ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

林真未さん

2006年10月27日 | これも自分あれも自分
先日の暴風雨の中、青森市で行われた「第5回子育て広場」というものに行った。
この日は土曜日であるが、前の晩から降り続く雨で、河川の氾濫や浸水が心配されていた。朝ニュースを見ると、宮城県での水害報道と、ゆっくりと近づいている低気圧の雨雲の様子が映し出されていた。

しかし、今日はなんとしてでも青森へ行かねばならなかった。それは、ファミリーライフエデュケーター林真未さんの講演を聴くためだ。

青森市は、青森県の県庁所在地だ。子育て支援やNPO支援などが盛んであることは百も承知だった。承知だったのではあるが、八戸からは特急電車で1時間、車だと2時間以上かかる。だから、どんな講演会や勉強会があろうと、チラシを見て青森市だと思ったらよく見もせずに捨てていた。それなのに、なぜ今回行くことにしたのかというと、山口の友人からの「こんなんあるから行ってみたら?」というメールだった。林さんのHPも教えてくれた。

「きっととっても元気な人」という言葉どおりに、林さんはとってもとっても元気な人だった。私の八戸での潜水生活をすっかり忘れて、現役子育て支援従事者のごとく振舞っている自分がいた。私の頭の中が、たくさん動いて、刺激を受けているのが分かった。セーブできない自分も・・・。

がんばっている人とお話しすることは、なんて自分自身を前向きにさせ、導いてくれるんだろう!と、久しぶりの感触に心身が高潮していた。
講演会の後の、林さんを囲んでの交流会も、なんだかたくさんしゃべってしまった。たくさんしゃべりすぎたかな?あの時は有頂天で、周囲を気にかける余裕すらなかったのだけれど、帰ってみてハタと気づく。・・やっちゃった!?

保育園での子育て支援センターについて、保育者の方たちはがんばっているのに、その労力を讃えもせず、利用する側の一方的な見解を述べてしまったこと、反省。
彼女たちも、悩みながら、そして仕事内容が多すぎて、片手間になってしまう業務に疑問を抱いていたのだが、その解決策を導くための流れにはならず、しょうもない利用者の勝ってな思い込みばかりを話してしまって、申し訳なかったと思う。
今度会えたら、伝えたい。みなさんの頑張っている姿を応援していると。

“ファミリーライフエデュケーター”は、カナダ・アメリカでの家庭・子育て支援の専門職です。
巷では、“ノーバディーズ・パーフェクト”だけが突出して話題になっておりますが、カナダにはその他にも様々なプログラムがあり、対する家庭に見合ったプログラムをいろいろと組み合わせて支援するらしい。
そのコーディネーターのような役割を、ライフエデュケーターが担うのだ。
カナダには、様々な国、文化を持つ多民族国家。他民族だから、問題も課題も複雑で、古くからその複雑な環境の中での子育てを強いられてきた。だからこそ、早くから、子育て家庭の支援策を考察・実現していく必要があったのだ。他民族ならではのいろんな角度からの支援策。そして、それらが各家庭によってオーダーメイドされるという支援。きめ細やかに見えるその支援には、財政的・人員的課題があるものの、利用する子育て家庭にとってなんと心強い存在だろう、と思う。
引きこもりがちな家庭には、自ら迎えに行ったり、訪問したりもするという。
イベント・講座・集会などの広報には、子どものいる家庭にスタッフらが自らチラシを配るという。労力もさることながら、その熱意に感服します。

林さん。
林さんは子育て支援をしている方でありますが、全国各地に講演したり、旭川で講座を開いたり、旭川市の子育て支援に関する委員会の委員に選出されるなど、多忙な毎日を送っている様子。活動的な彼女に、とっても魅力を感じた私は、いつかまたお会いできる日を夢見ています。きっと会う!!

八戸工業大学

2006年10月23日 | これも自分あれも自分
八戸工業大学の学園祭に行ってきた。
目的は、サーヤに大学というところを見せてあげたかったことと、単なる暇つぶしと、工業大学というところでは何をしているのかを自分自身で知りたかったという探究心である。

八戸工業大学には、工学部(機械情報技術学科・電子知能システム学科・環境建設工学科・建築工学科・生物化学環境工学科・システム情報工学科)と、感性デザイン学部とがある。

学園祭では、ブロックのレゴを組み立てコンピューターを取り付けて動くロボットを作るところ、お菓子をつかむロボット(UFOキャッチャーの小型版)で遊べるところ、3D映像を紙に落として立体模型を作っているところ等々、それぞれの研究室で勉強していることの延長線上のワークショップが繰り広げられていた。
男の子は、パパと一緒になって、無我夢中!
パパの方が夢中な場合も多々見えた。童心に返っていたパパたちの目の真剣なこと!

その中で、とても気になったのが「感性デザイン学部」棟で行われていた“高齢者体験室”だ。
よく、パパになる夫にも妊婦体験!という文句で、お産の日イベントなんかに妊婦のおなかや胸に似せた重いベストのようなものを着させられる。
高齢者体験も、まさにそれと同様、体にいろいろなものを装着して、世のおじいちゃん、おばあちゃんの世界を体感するというものだ。
子どもら二人はよそに、私は試してみた。「今からママは、おばあちゃんになりまーす!」

まず、腰がいつも曲がっている状態にするもの。ベストの裾から伸びた紐で両ひざのサポーターがくっついている。これで腰は曲がったままだ。
次に、両腕、両足首に重たいおもりのようなものを取り付ける。体がずっしりし、圧迫されている感じがする。
そして、片腕にはさらに、腕がすこし曲がった状態に固定。
緑内障の人の視界と視力を再現したゴーグルをかけ、耳にはヘッドフォンで外界の音を聞き取りにくくする。
最後に、両手にはめられたぐにゃぐにゃとした手袋。これは、手の感触がなくなり、握力も減っていることを体感するためのもの。

私は杖を渡され、教室の中を歩いてみた。
音がぼわんぼわんとする中、両サイドがよく見えず、さらに緑色にかすんだ世界。長女サーヤの顔すら見えない。目の前20センチに近づいてようやく見えた。
サーヤを触っても、子どもの体温を感じるまでに時間がかかる。
腰が曲がっているのに、足元が見えない。腰を起こそうとしても起き上がれず、一緒にひざが前に曲がってしまう。おばあちゃんの伸びをよく見かけるが、まったく同じ動作だ。
そして、何にも増して、ずっと下を向いたままなのは、孤独だった。
不安だった。寂しかった。
今まで一生懸命生きてきた。つらく悲しい時もあったが、明るく楽しい時もたくさんあった。でも今は、こんなにも体が不自由で、世の中の道路・建物・子どもの騒ぐ声・オトナの会話(ほとんど聴こえないからこそ、嫌な気分がする)がわずらわしく感じる。なんにも分かってくれないくせに!ほっといてくれ!と考えてしまう。本当は、そんな風に感じたくないのに、悪い方へ考えてしまう。なぜ?
優しくしてほしい。ただ、笑顔で親切に、思いやりを持った声をかけてほしい。望むのは、それだけだ。
今まで生きてきた道のりを褒め称えたり、敬ったりするのは必要なくて、そんなことはぜんぜん求めていなくって、ただ、同じ人間として見てほしい。
・・・そう感じた。
高齢者も、障碍者も、そして不慮の事故によって、昨日までの健康体から一変してしまった人も、こう思うのだろうか。もし、そうだとしたら、体のケア・リハビリ、バリアフリーも大切だけど、心のケアと寄り添う気持ちがもっともっと大切なんじゃないかと思った。
いっぱい溢れんばかりの優しさをもらわないと、元気になれない気がしたのだ。どんな時でも、愛を注がれたい。そうじゃなかったら、生きていることがとっても苦しい。そんな風に感じたのだ。
私、きっとお年寄りや障碍者の方への対応が自然と変わる。そんな気がした日曜日。



頑張っているあなたへ・・

2006年10月22日 | これも自分あれも自分
今日、市外の大型ショッピングセンターへ遊びに行った。
私の両親が来八しており、一緒に行った。

ひとしきり遊んだ後、カフェで一休み。
ソフトクリームを食べ終え、ピザもつまんで再び遊びに行く子どもたちを眺めながら、斜め前に座る若いママに目が行った。

肩を越した茶色い髪は、裾をすかした流行の髪型。
ネル素材のようなシャツに、ジーンズ、ベルト。
テーブルに置いたタバコと、アイスコーヒー。
そして、そんな今時の若い子にしか見えない彼女の傍らには、
ショッピングセンターのベージュのベビーカーとそこに座る赤ちゃんがいた。
かわいらしい彼女は、タバコを吸いながら、アイスコーヒーを飲んでいた。
後姿からもわかる、ほっとした瞬間。

・・・自宅で二人きりでいるよりも、出かけようと思い、車に乗り込む。
こんな寒い日だもの、赤ちゃんと一緒に行くとしたらショッピングセンターが妥当だろう。授乳室もオムツ交換台も、遊び場も確保されているから、不測の事態にも対応できるし、赤ちゃんが機嫌がよかったら、自分のストレス発散のためにもウインドウショッピングができそうだし。
車から赤ちゃんを降ろし、入り口でベビーカーに乗せ、店内を見て回る。
ベビー服を見たり、自分の靴やバッグを見たり。
はぁ、そろそろ疲れてきたなぁ。とカフェに入る。
タバコを出しながら席につく。ほっ。ふぅ~。
今日は土曜日。家族連れを横目に、いつも抱くなんとなく寂しい気持ちをちょっぴり感じながら、自分なりに納得する。パパは仕事なんだもんって。
・・・私の空想なんだけど。

私は、彼女のタバコをのむ姿、アイスコーヒーのグラスに口をつける動作にほっと安堵した感を感じながらも、どこか寂しそうで、若いのに疲れている感じのする彼女から、目が離せられないでいた。
するとその瞬間、赤ちゃんがぐずりだしてしまった。
ほにゃぁ、ほにゃぁ、と訴えている。
私は、そんな可愛らしい声は、なんとも微笑ましく感じるし、うとましくも思わないのだが、彼女は少し周りに気を遣いながら、赤ちゃんの胸をとんとんする。でも、一層ほにゃほにゃ訴えだした。
彼女は、笑みも作らず、赤ちゃんを抱き上げた。抱き上げたけれど、声が大きくなりだした。彼女の心の中が痛いほどよく分かる。
(せっかくほっとひと息ついたところなのに・・。あんた、夜も寝せてくれないじゃん。今のこの時だけでも、余裕をちょうだいよ・・。)
疲れのにじみ出ている彼女は、ベビーカーとタバコとフリースのひざ掛けを残して、席を立った。抱っこして、店内を散策しに行ったのか、赤ちゃんの休憩室に行ったのかは分からない。まだ慣れない手つきで抱っこしながら、彼女はカフェを出て行った。
テーブルには、2,3センチほどしか飲んでいないアイスコーヒーのグラスに雫が垂れていた。まるで、彼女の涙のように・・・。

私は、彼女を見つめながら心の中で思っていた。
「あなたは、精一杯頑張っているよ。よく頑張ってるよ。
あなたの頑張りに気がついてるよ。
でも、あなたは不安なんだろうな。私もそうだったように、あなたも不安だらけの育児だよね。赤ちゃんの時には赤ちゃんの時の不安が、たくさんあるよね。
いっぱい頑張っているあなたを見ていると、涙が出そうになるんだ。
きっと、いっぱい抱えていることがあるんだよね。
聴いてあげたい・・・。」
この思いを伝えたいのだけど、突然話しかけたら変なおばさん、怪しい人と思われてしまうから言いにいけないのが悔しくて。でも、伝えた方がいいのではないかと思って彼女を探してみたけれど、見当たらなくて。見当たらなくてほっとしている自分もいたりして・・。

時々、こんなふうに、人の気持ちを感じることがあります。当たっているのかどうかは分からないのだけれど・・。
今日も、本当に、彼女の横顔を眺めながら、涙が出そうになった。鼻の奥がつんとした。何度も何度も。

世のママたちの努力に花を咲かせましょう。

元気です!

2006年10月11日 | 子ども
まだまだ日本は元気です!
だから、生きていてくれて ありがとう

今日、近所の公園へ遊びに行ったとき、隣接している病院から散歩へ出てきた集団がいらした。
挨拶しに行こう!っと、エリーを抱いて歩道へ近づくと、重度の障碍者の方たちだった。
「こんにちはー!お散歩ですか?」
彼らはこちらを見て、笑顔になったり、曇ったり。
「そうよね、知らない人に声をかけられたら、びっくりするよね。」と言いながらも、今日は温かいから散歩びよりですね、と声をかける。
笑顔でバイバイ。
恥ずかしがってバイバイできない方もいた。
でも、また会いたいな、と思った。

彼らの帰る一列に並んだ姿と、子どもたちの掛け声が、何層にもなって成り立っている日本社会が見えて、叫びたくなった。
日本はまだまだ元気でーす!生きていてくれて、ありがとうー!!と。

Happy Birthday Me!

2006年10月10日 | これも自分あれも自分
誕生日おめでとう わたし
36歳になったわたしは 幼い頃に描いていた36歳とはちがって
思っていた以上に幼くて 
ワガママで 
想像力の欠けた人間だった

自分の理想とするオトナには まだまだ遠い

先日テレビで、リリーフランキーが言っていた言葉
~自分が思っていた30歳、40歳ってもっとオトナなイメージだったけど、いざ自分がなってみると、ぜんぜん変わっていなくて、ぜんぜんオトナじゃなかった。結局、自分で想像するオトナってのは存在しないんじゃないか?って思えてきたんだよね。~
深く頷く私

~そんな自分の理想とするオトナを追いかけて、追いかけて、理想に近づこうとすることで、理想のオトナになっていくような気がするんだよね。~

そう 
だから 私はやめないの
学ぶこと 人の話を聴くこと 自分の気持ちを話すこと
いろんな折衝の中で生まれる 新しい発見が好き
いろんな人たちのそれぞれに違った考え方や 似たような思いに触れて覚える、「みんなちがって みんないい」

今月の雑誌「anan」に、山口智子が表紙になっていた。
私、彼女が大好き。生き様が好き。正直なところが好き。人に何ていわれようと、貫き通す自分を持っている強さが好き。
って、別に知っている人ではないんだけれど、その姿勢を感じるから。
彼女は、私の通っていた東京の短大の5年先輩。そして、幼い頃に両親が離婚している境遇も同じ。だから、惹かれるのかもしれない。
結婚してからの彼女が、ますます好き。その彼女が「anan」のインタビューにこう応えていた。

「人生は連続。続けていかないと、先につながっていかない。(中略)
将来って、今の瞬間の連続の先にあるもの。今手を抜いたら、手を抜いた未来しかやってこない。私は今、自分にできることを最高に楽しませていただいています。」
素敵な言葉。
これ、私への贈る言葉でしょう?と勘違いして、赤ペンで線を引いた。

傍観者は、共犯者だ。
「フランダースの犬」に出てくる“ネロ”を、苦しいのを知っていて手を差し伸べなかったのは、見殺しにしたのと一緒だ。私たちが殺したのだ。
でも、傍観者でしかいられない自分の気持ちも、怖いほど分かる。
「優しくして、世間になんて言われるかしら?」
「親切心のつもりだったけど、それが当たり前みたいになってしまわないかしら?もしそうなったら嫌だわ。」
「私も苦しい生活なのに、施せないわ。」
じゃぁ、傍観者にならずに済む方法がなんなのか、それを考えていきたい。

なんだか、いろいろ考えた36歳の誕生日だった。

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