ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

何か資格が? 資格が何か??

2007年04月25日 | 愛ある辛口
何かを提言したり
何かを訴えたり
何かの協力を求めたり
何かの相談を持ちかけたりしたとき

私にとっての話だと、
子育てという専門分野(?)に関係する協力や相談の時なのだけど
相手の方は決まってこう聞いてくる。
「保育士さんですか?」
「学校の先生か何かをされていたのですか?」
「看護師さんでしたか?」
「何か資格をお持ちですか?」

はぁ、またそれですか・・・。
資格がないとお話になりません、とは言われない。
資格がおありだと話が早いのですが、とも言われないが、特に資格は持っていませんと応えると、先方の顔に曇りが生じる場面をたくさん見てきた。
心の中で、
「資格が何か必要ですか?」と問うのだが、言葉にはならず、諦めと無念さがよぎる。
そして、帰宅しながら思うのだ。
「しかくかぁ~。」と。

そんなに「資格」「資格」と言うのなら、いっそそんな資格なんて持たないで、
いっそただのおばちゃんで、行動していってやる!!!と心に決めたり、意地になったりしながらも、どこかにひっかかる「有資格者優先主義社会 日本」。
いやもしかしたら、日本だけではないかもしれないが。

ずっと頭をもたげる「資格取得」。なんなら取れそうなものを片っ端から取ってやるぅ!と、投げやりに思ってしまいそうだが、そこまで私は乱れもせず、てんびん座らしくいろいろな情報を得つつ、いろいろな条件と生活状態と経済と、そして何より自分の思いを照らし合わせて考える考える考える。
そしてとうとう、考えながら1年が過ぎてしまった。このかん、資料請求した様々な講座やら大学やら通信やらからの、「資格をとりましょう!」DMは、2度3度届いていた。封筒を開けて見ては悩み、悩んでしまいこんで、また開けて読む数ヶ月。
結局、どれをも選べず、今になってしまった。
選べないということは、決定打がないってことだ。
ひっかかりはするものの、自分の思いとどこか何かが違っているってことなのだ。

レクリエーションインストラクター養成講座だって、受けよう!と思って、友人に意気込んだメールもしてみたものの、その後の子供たちの体調不良の2週間を経験した後には、こんなんじゃ、7ヶ月間毎週金曜日の夜7時から9時の講座への参加は無理難題と決め込み、結局キャンセルしてしまった。はぁぁあ。こんなんだよ、いっつも。
やろうと思えば、いつでもやれるさ。子どもがもう少し手が離れてからでもいいさ・・・。なんて言ってたら、きっと5年後6年後、その時にはもう現実的な家計救済措置の方に頭が回って、自己実現にほど遠く意識が変わってしまっているかもしれない。
それに、ほらやっぱり、資格なんてなくっても、やってできないことはないかもしれないし・・・。と、逃げ腰なんだか度胸だけはいいんだか分からない自己弁護が始まった。

そんな時、一冊の本を手に取った。
そして、それは迷いの中の私の心に、すーっとミントの香りを残していった。
つづく

わたしのイバショ

2007年04月19日 | 子ども
県が出している、子育て啓発情報誌の編集スタッフとしてお手伝いすることになった。
今日はその第1回編集会議の日。
特急列車に揺られながら、1年ぶりの仕事(?)に少し億劫になっている自分と、堕落生活に浸っている自分にできるのかという不安とが交錯していた。大丈夫かな?やれるかな?
1年という時間は、今思えば思ったよりも長いように感じる。
「まだまだ、エリーに手がかかって・・。」とか
「何もしないうちに一日が終わってしまって・・。」
怠惰な1年を過ごしていながら、
「この1年は情報収集に明け暮れていたのだ・・。」
なんて言い訳は、いくらでも出てくる。

初めての顔合わせではあったのだが、子育て支援に関わる子育て現役のママたちとの会話には、なんともいえない心地よさを感じた。
私の思いを分かってくれる人がいる、
私の知らない世界を知っている人がいて、いろいろと教えてくれる、
地域ではちょっと浮いている、いやかなり(?)浮いている私であるが、ここでは浮いていない気がする・・・。
私の落ち着く居場所。

今までにないことをしようとする時、大きなパワーが必要になる。
行動力だけではなく、それを裏付ける精神力が何よりもキーポイントだ。
そして、その発想を受け容れてくれる応援隊がいるかいないかで、持続力が変わってくる。
私は、今ある子育て支援サービスだけでは物足りない。
「わざわざ作らなくても、あそこのサロンに行ったらいいじゃないのぉ、いいわよーあそこ。」と言われ続けて1年が過ぎた。
物足りないというのは、サービスなのではなく、私が私として生きている価値の感じられる場がほしいのだ。
母親である自分が、「私」として生きている実感の沸くような場を作りたいのだ。
誰のためでもなく、一番は自分のため。
この自分のためが、他の誰かのためになれればいいな・・・。
きっと、ただそれだけのような気がしてくる。
ただそれだけなのだけど、きっと同じ思いの人はいるはず!!

母親である自分、家の中の仕事をするのがキライだったり、夫に「家事育児は母親の仕事」と言われて疑問を感じていたり、子どもがいてできる何かをしたい!と考えていたりするのは、決してあなたが母親失格なのではなく、母親に向かないのではないのだ。母親業の他にも、何かの役目を担える人なのだ。
母親だけではない自分の役割があって、それを求めている人がいることに気づいてほしい。そして、そんな自分を応援してくれる仲間に早く出会えますように、祈ります。

年の取り方

2007年04月10日 | これも自分あれも自分
人間生きていれば 
いろんな形の出会いや別れや
いろんな人との対話や争いや
嬉しいことや悲しいことが
起きるものです

それは 毎日の生活の中に埋もれてしまって
気がつかないほどの ささやかな喜び
蚊に刺されたくらいの チクッとした瞬間の悲しみもあれば
目を見開いて体が踊るほどの楽しさ
予期せずに頭を殴られたような痛みと虚しさの時もあります

年を取ると いろんなことが多角的に見られて
いろんな人の様々な心を感じることができて
物事の捉え方が広く深くなってきている気がして
ちょっぴり楽しみになってきていたこの頃でした

でも
年を重ねすぎてから 
人のことを羨んだり 権利を争ったり 
自分の正義を通したいがために 
人を赦すということができなくなっている大人を見かけると
自分の理想とする大人とのギャップに悲しみを覚える自分がいます
「自分のもの」と本人が思い込んでいるものに固執しすぎると
自分を客観視できなくなってしまうのでしょうか
そして
年を重ねてしまった人だからこそ
周囲の人間が諭すことができなくなってしまうのでしょうか

わたしは
「赦せる人間」になりたい
「他者を認められる人間」になりたい
「認めているという事実を声に表せる人間」になりたい

けれど
すべての人に対してできるようになれるかといえば
それはとてつもない神業にしか見えない
わたしはおごり高いのかもしれない

生きていれば いろんな試練がやってきて
ふいに泣きたくなる時もあるけれど
台所の片隅で 長い袖の淵で涙をぬぐっては 
いつもの自分を取り戻す
なんで悲しいのか どこでどうみじめになったのかは
時間をかけて解きほぐすことでしか分からないけれど
でも
わたしをそんなふうに刺激してくださる人が近くにいることが
わたしの傲慢でわがままな考えに
一石を投じ 
わたしの心の中のわーんわーん鳴っている動揺が
落ち着いた頃
結論が出ていることと思います
その時が 最終的でかつ揺るぎない結論

今まで決めかねていたことを
いよいよ決まる瞬間を用意してくれたその人に
感謝しこそすれ
憂うなどしないでいられますように

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