気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

ストリートフォトグラフィーの世界へ

2025-01-03 18:08:17 | 写真

 

 

 

 あけましておめでとうございます。
つい1月ほど前に高尾山から見た富士山があまりにも素晴らしかったので、元旦にぜひ見てみたいと思い前回一緒に行った友達とまた訪れた。
 今度も幸い天気に恵まれてすばらしい初富士を見ることができた。友人の仕事が終わるのを待って一緒に行ったためついた時はすでに日が昇っていたが、僕らがついた時にはかなりの人々が下りてきていたところを見ると、みなさん暗いうちから登って朝日にあたり徐々に明るくなる富士山を見たのだろう。さぞ素晴らしかったろうとおもう

 

 2日は普通に仕事をして、今日3日は休みを取った。
ことしからいままでの寺社を中心とした写真からストリートフォトグラフィ(街中で撮る写真)に少しシフトしていこうかなと思っている。
 そう思い始めたきっかけはドイツの写真家、Siegfried Hansen氏の写真を見てこういう写真なら取ってみたいと思ったから。


 

 

 

 

 

 

 

 それでさっそく青山、表参道のほうに出かけて写真を撮ってきた。
どうだろう、まあまあのものが撮れたような気がするのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いままでストリートフォトグラフィというとどうしても人間をとらなきゃいけないという固定観念があり、相手が人間だとトラブルに巻き込まれる危険もあり、非常に気を使わなければいけない。また、それいぜんにそういう写真を撮ることにあまり意欲がわかなかった。
 でも、このSiegfried氏の写真を見て、あぁ、こういう写真なら取っていて楽しいし、面白いと思った。結構頭も使わなければならないし、なにか謎解きや宝探しのような喜びがある。

 

 

 


 

 

 

 そう思い始めたもう一つの理由は、僕が住んでいるのは都会の中であり、きれいな風景写真を撮るには交通費(レンタカー代なども含めて)泊まる場合は宿泊費などの出費が物価が上がっている今、結構バカにならない。それならば、自分が住んでいるところで何かとれるものを見つけて撮りたいと思い始めた。
 ただ、いままでみたストリートフォトグラフをとる写真家の写真を見ても、ソウル・ライターやヴィヴィアン・マイヤーの写真を除いて、ほとんど共感できるものがなかった。

 

 そんなときにこのドイツ人の写真や動画を見てピン!とくるものがあった。これなら取れるかもしれないし、何よりも撮っていて楽しいと思った。
頭の体操、ちょっと知恵の輪を解くような面白さがある。人をとるときのようなストレスもない。また、これを始めるもう一つのいいところは街を歩く口実ができるということ。

 

 

 


 

 

 


 
 僕はカフェめぐりが好きというわけでもなく、洋服なども興味はあるが身銭を切って買いたいと思うほどのこともなく、クラブなどのようなところにもいかない。だから、さすがに家にばかりいないでどこかに出かけようと思っても、ついだらだらと過ごしてあっという間に夕方になってしまうという休日が多い。
 でも、ストリートフォトグラフィをはじめればとにかく出かけようという気持ちになる。そう、上に書いたように宝探しのような気分になるからだ。
やってみようと思った。

 

 よい趣味を持つということは人生のおいしいソース、調味料を手に入れるのと同じこと。
今後そういうたぐいの写真をちらほら投稿しようと思います。

 今日は撮影をしながら本当に穏やかな心で過ごすことができた……いい趣味を持てたと感謝している。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年の紅葉

2024-12-06 02:30:56 | 日記

 

 

 

 

 

 今年の紅葉は2日間だけ楽しんだ。高尾山と鎌倉の妙本寺、そして同じく鎌倉の妙法寺。
高尾山の紅葉は素晴らしく、まにあった!という喜びが大きかった。とくに僕の現在の親友の一人と行けたのでその喜びもさらに大きかった。
 上りながらずいぶん前、母と一緒に行った時のことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はこの日は新しく買ったカメラ、Sony のZV E10を使って撮った。
なぜカメラを購入したかというと数週間前に行った箱根で僕の愛用カメラであるNikon D7100を失くしてしまったから。
失くした場所は大体わかっていたのでそこに電話して届いてないかどうか聞いたのだが、届いてなかった……いままでの経験から言って大体届いているだろうと思っていたのでこれはショックだった。


 よく外国人などが日本では物を失くしても遺失物として届いていることが多い、素晴らしい国だなんていうユーチューブ動画などがよくあるし、実際僕もそれは日本の素晴らしい点だと思っていた。まぁ、一回そういうことがあっただけで断定はできないが、僕はこの経験で日本もすこし変わってきたんだなぁという思いを持った。昨今はやりの闇バイトなどを見ても、その思いを強くしている。

 

 それともう一つのカメラCanon Eos Kiss10も買ってわずか3年にも満たないのに不具合で使えなくなっていることもあり、しかもその修理に4万円弱ほどの修理代がかかるといわれ、新しいカメラの購入に踏み切らざるを得なかった。
ただ、このソニーのカメラはこれから動画に注力しようとしている僕には最適のカメラであり、結局これでよかったのだろうと思う。

 

 

 



 

 

 



 出来上がった写真を見ると画質がとにかく素晴らしく、今はどこのどのカメラを使っても質の高い写真が撮れるということが実感できた。
なので新しいカメラが出たからと言ってそれを次から次へと追いかけるのではなく、一つのカメラに習熟し、カメラの機種などよりずっとずっと大事な写真撮影の腕を上げること、画像加工の腕を上げることに注力することのほうがはるかに大事であることを再確認した。

 

 高尾山に行ったときは朝8時くらいだったのでそれほど人はいなくて安堵したのだが、下山するころには100mはあろうかと思うほどの長蛇の列ができていて、しかもそのほとんどが外国人、ニュースなどでよく報道されているオーバーツーリズムを自分の目で確かめることになった。高尾山でこれなら、これは京都にはもういけないなぁなどと嘆息……

 

 高尾山に行ったときは友と二人、鎌倉に行ったときは動画を撮影したこともあり一人で行った。
友といったときはただひたすら楽しい喜びが増幅する旅であり、一人で行ったときはじっくりと自然や寺社の美しさをあじわいその中にひたることができる旅であり、どちらもそれぞれに貴重な体験だった。

 

 今年は僕にとって非常に貴重な年であることは最近とみに感じていて、長年の心の夢が形となって生まれようとしている。そんなとしに上に載せたような感動的な富士山の姿を目にすることができたことはほんとうにぼくにとっては吉兆だと感じている。この高尾山頂から見た富士山は僕が今まで見たどの富士山の風景よりもすばらしく心動かされた。一生に一回は見ておくべき富士だとさえ思う。

 

 生きてきてよかった…そう思うことが重なる、ありがたい年である。

 

 

 



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知られざる一面

2024-12-02 18:34:13 | 歴史

 

 

 

 永青文庫で展示されている信長自筆の書状を見てきた。
この写真は永青文庫で販売していた書籍の写真を写したもの。これは1577年松永久秀が信長に反旗を翻しそれに信忠を総大将とする追討軍を派遣したときに、その追討軍に参加し松永方の片岡城攻めで一番乗りを果たした若干15歳の細川忠興に与えた感状(感謝状)である。

 

 戦国時代の大名の手紙というのは通常大名本人が書くのではなく、右筆とよばれる人が代わりに書いて出される。しかしこの書状は信長自身が筆を執って書いている。信長の自筆書状というのはとても少なく、どれだけ信長が忠興の手柄に大きく心動かされたかが感じ取れる。
 信長公記にも「年にも足らざる両人(忠興と弟の興元)の働き比類なきの旨、御感なされ」と書かれている。

 



 与一郎(忠興のこと)
 働手から[ 読み取り不可 ]
 かしく、
 おりかみ 披見候、

 いよいよ
 働候
 事候、
 無油断
 馳走候へく候、

 十月二日(天正5年)
 与一郎殿

 

現代語訳すると
『手紙を披見した。さらに励んで働くように。たいへんな手柄であった。』


 

 まずこの書状を、この実際に信長が書いた書状を自分の目の前数十センチで「目撃」した感動はなかなか言葉には表せないものがあった。
もちろん信長という人は実在した人物だ、それはわかっているわかっているが、やはり「どこか」今自分が存在しているこの現実世界の時間的延長上に存在していた人物とは感覚的に100%信じ切れていない部分があった。しかし、この信長が直接筆を執ってしたためた書状を目の前わずかな距離で見たことで、それは間違いないことだったんだなということを現実感覚として感じた。わかってもらえるだろうかこの感覚…

 
 この時期の研究をしている学者の言葉に、実際にその当時の状況をリアルタイム目撃しているかのような錯覚にとらわれる、というような言葉をどこかに記していたが、まさにその感覚である。

 そして思うのは、信長という人の今までの僕には未知の一面を垣間見せてもらったという新鮮な感覚。
まだ15歳と13歳ぐらいの今でいう子供が、城攻めの一番乗りを果たしたということを細川藤孝からの書状で知らされて非常に感じ入ってわざわざ自分で筆を執ったということ…その信長の心におもわずハッとさせられるものがある。

 
 打てば響くというが非常に感じやすい(感動しやすい)人であったことがそこからくみ取れる。
ふつうの人物ならそのような話を聞いても、藤孝に忠興たちの手柄に自分が大いに感じ入っていたと伝えるように書き伝えるだけではないだろうか。自分でじかに筆を執って感状を送るというところになんともいえない信長の人間的魅力を見る思いがする。

 

 秀吉もその他多数の家臣たちも信長のこういう側面によって非常に鼓舞され、さらに手柄を立てよう、たてて出世しようという意欲を掻き立てられたに違いない。
能力とやる気のある人間にとって信長ほどつかえていてつかえがいのある武将はいなかっただろう。門閥にかかわらず能力、実績をのこした人間、たとえば秀吉のような農民同様の低い身分の人物を国持大名に取り立てていったことのその根本大本には信長のこのような気性、気質があった。

 

 それと付随して今回信長の自筆書状を見て感じたのは、信長は相当の能筆家だということである。

 

 

 

 

 


 上の書状は信長の右筆を務めた武井夕庵あての書状だが、最初の書状に加えてこれなどを見ても一つの立派な芸術作品といってもいいほどの出来の書である。
ここから想像できるのは信長は相当の芸術的な感性の持ち主だっただろうということだ。この当時から家臣に褒美として茶器などを与えていたというが、ほぼ間違いなく信長はほかのだれかその道のわかるものの評価を聞くまでもなく、自分自身でその茶器の本当の価値を見抜く眼を持っていたのではないか、ということが類推できる。
 これほどの書を書くものが茶器の真贋を見極める目を持っていないということは考えられない。

 

 最後に付録といっては何だが、光秀自筆の書状も展示されていたのでそれをのせてみたい。

 

 

 

 

 

  これは本能寺の変のわずか7日後に光秀が細川藤孝にあてた書状だ。ニョロニョロとしていていわゆるミミズのはったような筆跡であり、これも光秀という人のなにがしかを伝えているような気がする。
 しかしこれも「あの」光秀がかいた自筆の書状である。すこし意外な気がするのは三箇条の覚書という形をとっているところだ。光秀と藤孝はかつては同じ主君(足利義昭)に仕えていていわば古い付き合いの間柄だ。信長に仕えるようになってからもこのふたりは同僚といっていい関係であり、しかも光秀の娘は藤孝の子忠興に嫁いでいる、それを考えるとこの書き方の「よそよそしさ」が僕の目には奇異に映る……
 この書き方の中に主君を殺害したことに対する微妙な後ろめたさ、罪悪感、そこからうまれる開き直り的な感覚……がにおってこないだろうか。

 この展示会には当時信長と藤孝が交わした書状がほかにも複数展示されていて、それら信長の書状の中でいろいろな指示を藤孝に出しながらも、大事なことは光秀と相談するようにという言葉が随所にあって、信長の光秀に対する信頼がいかに厚いものであったかということが感じ取れた。そしてその信頼は信長の死の前までずっと続いていたらしいことがわかり、それを思うにつけどうしても『なぜ』という思いが自分の中に立ち上がってくるのを禁じえなかった。
 
 この二人の相手に対する受け止め方の差異、落差は何だろう、どこから生じたのかという思いである……


 以上、いろいろなことを考えさせられ、本当に歴史好きなものにとっては貴重な、貴重な、得難い体験をさせていただいた。

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時代が彫り上げた人々

2024-09-13 16:23:06 | 歴史

 

 

 

 

 つい最近、信長が細川藤孝にあてた書状がみつかった。
全文を読んだわけではないのでニュースにあった「いまこそ大事な時です。「南方辺」(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください」とか「あなただけが頼りです」とか「今年は「京衆」(将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってもあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」などという言葉を読むと今川義元が侵攻してきた時以来の人生最大の危機?にあたって、かなり気弱になっていることが感じ取れる。

 

 今ざっと1572年当時の状況や勢力図を見てみたのだが、やはり信長がこういう心境になったのはわかるような気がする。あの当時、信長を取り囲んでいる大名家がすべてほぼ同時期に信長領国に攻め込んでくれば、たぶんだが織田家は滅びた可能性が高い。信長にとって幸いだったのはやはり通信伝達手段が原始的だったこともあり、そのようなかなり離れた勢力同士の協調した同時攻撃ということは難しかったことだろう。

 

 実際、この時が、義元の侵攻時を除けば、信長以外の勢力が信長を倒せるほとんど唯一の機会だったのではないかと思う。
だが…信長にとってはさらに幸いなことに最大の強敵だった信玄が西上途上で死んだ。よくユーチューブの動画などを見ていると信玄が後10年生きていたら…などというものがあってこの仮定は確かに面白いと思う。

 

 どうだろう…信玄が後10年生きていたらほんとうに織田家は滅んでいただろうか。そこまではわからない、世間では信玄存命時の武田は戦国最強だったといわれているが、ぼくはその点についても本当にそうだったのかということについては少し懐疑的である。やはり戦術家としての力量、才能という点で見れば信玄よりも信長のほうに優位性があるように僕には感じられるからだ。
 

 信玄と信長が同数の兵力で戦えば、双方相当な被害は出たと思うが、やはり信長に軍配は上がるのではないかと思う。
「それにくわえて」鉄砲という要素もある。これはしかもかなりおおきな影響力を持つ要素だ。畿内に近いところを支配していた信長はより多くの鉄砲を手に入れられる有利な立場にあった。設楽が原の戦いのときも信長と勝頼の所持していた鉄砲の数に圧倒的なといっていいほどの差があり、それは間違いなくあの戦いの結果に大きな影響を与えたからだ。それはおそらく15
72年前後でも同様だったのではないか。

 このことは武田と織田との間にはすでにその経済力にもかなりの差があるということを示している。畿内に近いところを支配しているということだけではないだろう。武田がどんなに領国を広げようとも、その領地のほとんどは山岳地帯だ。日本でも有数の石高を誇る尾張と美濃を支配している信長のほうに圧倒的な利がある。1572年当時ではすでに武田単独では信長を攻め滅ぼすことはできなかったに違いない。

 ただ、信玄が死なずにあのまま西上していればそれに呼応して周辺勢力も決起して次から次へと雪崩を打つようにして織田領内に攻め込んでいったかもしれない。そうなったら…いかに信長といえどもお手上げになっただろう。このとき信長が恐れていたのはまさにこれだっただろう。

 

 これは完全に僕の個人的な感覚でいうのだが、同数の兵力と武装で第三国からの攻撃がない状況下で戦って信長に勝つ可能性のある武将が当時どれだけいたかというと…上杉謙信と前年に死去した毛利元就、そして、信長の同盟者だった徳川家康の3人だけだったと思う。
 いつも思うのだが、信長にとってやはり家康という同盟者がいたことはこれ以上ないほどの幸運だった。智謀、勇気、戦略戦術眼すべてにおいて一流であり、かつ、けっして己の損得利害で同盟者を裏切らない仁・義(現代では変なニュアンスを持つ言葉だが、今の僕にはこの言葉以外に家康という人を表す言葉はない)を持っていた。これほどの同盟者はほかにいない。

 

 話を最近発見された信長の書状に戻すが、信長はこれ以外にも信玄にあてて、もし自分の配下の者があなたに失礼を働いたときはすぐにおっしゃってください、というご機嫌取りのような書状を出している。おもうに、もし信長があの時代ではなく鎌倉時代や、江戸時代など平和な時代に生まれていたら、やはり、普通の(ちょっと変わった変人とみられたかもしれないが)ごく普通の、上の者に細かい気を遣う地方の小領主として、おそらく人並みの気疲れをしながら生涯を閉じたと思う。
 まさにあの時代が彼にあのような運命・宿命を与えたとしか言いようがない。

 

 よくドラマなどで描かれるような傍若無人で人を人とも思わないような悪漢のような人物ではもちろんないだろう。それは彼の肖像画を見ても感じ取れる。非常に繊細な神経を持った人物であろうことは容易に見て取れる。ただ、一つだけ世間一般の評価とたがわない部分があるとすれば、それはあの肖像画にもはっきりと顕れている背筋に氷でも入れられるような怜悧な側面だ。あの肖像画を描いた画家がだれなのか僕は知らないが、その画家はそれを本当に見事に描きだしている。

 

 いずれにしても、そんな様々な幸運に恵まれた彼の人生を突如終わらせる最大の不運は外からではなく内からもたらされた。それをもたらしたのはかつて彼が最も高く評価し、また、彼にだれよりも恩義と敬意を抱いていた男だったのは…数奇としか言いようがない。光秀はもしあのようなことをしなければ(させられるところまで追い込まれなければ)その能力から言って、家康を支え続けた井伊直政か本田正信のような名参謀の役割を担っていたかもしれない。そのことに関しては家康が晩年に残した書状の中で簡潔ながら実に深く精確に洞察しているように、まさに信長という人格が背負った、ある意味そうなるべくしてそうなった、宿命と呼んでいいだろう。

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あるこころづくし

2024-07-01 04:43:58 | 日記

 

 

 

 

 まず、大好きなコーヒーをほぼやめ玄米黒焼き茶を中心に飲み始めてから1~2か月たった。
理由は胃の痛みである。犬が僕が寝ているときにお腹に足をのせても痛いと感じるほどの痛みだったので、これはやばいかもしれないと思い酒もたばこもやらない僕の原因はコーヒーが一番有力だったのでとりあえずそれをやめることにした。

 そして胃にいいということをある本で読んだアロエのしぼり汁を飲み始めると、ほんとうにびっくりするくらいはっきりと胃の痛みは治まった。
やっぱりコーヒーだったのか…僕の予想が当たったことは原因が分かったことでうれしくもあったのだが、酒もたばこもやらない僕の唯一の嗜好品がコーヒーだったので、本当にこれをやめるのはつらかった。特に朝の寝起きの一杯は至福の世界に僕を連れて行ってくれていたといってもいいほどの楽しみだったので本当につらかった。

 

 でも、コーヒーと少し似た味の玄米黒焼き茶に変えたことで、そのまま放置していたらおそらく深刻な病になっていたことは間違いない症状をほぼ消すことができたのでとりあえず一安心というところだ。この玄米黒焼き茶も体にはすごくよくて、玄米を焙煎したものをお茶として飲むものであり、これ単独ではないがほかの健康食と組み合わせて飲み続けていればがんも治癒させることができるほどの逸品である。

 ただ、一袋240g約3800円と高価なのが困るのだが、いいものはそれなりの値段がするというのはこの世のあるべき姿なので、それを出し惜しみして肝心の命を失ってはまさに本末転倒、ぼくは普段は倹約家だがこういう命がかかわる大事なことには出し惜しみはしない。

 とかきながら今はコーヒーを飲んでいる(笑)ただしその前にヨーグルトをたっぷり食べて胃にバリアを作ったうえでだが。

 

 

 さて、次に変わったことといえば、パソコンを新しくしたこと。
動画づくりを新しい趣味として始めたところ、今までのパソコンの性能では動画の編集ができないということが分かり、やむを得ずあたらしいパソコンを買った。
 使ってみて思うのはとにかく早い!サクサク動く、ストレスフリーである。

 肝心の動画のほうだが映像を撮ってはいるのだが、編集はまだ初めてない(笑)編集ソフトすら買ってない。
これが僕の本当に悪いところでなんでも始めるのが遅い。これでどれだけ損をしているかわからない。わかっていても生まれ持っての性質なのでどうすることもできない。
 明日当たり買おうと思ってはいる。

 動画を撮影していて思うのは、これは前にも書いたかもしれないが一生の趣味になりそうだということ。写真を始めた時も同じ感覚を覚えた、あの時と全く同じである。
ただ、やはり写真と違って習得しなければならない技術の幅、奥行きというのかな、それが格段に高度なものが求められる。写真も奥を追求すればそれなりに深いのだが、動画はやはり作る工程表現の幅というものが写真よりも複雑なので、それだけ高度な技術、感性が要求される。

 ほかの人が作った動画をよく見て研究しているのだが、見れば見るほど自信がなくなっていく。
そこでいまはうまい人(特にうますぎる人)の動画はあえて見ないようにして、自分と感性の似ている人たちの動画を中心にみるようにしている。
最初はそれらの人の動画の真似から始めてみようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しく買ったOsmo Pocket3は順調である。撮っていて本当に楽しい。これは新しい世界を僕に与えてくれた。
前は一眼カメラで動画をとっていたのだが、こちらはジンバル(揺れを軽減してくれる道具)に据えると本当に重く、長時間の撮影には向かない。そこで救世主のように登場したのがこのOsmo Pocketだ。

 これを作ったDJIという会社は「そこ」に気づいてくれたわけで、僕的に言えばかなり鋭いとおもう。
たしかにセンサーサイズが小さいし(といっても1インチはある)望遠レンズもつけられないので、背景をぼかす能力は弱い。でも、今書いたように撮影時の腕の疲労をかなり、かなり、劇的なほど改善してくれるのは僕にとっては大きすぎるほど大きい。

 もしぼかしたかったら一眼カメラを一緒にもっていってそこだけ一眼カメラで撮ればいいのだ。これで何十分もずっとあの重いジンバルを付けた一眼カメラを持ち続けなくて済むというのはありがたい。それだけではない一眼カメラをジンバルにつけるととても目立つ。顔を写されることに抵抗の強い日本人だと、どうしても自分が撮られていることに気づくのでこっちも撮っていて非常に気を遣う。下手をすると露骨に顔を背けられたり、文句を言われる可能性も排除できないので、やはりOsmoのような小さな撮影用カメラの登場は僕にとっては大きな福音である。

 

 繰り返すが、そこに気づいて小さな撮影用カメラを作ったDJIという会社のすごさというものに改めて敬服する。製品を開発するときに開発者目線ではなく、ユーザー目線に立っている。この会社は中国の会社でここ数年で急成長している会社なのだが、やはりそういう急成長している会社には目の付け所が普通の会社にはないものを持っている人がいるのだろう。
 これは僕の想像だが、このOsmo Pocketはさらに進化していき、やがては背景を一眼カメラに勝るとも劣らないほどぼかす技術が開発されるだろうと思う。そうなったとき、日本メーカーはどうするのか、今から興味深い。

 

 

 それ以外にも書きたいことは2~3ある。
 昨年からはじめた午前中だけの仕事があるのだが、そこの会社(全国的な規模の会社)の会長さんから僕の誕生日になんとプレゼントが届いた。聞くと社員(パートも含めて)全員に贈っているという。ぼくは正直、驚いた。少数経営の会社でこういうことをやるのならわからないでもない、いや、それでも驚くのに、全国展開している社員がたぶん数千人はいるであろう会社がそういうことをやるとは驚き以外の何物でもない。

 それは夫婦湯呑(こういう言い方があるのかはわからないが)である。
先輩社員に聞くと社内では不評なんだということだった。もちろんその「不評」である理由はわからないでもない、けど、ぼくはそんなことよりもその会長さんの「こころ」に動かされた。

 

 別の先輩社員が示唆したようにその湯呑を作っているひとびとへなんらかの恩義があり、そういう形でもじどおり恩返しをしている可能性はある。
しかし、ぼくはそれだけではないような気がする。それだけではこれほどの経費のかかることをしないだろうと思うのだ。
 太宰治の小説に作家の「こころづくし」という言葉があったが、会長のこの行いの背後には絶対何らかの僕らに対する「こころづくし」があるはずだ。

 これだけ経費の掛かることだから当然社内にも異論はあるだろう。自身ももしかしたら悩まれたかもしれない。でもそれをあえてやっている背景にはなにかがあるはずである。
 僕はあれから時々その湯飲みが入った木の箱を見る。それをみるたびに自分の内部がじわーっと暖かくなっていくのを感じる。そしてその会長さんのどこか古代中国の哲人にも似た容貌が浮かんでくる。

 

 この会社の社内報というのかな、小さな冊子を来るたびに読んでいるのだが、やはり会長さんの書いた文章からはどこか人格の高さをにおわせる香りのようなものが漂ってくる。僕が思うのは、生きているとどうしても理不尽なこと、不条理なことに直面せざるを得ない。そんなときにこの会長さんは自分が贈った湯呑を見てほしい、それを見て忍んでほしい、耐えてほしい、大げさかもしれないが生き抜いてほしい、そう思って僕ら一人一人に贈っているのではないか…ということである。

 これはやはりひとつの愛だろうと思う。
これは勿論僕の希望的な解釈であるかもしれない、しかし、そうではないかもしれない。大規模な会社が会社の資金を使ってこのようなことをするからには、そこにはなんらかの強い、存在感のある「こころ・意志」がなければできないと思うからだ。

 

 あの湯飲みは今も机の上にある。みるたびにこころに白湯がしみ込んでくるような気持ちになり、大きな励ましに似たものを感じる。

 

 

 

 


 

 

 

 

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