の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

バガン・タヨウピェー寺院

2014年10月27日 | ミャンマー



エーヤワディー川が大きく流れを変える角部の1.6平方キロメートルをパガン都城壁が取り囲みます。現在は城壁が崩れ基礎部だけとなっていますが、残る東門から推定して高さ8mの煉瓦済みの堅牢な都城壁であったと推定されています。
パガンの寺院遺跡は都城壁を超えて40万平方メートルの土地に広がっています。
空港からと都城壁まで約12kmありますが、まず向かったのは空港から4kmにあるミンナンドゥー村近くの「タヨウピェー寺院」です。
パガン王朝末期の第11代国王「タヨウピイェー」(在位:1255年~1287年)によって建立されました。
正式な名前は「ナラティーハパテ王」です。しかし、王統史は俗称である「タヨウピイェー」と記録されています。
「タヨウ」とは漢民族、「ピイェー」は逃げるを意味し、「漢民族から逃げた王」と後世に不名誉な名前を付けられています。
パガンを訪れた、朝貢を要求する元の使者をナラティーハパテ王は斬殺します。1286年、元は報復として軍勢をパガンへ進行させますが、王都の防衛を困難と考えた王は、襲来前にパガンを脱出、敵前逃亡をします。
1287年に元の侵攻でパガンは落城、滅亡します。

翌年ナラティーハパテ王は庶子のピェー太守に囚われ毒殺されて、正式な王統は終焉します。
その後、パガン王国はシャン族によって支配され、地方の太守程度の国力で名目上3代続きますが、1369年に第14代ソームンニッ王が粛清され、ビルマ族のパガン王朝は完全に途絶えます。

碑文からタヨウピイェー王は二つの寺院と仏塔を一基建立していますが、このタヨウピェー寺院は規模も小さく、パガン王朝末期の財政緊迫状態を象徴しているようです。
歴代国王や王族、貴族、役人は競って寺院建立や農地、奴隷、家畜等を積徳行為として寺院に寄進、王土3分の1が免税の寺領となり税収の減少、また、米作地帯のチャウセー地方はシャン族に侵食されてパガン王国の統治が行き届かなくなっていたようです。



日緬友好協会の碑です。保存修復をしたのでしょうか・・・。





精緻な漆喰装飾が施されています。年間降雨量600ミリという乾燥地が、漆喰装飾や壁画を創建時のまま後世へ伝えています。
しかし、信仰の篤い国民は、積徳行為として有名寺院の漆喰装飾、壁画の書き直し、金箔の貼り直し等の寺院補修を繰り返し喜捨しています。たとえ、それが史跡に指定されていようが、信仰が優先され保存補修と言う発想はないようです。





仏塔入口の左右の龕に安置されているのは守護神「ドワラパラ」でしょうか・・・。
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一階と二階の四方に安置されている、白色大理石に僧衣を漆で着色した降魔印の仏陀坐像です。









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仏塔と一体化した四方の礼拝堂入口や回廊は壁画で埋め尽くされています。
方角によっては素地である漆喰が剥落し、不鮮明となった壁画もたくさんあります。

























アーチ式天井に描かれた千体仏です。
アーチ状に石材や煉瓦を組んだ天上は東南アジアではミャンマーしかありません。他の地域では石材や煉瓦を少しづつずらした積み上げ式でアーチ形状を造っています。





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階段を上り基壇の上に出ます。

二階の基壇上から見る仏陀像です。

基壇から見るバガンの仏塔群です。この一帯には大きな寺院はありませんが、赤煉瓦の遺構は果てしなく続き、小さな仏塔が不規則に乱立しています。
パガン遺跡には524の仏塔、寺院や窟院が911、僧院416、経蔵等が379、合計2230の大小の建築物が残っています。













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参道の左右には土産を扱う店が並んでいます。この店は仏画を売っています。

机の前に座り布に象の絵を描いている男性が描いた仏画です。

出来上がった象の絵をお土産にプレゼントされました。
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約1時間タヨウピェー寺院で寛いだ後、朝のニャウンウー市場へ移動です。


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