ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

杉山千佳さん!!!

2007年08月30日 | これも自分あれも自分
是が非でもお会いしたい方でした!
杉山千佳さん!!
いよいよ来月、青森へ講演しに来てくださいます!!

誰ですか?その人は??
という人も少なくないと思いますので、私の感じる杉山さん像をご紹介しましょう。ほら、経歴だったり今していることだったり、役職だったりは、ある程度検索してしまえば分かることでしょうから。私のなんでこんなに熱くなるのかを少し、お話します。

私が杉山さんを知ったのは、つい1年半前くらいのことです。
八戸に来て、初めての地で子育て支援をしているところを探している毎日のこと。地域情報の中で、私の思うところと重なる支援が見当たらなくて、半ば焦っている時期でした。底辺から調べるのではなく、トップダウンしていこうと考えを改め、現在日本の中で行われている子育て支援の最先端を調べ始めたのです。厚生労働省とか、文部科学省とか、国のHPを閲覧していたら、「杉山千佳」さんが少子化対策のなんだか会議みたいのに出ていて、そして、その中にはかの有名な横浜の子育て広場「び~のび~の」の代表・奥山千鶴子さん(この方は八戸ご出身なんですよね。)の名前も出ていたりして、興味津々で彼女のブログや、現在活動している「四つ葉プロジェクト」のことを知ったのです。

正真正銘、日本の子育て環境をより良くしていこうと、日夜奔走している先駆者。日本の女性たちの育児・労働・生活・心などなど、すべてを柔らかくひっくるめて、今あるおかしな制度や仕組みや偏見なんかの現状を改革していこう!と提唱し、提唱するだけでなく、実際に動いている人です。動きすぎて、よくそんなにたくさんのことを考えられるなぁ、賢い人だなぁ、いや賢いだけじゃだめなんだよなぁ、すごい実行力のある人だなぁ、、、、たくさんたくさん、思い浮かびます。彼女像が・・・。
会ったことがあるわけではないんですけどね。

今年の6月、東京に行った時、山口から来ていた友人Iが「杉山千佳さんの塾生」で、渋谷で行われたタウンミーティングに参加していました。そこで、
「これから杉山さんと会うんだけど、一緒に行かん?」と誘ってくれたものの、はっきり言って怖れで行けませんでした。そんなすごい人、私は何もまだ成し遂げていないし、そんな方と対峙するほど度量が大きくないので、珍しく躊躇してしまったのです。きっと、皆さんの話にはついていけない・・・。自分に自信がなかった。いえ、自分の自信が喪失するのが恐かったというのが本音だと思います。(ごめんね。せっかくのチャンスを与えてくれたのに・・。)

そんな恐れ多き「杉山千佳」さんが、青森に来られる!
チラシを見るなり、もう即答です。「行きます、行きます!」と、心の中で二回叫んでいました。ああ、楽しみなだぁ。

★第6回 子育て広場★
   平成19年9月8日(土)
    10:00~16:30
   会場:アピオあおもり
       青森市中央3-17-1

  ◇午前:親子わくわく広場
      A「ふろしきシアター」
      B「親子スキンシップ体操」
       ABともに①10:00~10:45
           ②11:15~12:00
       ※定員30組まで 要申し込みアピオまで
      C「手作りおもちゃコーナー」10:00~12:00
       ※申し込み不要ですが、材料なくなり次第終了

  ◇午後:杉山千佳さん講演会
      「子育て支援でシャカイが変わる」
       基調講演 13:30~15:00
       交流会  15:15~15:45
   
       定員100名 要申し込み(託児あり)

杉山さんが、講演名と同じ本を出しています。
子育て広場「となりんち」のおとな貸出本の中にもありますので、興味のある方は借りて読んでみてくださいね!

毎年とても素敵ですごい方を呼んでくださる、アピオのスタッフの方々のご尽力に感謝です。
こうして陰で支えて、準備してくださる方々のおられるおかげで、私たちの生きている環境の現状やこれからが見えて、それを目指すことができます。自分を見失うことなく前を進んでいけます。
こうした機会を得られること、こうした出会いの場を提供していただくことに感謝します。ありがとうございます。

八戸の方も、「青森遠っ!!」って敬遠するのではなく、とりあえず行ってみましょう!わざわざ足を運ぶことで得られる何かは、とても大きなことだと思います。
八戸は一応「青森県」。青森市は、県庁所在地。青森市から発信される情報を得て、八戸独自の施策を作りましょう。岩手県は近いけど、助けてはくれないと思います。
自分の足で、自分の目で、何かをつかんでくれたらいいな、と思います。
ぜひ一緒に行きませんか?

プロフェッショナル

2007年08月28日 | 子ども
今日のこの時間、NHKで放映されている「プロフェッショナル」。
よく見ている番組だが、今日は助産師・神谷整子さんだ。

エリーの出産を思い出しながら観ている。
そして、先日エリーは3歳の誕生日を迎え、大きな病気も怪我もなく3歳のその日を迎えられたことを家族みんなで喜んだばかりだ。
エリーを産む場所を決めた瞬間を思い出した。
山口のその助産師さんがいなければ、自宅という選択肢は思いもよらなかったと思う。
本当にありがたい出会いと、大切な経験。

ここで、3度目の感謝の気持ちを伝えます。
あさかさん、ありがとうございました。
エリーも、3歳になりました。
あさかさんのおかげです。
あさかさんの、なんでも受け容れてくれた深さのおかげです。
今でも、エリーを育てる中での不安や心細さも、あさかさんと一緒に話した時間と聞いてくださったという安心が、私の心の支えになっています。
こんなに離れてしまっても、それは一緒です。
体は離れているけれど、あさかさんの心が伝わってくるようです。
本当にありがとうございます。
今度はいつ、会いにいけるでしょうか。
エリーはなかなか、ひょうきん者に成長しています。


充電した後は・・

2007年08月23日 | これも自分あれも自分
昨日、長い実家生活に別れを告げ、八戸に帰ってきました。
一年半ぶりに会う福岡の弟の顔を見るために、滞在を延期。その間に、白い恋人はことごとく店中から消えてしまいました。買っとけばよかった???記念に???なんの???

充実した夏休み。
病いを超えて、こうして元気に一緒に夏を過ごせるとは、入院した時には思っていませんでした。こんなに早く回復するなんて。
命が、その人一人だけのものではないということを実感した夏でした。
粗末にしてはいけない、命と人の心です。

「俺なんかどうせ、お母さんに嫌われてるんだから、生きている資格なんてない!自殺してやる!!」
そんなことを軽々しく口にしたかと思うと、蟻をいじめるエリーに向かって、
「蟻にだって命があるんだから、いじめちゃダメだよ!」と言う甥っこ。
近頃の思春期の子どもの二面性を垣間見た気がしました。
家に幼い子どもが加わると、お母さんの体は赤ちゃんに捕らわれてしまいます。心も、なんだか防衛本能のごとく、赤ちゃんを守る体制に変わってしまうものです。
私の場合、たとえ同じお腹から生まれた子どもでも、赤ちゃん以外の子どもは危険生物であるがごとくの態度を取ってしまう時もありました。思わず怒ってしまう、思わずきつい言葉を言ってしまう、思わず睨んでしまう・・・。その「思わず」が、なんだか「日常」になってしまって、その「日常」に麻痺してしまう自分がいました。
そんな日々を過ごしていたとき、サーヤは言いました。
「エリーが生まれてから、ママはサーヤのことを怒ってばかりいる。」と。
言われた時は、ああそうだねぇ、ごめんねぇ、だけで済ませてしまいました。
しかし、しばらくして、彼女から悲痛な手紙をもらいました。そこには、彼女の心の叫びが書かれてありました。
「ママへ
 サーヤは、ママにおこられるのがつらいです。
 つらくてつらくて、いきているのがいやになってきます。
 しにたくなってしまいます。
 だから、おこらないでください。おねがいします。
 だいすきなママへ サーヤより」

必死の訴えでした。私の眠るはずの枕元に置いて、彼女はその隣に寝ていました。その姿を見て、この子がまだここに生きていてくれてよかったと思いました。手遅れになる前に、今までの怒りが日常化し、麻痺していた自分を改めなければならないと、真剣に考えました。彼女からのサイン、見逃すわけにはいかなくなりました。

子どもと対峙しているとき、自分の思い通りに動いてくれると、何事も効率的に済み、母としてはとても楽に過ごすことができます。が、子どもだって人間です。そして、どんどん自分の考えや自分の効率的な行動パターンが出来上がってきます。そこには、親である自分のペースとは合わない部分も出てくるのが当然です。私たちは、おとな社会では、相手とのペースを上手に合わせたり、合わせてもらったりしながら自然とコミュニケーションを取っています。が、相手が我が子となると、なかなかそのように上手にペースを合わせることができなくなってしまいます。どうしても、指示指導したくなってしまうのです。子どもはもう、右も左も分からぬ赤ちゃんではなくなっているのに。
子どもは成長しているのに、親はその成長に着いていっていないのです。
子どもと自分とは、まったく違う人格であることを忘れてはなりません。
人生ゲームのコマを決めるのに、「あなたは赤にしなさい、就職はこれはやめて、少し待ってみなさい、いやこれにしなさい・・・。」
彼女の人生、私がコマを決めるのはおかしいのです。
彼女が泣きたいときは、泣かせてあげるのがいいのです。
彼女がやりたいことは、やらせてあげるのが早いのです。
彼女の思うとおりに、やらせてあげると納得するのです。
危険なこと以外ならば、気が済むまで付き合ってあげるのが、きっといいのです。

川の色や、木々の色も、彼女の思うとおりに描いたらいいのです。
なんでもかんでも、口に出してしまいそうになる私への、注意勧告!!
ほんと、誰よりも未熟者な私です。
さーて、始業式まであと残り一日。宿題残り二つ、できるのか???
母は何も言わないようにする!ぞ!!

お墓参り

2007年08月13日 | これも自分あれも自分
今日、私の実家の人たちと墓参りに行った。
ここには、私の父方の祖父母と叔母が眠っている。

わが子らと、甥、姪たちに、行きの車の中で、これからどこへ行くのか、そしてそこには誰がいるのか、そこにいる方たちの存在のおかげで、今の私たちが生まれてきたことを話した。一番小さな3歳を目前としたエリーも、真剣に聞いていた。

お墓に着いて、なんだかテンションが高くなる子ども達。
そんなはしゃぐ子ども達を見て思い出すのは、自分の子ども時代だ。自分も、今の彼らのように、いつもとは違う場所、そしてなんだか心が開放されるような不思議な空気を持つお寺とお墓にテンションが高くなって、お堂でも墓石の周りでも、体の中から湧き上がるドックンドックンという音を制する術をしらない子だった。
あの感覚は、大人になった今も変わらない。一緒にはしゃぐことはしないけれど、君たちの動きに心が着いていっている、そんな気がした。

帰りの車の中で、
「エリー、おじいちゃんとおばあちゃん、いたかなぁ。」と聞いた。
「いた、いた。」とエリー。
「いんやぁ、めんこいねぇ。って言ってたかもしれないねぇ。」とふと口から出た。するとエリーは、
「ううん、言ってなかったよ。」と答えてから少し考えて、
「言ってたかもしれない。」と、私に合わせてくれた。
私は、本当に、そう言っていたような気がしてならなかった。

夕方からは、実家の庭でバーベキューをした。
みんなで火を囲み、おいしいジンギスカンをいただき、花火の華やかさに心を打たれ、私たちのお盆をすごした。
夫のお墓参りにいけずに申し訳ないと思いながら。
来年は、行けるかな、鳥取のお墓に。

霊とか、お化けとか、信じられそうで信じられないのだけれど、自分の中から自ずと出てくる亡き人の影を感じる感情の波は、嘘ではないと思っている。
自分の頭が作り出しているものであったとしても、その時はその人のことを脳の無意識野で考えているのだと思うから。
そして、「ご先祖様は私たちを守ってくれているんだよ。」という父の言葉に、今年も心にじんわりと沁み込んだ。
私は、そんな父の言葉に守られている。ありがとう。


この支配からの 卒業

2007年08月11日 | これも自分あれも自分
夏休みです。
全国の小学生、幼稚園生をお持ちのお母様方、
ほんとにほんとにお疲れ様です。

そして、毎日、長期のお休みのような乳幼児をお持ちのお母様方も、ほんっとにお疲れ様です。

この蒸し暑い夏の毎日を、一瞬でも「イラッ」とせずに過ごせる方が、どれだけいらっしゃるか分かりませんが、恐らくそんな方は奇特な方かもしれないと思う、いやそう思いたい!このごろでございます。

うちの長女が少々疲れ気味でございます。なにやらよく次女と喧嘩をしています。もう少し上手に相手をすればいいものを、複雑に、より一層頑なに、喧嘩をヒートアップさせております。5歳も年が違うんだから!と思って制止するのは、いつも私ではありますが、この私もやっかいです。
なぜなら、ヒートアップしているのは私!であるからです。
こう蒸し暑いと、それだけでイライラ度は倍増します。その上、些細なことでの小競り合いを皮切りに、少し引いてみれば分かる解決策を余計問題化する言動行動には、「少々の喧嘩ですもの、やったれやったれ!」と思う日ごろに見せる心の余裕など、どこにもないのが現実なのであります。

親子三人で行ったカラオケで、長女が言いました。
「このごろなんだか気持ちが落ち着かなくて、やり場がなかったから、嬉しいぃぃ!」
この言葉、8歳児の言うことか?と内心思いながら、ふと気付く母である私の失態の数々・・・。
「確かに、ママ最近うるさいよねぇ。」
「うん。いつも怒ってるっていうか。」
「そうだよねぇ。直さなきゃねぇ。」
「最近、ママに怒られるとさ、すぐに泣くでしょ?わたし。」
「うん、そうだねぇ。」


・・・そういうことらしい。


自分でも気付いていたマイナスの行動。
マイナスな言動。
マイナスな視線。
マイナスな空気。
すべては、あなたのせいではありません。原因は私自身です。


夜帰ってきて、テレビを点けたら、「尾崎豊のいた夏」という番組を放映していた。思わず懐かしくて、だまって観ていた。子どもたちは、リビングのそこらへんで眠ってしまっている。
そこへ飛び込んだ歌詞。
「この支配からの 卒業」
支配という言葉に、私の子育て感がぴたりと当てはまってしまった瞬間だった。
私は、この子達を支配しようとしているのかもしれない。

「宿題は?やったの?」
「自由研究も、今週中にやらないと、週末からおばあちゃん家なんだからぁ、できなくなるよ!」
「それ、終わったら、次はこれやってね。」
「今日のお手伝いは、何する?じゃ、これしようか?」
たたみ込むようにしゃべる私は、まるで昔の牢獄の看守みたいだ。これじゃ、疲れるよね。ごめんなさい。

明日からは、三分の一に減らすようにしよう。
いや、もう指示することをやめよう。
彼女の選択を尊重してみよう。


なんだか、こんなん繰り返してばっかりのような気がする。
こんな一貫性の無さで、いいのかな。
うううん。

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