足を向けているのだけれど、誰も気づかないみたい?
もっともっとよくなってほしいから、無理に通っている。

運営する会社員、スタッフ、アルバイト。そして、その社の空気。
社を作るすべてが、何でも受け容れ、どんな小さなことでも対応してくれ、親切丁寧に接してくれたら、利用するお客様は心地よく、そこを選択するのではないか?
社に関わる以上、すべての人が真剣に対応することで、そのプロ意識に感心し、安心して利用できるのではないか?

私は会社を持っているわけではないが、なんだか今回のドーナツ事件がとても勉強になった。
とても、勉強になった。

赦す・・ということ

2006年11月28日 | これも自分あれも自分
人を認めること
人を分別しないこと
人をねたまないこと
人を包み込むこと

そして
人を赦すということ

どれもがとても難しくて
どれもに迷いが生じて
どれもが ついにはどうしたらいいのか分からなくて
どれもこれも 人として生きている私に突きつけてくる難題

どうにもこうにも
自分のさがの 
いや
人間のさがの醜い部分
どうしても克服したい 汚い部分
老婆になった時には
今よりも 少しはましに なっているのか

そんな醜き人間のさがに
愛らしさを感じもするが

こんな汚い私のさがの
人間臭さに安堵もするが

函館クリスマスファンタジー

2006年11月28日 | 愛ある辛口
先日、実家の函館へ帰りました。
金森倉庫は、今来月から始まる「クリスマスファンタジー」というイベントの準備で、道の両脇にある街路樹へ電球を取り付けている人たちがたくさんいました。
行ったことある人はまた今年も!
行ったことない人は、ぜひ一度!

毎年カナダからやってくるモミの木。
背の高さはずば抜けています。
そして、イルミネーションの美しさも、夜の深い漆黒の海原に映えて、とても幻想的です。
港なので、すんごく寒いけど、ね。

あのモミの木・・
イベントが終わったらどうなるんだろう???
素朴な疑問&森林伐採?とか心配になったりする・・・。
どんなに楽しく明るいイベントでも、辛口な分析な私なのでした。。。ほんと、嫌な性格だわ。

保育園主催の子育て支援

2006年11月18日 | これも自分あれも自分
今日、八戸に来てお初の、子育てサークル酸化、いやいや参加してきました。
八戸には、きっと一般の方がされている子育てサークルというものがあると思うのですが、なかなか見つけられず、とうとう情報収集するのにくたびれてしまって、仕方なく(?)苦手なところである保育者主催のものに行くことにしたのです。

何故に苦手かというと・・・
万事、与えられる事柄をこなすことを楽しむよりも、自ら動き、自ら作り出し、手の足りないところに手を差し伸べることが好きな性格なのである。
だからどうしても、与えられたゲームや手作りやお菓子などにほくほくと喜んだフリをしている自分がいて、そのフリが自分の中でとても不自然な動作であるために、どんどん苦しくなっていくのだ。

今日も、やはり・・・
どうしたって、2人いる保育士さんのお遊びの時、手作りの時、準備の時等々、手伝ったほうがいいかな?とか、利用者さんにこう促した方がいいかな?とか考えながら参加していた。そして、最後にはとうとう片づけを少し手伝っている自分がいた。許されるなら、掃除機までかけて帰りたかったし、コップを洗うくらい、代わってあげたっていいのに・・、なんて思いながら、でもあつかましいかな?とか誰もしていないのに、いきなり初参加でここまでするのは嫌味かな?とか思って、そこまでするのは止めた。
保育士さん2人だけでの準備。2歳未満児と2歳以上児を、それぞれ月に2回づつの会だ。「下準備も大変でしょう。」と声をかけると、「そうですねぇ。」と苦笑いする正直な先生。思わず「手伝いましょうか?」って言っちゃうよぉ。いやいや、でも今日は抑えて抑えて。

プログラムは、まず“手遊び”。そしてリズムに合わせて簡単な体操。そして、手形を取って、落ち葉と一緒にスクラッブしてくれた。牛乳パックを使った手品風おもちゃを作って遊んで、おやつタイム。最後に読み聞かせでおしまい。
エリーは、それはもう楽しんで!!同じくらいの子どもたち。みんなやんちゃで、エリーも負けずにママの言うことは聞かず、細長い空の棚に入ったまま戻ってこなかったり、走り回っていたり。楽しそうで、とりあえずそれだけで私は幸せだった。10組以上の親子を一度に見たのは久しぶりで、いろんな方たちがいて、気になる方や、いっぱいいっぱいの方や、きちんとしたい方や、奔放な方が混在していて楽しかった。そう、こうでなくっちゃね!みんな違う色で、みんな違った環境で、みんな違う生い立ちを持っているオトナたち。そして、そのコドモたち。こうでなくっちゃ、日本は元気にはなりません。
そして、なんだかんだ言っても、私が一番元気になっていたかも。人は人と交わって、自分の殻を柔らかくする。再実感。これが長く続くといいけど。

次回は、少し保育士さんのお手伝いをしつつ、そんな雰囲気を他の方たちに自然と伝染してくれたらいいのにな、と思う。
なぜ、そこまでしなくちゃならないか?参加するだけでいいのでは?
私は、参加した会が終了後、余韻なく帰る親子やあいさつもなくさっさと帰る親子を見てきた。でも、それが普通のことなんだよね。でも、私はいつも「?」と思っていた。
舞台を見終わった後、オーケストラを聴いた後、よい講演を聴いた後など、いつまでもその余韻に浸っていたくて、その濃い空気の中に身を置いていたい感覚がある。そして、それらを提供してくださった方々や、支えてくださったスタッフの方々に、称賛の一言を伝えたくなってしまうのだ。
それと同様に、いろんな会やサークルに参加した後には必ず、一声かけたくなるのだ。「お疲れ様でした。」と。「大変ですね、でも楽しかった。ありがとう。」と。その感謝の気持ちを、後片付けを手伝ったり、ごみを拾ったりという行動で示したりする。変なのか?私だからか?
でも、冷静に考えると、その気持ちを他の人たちに強制するいわれはどこにもなく、私の押し付けになってしまうのだろうなぁ。やめとくか?
今ふと思い出した。
そういえば小学生の時からそうだった、私。そして決まって、「あいつはいい子ぶってる。」「先生に媚を売ってる。」って言われていた。そうだった、そうだった。その言われている雰囲気を読むたびに、「いい子ぶってるんじゃなくて、気づいたから行動しているまで!」「悔しいんだったら、あんたがやってみたらいいじゃん!」って、心の中で「あっかんべ~」をしてた。私のしていることに、間違いはないと確信していたもの。社会のルールだと、当たり前のことだと、思っていたもの。私の資質、なんですねきっと。あしからず。
この道で、私は行きます。生まれてからも、これからも、「強い私」は変わらない。たまには、「強いふりの私」もあるけど。

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