気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

合理と情理

2019-11-05 15:33:12 | 歴史

相模湾

 

 恒例の祖先へ想いを伝え安心していただくための行事を今年も終えることができた。
僕にとってはこの行事がおわるとまた年を越すことができたと思え、ほっと肩をなでおろす。

 その後、一緒に同行した二人の友のうちの一人の父親が最近亡くなられたので彼のお宅に焼香に行った。

 彼はこれから母親と二人暮らしになる。何か数十年ほど前の自分を見ているようだ。
これから年老いて弱っていく母親との関係がどうなるのか、そして、そう遠くないであろう母親がこの世を去った後、彼の人生はどうなっていくのか…すでに世帯を持っている弟夫婦との関係はどうなっていくのか、などを考えると不安もないわけではないが、友としてできるだけのことはする思いでいながらも、できることとできないことの境界をまたぐこともまたできないことも確かだろう。

 友として、また、同じ信仰を持つものとして道を外さないように生きていくほかはない。

 

氷川神社(大宮)

 

 時は前後するが約1か月ほど前に大宮にある氷川神社を訪れた。
創立が2400年ぐらい前というから大変由緒のある神社である。日本武尊の東征の際にはこの神社に立ち寄り参拝され、また、歴代天皇や鎌倉、室町、後北条氏、徳川なども篤く崇敬してきたという。

 境内は写真からもわかるように凛としたただずまいで、こちらもすこし緊張しながらの参拝になった。
驚いたのは犬を連れながら参拝していた人がいたこと。巫女さんから注意されていたが、これだけの清浄な雰囲気の境内に動物を連れ込むだけでも僕ならはばかるのに、更にそこでそそうでもしたら…と思うと…



氷川神社

 

 写真の技術的な話になるのだが、上の写真を撮って自宅で見てみるとやはり空と建物の輝度差が激しすぎてどうしても建物が暗くなってしまった。この対策としてやはり僕もフィルターが欲しいと思った。だがそれにはセットを買うと5万から6万の出費になる…今は涙を呑んで画像を加工してごまかすことしかできない。

 

 

大山阿夫利神社

 

 そして昨日訪れたのが大山阿夫利神社。
こちらも歴史は古く、今から2200年前、崇神天皇の時代に創建されたと伝えられている。
 こちらは氷川神社のような凛とした、いい意味で厳粛な趣の境内とちがい、上の写真からも伝わってくるように優しそうな雰囲気を持った神社だった。
阿夫利というのは「あふり」「雨降り」ということで、古代より雨乞い信仰の神として人々に慕われてきた。

 源頼朝公をはじめとして徳川に至るまで武家の信仰も集めてきたという。また、江戸時代には人々は講という組織を作り大山詣りを行ったという。
ちょうどこの本殿の左わきに山頂に上る登山道があるのだが(山頂には上社がある)、僕が言った時はすでに午後だったので登山はあきらめたほうがいいといわれ今回はのぼらなかった。そこから90分ほどかかるといわれ、いろんなブログなどを見ると結構大変みたいだ。

 しかも僕は甘く考えていて、ジャケット姿で行ったのでこの季節にその軽装ではたぶん無理だっただろう。案内書きをみれば過去には遭難滑落事故などもあったと書かれていた。こんどは万端の準備を整えてチャレンジしたい。
 この神社に向かう参道には古い宿などが数件あり、往時の名残をとどめていた。

 最後にいいことがあった。それは生まれて初めて大吉をこの神社で引いたことだ。
 そもそも僕はおみくじを引くといった経験があまりなかったので生まれて初めてなわけだが、とてもうれしかった。というのも、もう何年も前だが、浅草の浅草寺、上野の護国院で引いたおみくじの言葉がまるで僕という人間の過去、性格、性質、それらを本当に知っているのではないかと思うほどずばりと本質をついたものだったので、僕はおみくじを単なる楽しみ、参考程度のものとは思っていない。
 またそれだけではなく、以前にも書いたが、神の実在のあかしというものをこの目で見た経験があるため、そこ(おみくじ)には神の意志と叡智というものが顕れるということは容易に想像がつく。それだけにうれしかった。

 

大山阿夫利神社

 

まだ紅葉には早いのか…

 

 

大山寺


 大山阿夫利神社からふもとのバス停に戻るまでの中腹に大山寺というお寺があった。
このお寺の歴史も古く、755年奈良の東大寺を開いた良弁という僧が開山したという。この石段と石像はなかなか良くて、今度は雨の日に来てしっとりと濡れたさまを撮りたいと思った。
 来歴を読むとここはあの春日局が家光の世継ぎ継承を願いにこもった寺で、その後春日局は駿府の家康に直訴したというから、当時のこの寺の威光は広く知れ渡っていたことがうかがわれる。

 

 

祈り (大山寺にて)

 

 ということで、今までの鎌倉中心にした写真行脚から今後は関東全体の寺社を視野に入れた行脚にかえていくつもりである。その先にはいずれ日本全国へと広げていきたいと思っている。それが一生の夢になるのかなと…
 こうしてみると、やはり僕は精神世界系とのえにしが深い人間なのだなと思う。


 さて、話は変わって来年の大河ドラマはあの光秀になるらしい。
やっとこういう面白い人物に脚光をあててくれるのねNHKさん、という感じだが、非常に楽しみにしている。
 光秀というのは前半生がほとんど分かっておらず、また、あの歴史好きの間では日本史最大の謎といわれる本能寺の変を起こした人物でもあるので、このドラマの原作者の作家としての力量はたぶん生半可なものではない…と僕は期待している。というのも僕はまだこの原作を読んでいないから。

 そういうこともあり、最近はよく光秀のことを考えることが多い。
まぁ僕は単なる一歴史ファンであり研究者でもマニアでもないのである程度知ったかぶりをするしかないのだが、信長家臣団の中ではやはりこの人は異彩を放っている。

 戦国武将というイメージから遠い感じがするのだ。
どこか知的で実直でしかも武将としても行政官としてもかなり優秀な人というイメージが僕の中にある。
 僕が光秀を思うときいつも脳裏に浮かぶのは、信長に対する感謝を表現した文章である。本能寺の変のわずか1年前に、どうでもいい小さな存在であった彼をここまで取り立ててくれた信長へ感謝の念を述べたものだ。

 僕の知る限り、信長に対するこのような気持ちを述べた武将はほかにいない。
また、一方の信長が光秀のことをほめたたえた手紙(信長が第三者に送った手紙)のことも…
 いったい、初期のこの蜜月の関係にあった二人の間にくさびを打ち、引き裂いていったものは何だったのか…

 巷では昔からいろいろ言われている。そのどれもよほど偏ったものでない限りある程度の説得力を持っていると思う。
だが、僕の眼にはどれも決定的なものではないように映る。
 今よく考えることは、本能寺の変の決行日である6月2日についてである。光秀はなぜこの日を選んだのかということである。

 信長が軍勢を率いていない丸腰になる機会は何もこの日だけではなかっただろうと思う。なのになぜわざわざ、四国征伐出発ぎりぎりの日を決行日としたのか。
そこに彼の「心」をくみ取ることができはしないか。つまり、光秀は直前まで迷いに迷っていたのではないか、信長を討つことを。
 彼も人間である、この謀反を起こせばそれは彼も無事ではいられず、その先に待っているのは死であることが十分にわかっていたはずだ。(ぼくは光秀の単独実行説をとります)

 なぜ、四国征伐出発日の2日前を選んだのか…普通に考えるならもうすこし余裕を持って決行したのではないか。なぜなら、信長が予定を2~3日変更しただけで四国討伐は始まってしまったからである。その日に実行するのは失敗するリスクが高いということは聡明な光秀であれば考えないはずはない。(信忠がそろうのを待っていたという考え方もあるかと思うが、僕は光秀は信忠を殺すことまでは考えてなかったと思う。というのも信長親子がそろうのは変を決行する前の非常に短い時間だけであり、その短い時間を特定して決行することは当時では非常に困難だからだ。)
 僕は光秀は決行直前まで迷っていたと感じる。死の恐怖との戦い、大恩ある信長への愛憎といった複雑な想い、そして、これが一番僕の気を引くことなのだが、この四国征伐によって失われるかもしれないものが何だったのか、ということを思い続けている。

 それはかれが苦心して積み上げてきた長宗我部との信用、信義だろうというのがよく言われてきたことであり、僕もそれは大きな要素だと思う。だが、はたして「それだけで」決行すればすなわち自身の死をも意味する無謀な謀反(ぼくはこの謀反が無謀なものであることを彼は熟知していたと考えている)を起こすだろうか……
 もちろん、この謀反の原因はそれだけではなく、ほぼまちがいなくそれまでの信長と光秀の間に起こった様々な軋轢、摩擦などが絡んだ複合的なものだろうとは僕も考える。だが、繰り返すがそれだけであの理知的な光秀が自身の死に直結するような無謀な謀反を起こすだろうか……
 「それ以上の何か」があったはずだと僕は思う。命を捨ててまで守らなければならないものが。

 信長の非人間的なまでの徹底した合理性、これこそまさに信長を他の戦国大名と一線を画す信長を信長たらしめている要素であり、それがあれだけ短い間にあれほど広大な版図を獲得させた理由の一つであろう。おそらく光秀も最初はそれをまぶしく感じあこがれさえ覚えていたかもしれない。しかし、時がたつにつれて、その信長のまわす巨大な車輪のしたで踏みつぶされ、阿鼻叫喚の地獄の様相の中で死んでいく大勢の人々の血の匂いとその慟哭、絶叫が大きくなっていき、次第に彼を追い詰めていった…のではないか、という仮説も成り立つだろう。

 光秀はそのほとんどを実際に彼の眼で目撃していたかもしれない、それは本やドラマでそれらを単に知識としてしかしらない我々現代人にはとうてい想像もつかないほどの強烈な衝撃と影響を彼の心理、精神に与え続けてきたに違いない。たしかに比叡山焼き討ちを現場で指揮したのは光秀だ、しかし彼の足軽に至るまでの温かい気づかい思いやりというものを考えるとき、彼がそれを嬉々としてやったとは思いにくい。命令なのでやむを得ず従ったととらえるほうが自然だろう。

 たしかに、「なできり」(なで斬り)にしようという有名な光秀自身の書状なども残っている、しかしそれだけをもって光秀を冷酷な人物であったと断定するのはどうだろうか。当時は兵農分離がされておらず、たとえ村民や僧侶であっても誰が戦闘員でだれが非戦闘員かの区別は明確にはつかず、言ってみればその村民、僧侶全体が「敵」と考えて戦いを挑む必要があった。であれば、たとえ非武装の村民、僧侶であっても殺さざるを得なかったのではないか。こういうことは現代の戦争、たとえばベトナム戦争でも起こったことである。

 ただなで斬りにせよという光秀の書状の文言だけを見て、あぁ、この人は残忍な人だ、と決めるのはいささかもののみかたが浅薄すぎはしないか。それは現実の戦争というものを知らない人の見方ではないか。光秀はひとりの人間であると同時に、信長の統一戦争を最前線で実行せざるを得なかった人物であることを忘れてはならない。
 そのことを考えるとき、光秀のなんともいいようのない懊悩、苦渋、悲哀、嗚咽のようなものが僕の胸に迫ってくるような気がするのだ。

 たった一つの切り口だが、その小さな小さな一つの切り口が、光秀という男の心中を直接垣間見せてくれているように思えてならない…

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箱根での出来事

2016-04-24 20:21:38 | 歴史



 今月起こったことを時系列に書こうと思う。
 まず、今月初めに恒例の箱根日帰り旅行に出かけた。
これは慰労と自分への褒美の意味を込めて毎月行こうと思っているたびだ。

 鎌倉と並んで僕は箱根にも異様に惹かれる。
理由はよくわからないが、どちらのまちもスピリチャルな世界への入り口になっているような気がするからかもしれない、なんてこんなことを書くとバカにされそうだが、そう感じるのだから仕方がない。特に箱根のほうはよりそんな感じがする。

 2月にふとしたきっかけで中学の時の見学で出かけた甘酒茶屋にまた行ってみたくなり、石畳の道を歩いて行った。
実に40年ぶりぐらいに行ったわけである。
 歩いてみると石畳の道というのは思いのほか短く、このあたりはやはり日本だなと思った。つまり、古いものを大切にしない、という事である。

 歩いてみると日本人はだれも歩いておらず、外人の親子とすれ違ったのみ。
日本人の観光客は皆バスや車での移動なのだろう。

 ただ、そうはいっても途中の山道は結構深く、情緒は味わえた。
2月に久しぶりに行ったときは、思うことがあり、その急な上り下りがまるで自分の人生の反映のように思えた。

 僕の記憶の中にうっすらとのこっている石畳の道と甘酒茶屋はもっと甘くのんびりとしていた。
ただし茶屋の近辺は記憶に近かったと思う。
 
 今月上旬に行ったときは、時間がなかったので別の場所から直接タクシーで向かった。
そこで甘酒を飲んで、お店の女性と場所柄歴史の話をした。
 その女性も歴史にかなり詳しくて、いわゆる歴女だった。

 大石内蔵助もおそらくはその茶やかどうかはわからないが、あのへんに数軒あった茶屋のどこかで休んだはずだという話や、
勝海舟のお父さん、小吉の話になった時は話がとても盛り上がった。
 小吉という人は破天荒な人生を生きた人で、現在ああいう人がいればたぶん破滅型の人生を生きた人といわれるだろう。
ただし人間的にはとても魅力的な人だったらしい。

 彼がまだ若いころだろうか、何を思ったか江戸を出て静岡のほうまであてどもない旅をしたことがある。
その際、箱根の山中で一夜を明かした話をすると、急に僕らの会話が熱を帯びたものになった。
 
 彼女の先祖が鹿児島の人だという話が出て、実は僕の父方の母の実家も鹿児島だったというと、そうですか!というリアクション。
そこから西郷隆盛の話になって、僕があの時代には強い人はたくさんいたが、人格者を思わせる人は西郷ただ一人だというと、強く同意してくれた。
 そこから西郷と日本史を大きく左右する会談をした勝海舟の話にもどっていった。

 西郷が西南の役で死んだとき、それを知った勝が歌を詠んだという話をその女性がしてくれた。
その歌は正確には覚えてないが、勝が西郷の気持ちを最も理解している内容の歌で、それを読んだときはうれしかったと話すその女性の目にはうっすらと涙が浮かんだように見えた。

 僕も勝の見方に完全に同意しているので、そういうとさらに僕らの話は熱を帯びていった。
僕はその時うれしかった、うれしかったばかりではなく、救われる思いがした。
 まぁ、そう感じるほどこの世というものの表層が無味乾燥な世界であると云う事の裏返しなのかもしれない…

 これは歴史に詳しい人以外はあまり知られていないことだと思うが、勝海舟は維新後もかつての主君である徳川慶喜を物心両面で支え続けた。
維新になれば慶喜はただの人、ただの人どころか官軍に逆らった人だから、世間的には冷遇されていただろう。
 勝は維新後は政府の高官になり、何の心配もない状況だったから、慶喜のことなど考えなくてもよかった。

 それにもかかわらず、彼はかつての主君の身の上を案じ、さまざまな形で援助をした。
それを知らない福沢諭吉は、かつての敵(官軍)に媚を売って出世した佞臣扱いして、勝を痛烈に批判したが、お門違いもいいところである。
勝が偉いのは、福沢に批判されても、一切自分がさまざまな形で慶喜を支えていることを公にせず、言いたいなら何とでも言ってくれという態度を貫いたところだ。
男だと思う。

 たまたまこの茶屋の女性との話の中で話題に上った、大石内蔵助や西郷隆盛、勝海舟の3人を思う時、やはりなにか特別な、常人にはないNobleなものがあることを思わざるを得ない。
そして、その女性とそれを感じ取り思いを共有できたということ…そのことに僕は救われたのだとおもう。

 それにしても、僕は自分よりも歴史の知識のある女性に出会ったのはこの時が初めてだった。
途中、どこかの年配のおやじさんが僕らの話に割り込んできたので、僕はさりげなく離れて一人甘酒を飲んでいたが、その親父さんとの会話がおわると彼女がまたすぐに僕のところに戻ってきて、切られた話題をまた再開してくれたのもありがたかった。

 別れ際、なんとなく歳の話になり、僕の年齢を言うと何と同じ年生まれだった。「なにかあるのかもしれませんね」と彼女が感動気味に言った。
それを聞いた時、あぁやはり同じことを感じていたんだなと思った。

 今回は時系列で今月起こったことを書こうと思ったが、思いのほか甘酒茶屋で起こったことの話が長くなったのでこの辺でやめることにします。


 
 

 
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尊氏を擁護いたす。

2015-06-25 21:48:54 | 歴史




 皇国史観全盛の明治から昭和初期にかけては、尊氏は後醍醐天皇に逆らったとして国賊扱いされていたようだ。
 南朝が正当か北朝が正当か、長い間論争が繰り返されてきたそうだが、僕に言わせれば、大覚寺統の後醍醐天皇も持明院統の光厳天皇もともに天皇であり、一般家庭で言えば一族の従妹同士が争ったようなものである。
どちらが「正統」でどちらが「異端」かなんてあまり意味がない。

 南朝を正統と決めた明治政府によって勝手に国賊とされた尊氏にとっては迷惑な話であろう。
かれは北朝の光厳上皇の院宣をもらったうえで南朝方の新田義貞を討ち、後醍醐から神器を取り返し光明天皇を即位させている。
 『北朝の光厳上皇から見れば』、自分を退位させた後醍醐に味方している新田義貞や楠正成こそ「国賊」であろう。

 司馬遼太郎も書いているが、南北朝論争というのはようするにイデオロギー論争と同じであり、どちらが正義でどちらが悪かなどという論争そのものに意味はない。
同様に、どちらについた武士が忠臣で、国賊かなどという論争も意味はない。
 南北朝の争いは、武家がきっかけを作ったとはいえ、要するに天皇家内部の権力争いに過ぎない。

 そもそも、鎌倉幕府を倒したのは尊氏と新田義貞を中心とする武士団である。
そこへ現実の軍事的実力を持たず、事実上軍事的にはほとんど何もしていない後醍醐天皇が、さぁ、これからは私の天下だ、君たち武士の恩賞も土地の分配も誰のものか全て私の裁量で決める、などといわれても、討幕のために実際に体を張って戦った武士たちが納得するわけがない。

 尊氏が全国の武士たちの支持をあれほど集めたのは、後醍醐やその取り巻きの公家たちのこの横暴なやり方に対する不満があった。
実際に、建武の親政によって討幕に功があったにもかかわらず、先祖伝来の土地を取り上げられた武士もいたのではないか。
いわば尊氏は大多数の武士たちの気持ちの代弁者だった。


 尊氏が倒そうと思えばいつでも倒せた南朝の存在を許したのも、かれの人間的複雑さ(僕はそれを彼の人間味であり、同時に彼がまだ多分に中世的な時代思潮の中にいたからだと思う、もし信長や家康であればどうしたか、考えれば容易に理解できると思う)の故であり、けっしてニヒリズムなどのためではない。
尊氏に私欲がなかったとは言わない。しかしすくなくとも彼には小さいながらも先祖伝来の土地を鎌倉以来「一所懸命」にまもり、そのために命も惜しまなかった武士たちの気持ちをくみ取るいたわりがあった。

 実際の倒幕に軍事的にはほとんど貢献せず、安全なところにいてただ命令を出していただけの後醍醐が、鎌倉幕府が倒れるやいなや光厳天皇を無理やり退位させ、戦乱で疲弊していた諸国の武士や民たちの苦境もこころみず、豪勢な内裏を作るといいだして多大な税を課し、あげくのはてに不公平な恩賞、土地の再分配などをやりだしたことに、尊氏がいたたまれない思いになっただろうことは容易に想像がつく。

 たとえ戦に敗れても、多くの武士たちが尊氏の周りに集まり、彼を担いで命を張って戦ったのも、そのような尊氏に対する、まさに涙も出んばかりの感謝の念からであったろう。
鎌倉幕府時代、尊氏も彼の一族も、北条氏のわがまま、横暴には苦しめられてきた。彼の祖父は謀反の嫌疑をかけられて、鎌倉幕府によって切腹させられている。
だからこそ、彼には必死に土地を守って生きている武士たちの気持ちを汲むことができた。 
 士は自らを知る者のために死す、ということばがあるが、当時の尊氏のもとに集まってきた武士たちの心境はまさにこれだったのではないか。

 尊氏は、彼を倒そうとした後醍醐天皇を弔うために壮大な天龍寺を造営し、幕府最後の執権であり、祖父を切腹に追い込んだ北条氏一族の北条高時を弔うために宝戒寺を、さらには、彼の前に立ちはだかった新田義貞を弔うために彼の故郷の長楽寺に寺領を寄進している。
さらには、それまでの戦乱でなくなった武士たちを弔うために全国に寺と塔を作らせている。全国に作ったと云う事は、もちろん、敵味方の区別なくと云う事である。
 よくポーズ(偽善)でこういうことをやる歴史上の人物には事欠かないが、これほどのことは単なるポーズでできることではない。
ましてやニヒリストにできることでは絶対ない。

 正直、これほどの暖かい人間味を感じる武将というのは、僕は日本史の中では他にしらない。
くりかえすが、かれがたとえ負けても負けても、次から次と彼を支持する武将たちが現れ、彼に命を預けて戦ったほんとうの理由はここにあるのではないか。
 
 そして「それゆえに」実の弟である直義を毒殺せざるを得なくなった彼の心境を思うと…何か自分のことのように苦しくなるのだ。
僕の目から尊氏を見れば、戦においては相当の戦上手(日本史の中でもたぶん有数だろう)だった、ただし、政治家としては…優しすぎた、と考える。
その「優しさ」が南北朝時代を生み、さらには自分の腹心である高師直と弟の直義の泥沼の争いを生んだ、と言える。

あれ、なんでこんなに必死になって尊氏の擁護をするのだろう…やはり僕の前世は… 
 




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宿命

2015-06-19 20:19:52 | 歴史


写真は長寿寺境内


 鎌倉に長寿寺という寺がある。
前からそこにあることは知っていたのだが、普段は公開していないので門のところから中をのぞくだけだった。
 一般公開しないと云う事で、もしかしたらそうとう高飛なプライドの高いお寺なのかな、などと考えていた。

 今回、偶然公開している日に鎌倉に行ったので初めて入ってみた。
そこでご住職と少しお話をしたのだが、高飛なんてとんでもなく、なんともやわらかい、柔和なご住職だった。実際、そのお人柄に静かな感動さえ覚えた。

 普段公開していないせいか、他の寺にありがちな俗っぽさがなく、また、たまたまその時が閉門間際だったので人も少なく、鎌倉の寺というよりもどこか田舎の無名の寺に来ているかのような粛寂としたたたずまいだった。
 この寺は、足利尊氏本人か、または、彼の子供が創建したといわれている。

 尊氏の墓は現在ここと京都にしかない。
本堂の中を拝見した後、裏山のほうへ行くと尊氏の墓があった。

 そこで僕は自分でも予想外のことをした。
下が石畳だったにもかかわらず、僕はそこに思わずひざまずいて正座し、深々と頭を地につかんばかりに下げて墓参したのだ。
どうしてもそうしなければいけないような気がして思わず体が動いた。
たまたま周りに人がいなかったのでよかったがいたら気でも狂ったのかと思われたかもしれない。

 普段こういう芝居がかったことはしない人間なので、いったいどうしたことか自分でもすぐにはわかりかねた。
実は今でもわかってない。ただ、もしかしたら、僕は前世で尊氏につかえていた武士だったのかもしれない。
あるいは、朝廷、もしくは、鎌倉幕府に迫害されていた弱小武士だったのかもしれない。

 そういう状態でいるときに、尊氏に救われた過去世があるのかもしれない。
いずれにしても、何かがあるのではないかと思う。
 そう、僕が鎌倉にこれほどまでひかれる原因のなにかも、この時代にあるのかもしれない。それなら腑に落ちるような気がするのだ。

 実は尊氏のことは昔から好きであることも確かだ。
何が好きかというと、何か破天荒で、権威を権威とも思わない反逆児的なところが好きなのかもしれない。

 彼は信長などと違って、確たる信念に従って生きている、というタイプではない。
常に迷い、考え、そうやって沈思黙考したわりには、結果として破天荒なことをしている(笑)…そんなところが好きである。
しかも今も述べたように、権威を権威と思わない、どこか、秘めたる「狂気」のようなものも持っているような気がする。

 そうでありながら、信長のような怜悧なところがなく、非常に人間的である。
中国史で言えば、やはり劉邦に似ているような気がする。
 ただ、劉邦のように権力を取ったら急に人が変わったようになり、それまで共に戦ってきた同士たちを粛正するようなこともしていない。

 弟の直義を殺したではないか、という人もいるかもしれない。
確かにそうだが、あれも、迷いに迷って最後まで避けようとしたのだがやむを得ず、という感じがする。
 劉邦のように冷血に粛々と、という感じを僕は受けない。

 NHK大河ドラマ「太平記」の直義を毒菓子で殺したシーンは圧巻である。
「よくぞご決断なされました、これでいいんじゃ、兄上は大将軍じゃ」
という直義の言葉は、権力というものの中枢でその渦に巻き込まれていった人間の性を見事に浮き上がらせてはいないだろうか…

 それにしても尊氏という人は因果な宿命を背負った人である。
共に戦い、鎌倉幕府を打倒し、後醍醐天皇とも戦った兄弟二人でありながら、最後は「権力」というものが持つ魔の力に取り込まれ戦うことになった。
さらには、子供の直冬にまで背かれ、その反乱に生涯悩まされた…

 北条高時、後醍醐天皇、楠正成、新田義貞、高師直、足利直義、直冬…そして尊氏、あの長い戦乱を通じて誰一人勝者はいない……

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徳川家康 真の英傑

2015-01-19 00:10:56 | 歴史

 時々BSの時代劇チャンネルで過去のNHKの大河ドラマを見ている。
実は2011年の四国疎開時代、近くの貸しビデオ屋さんに過去の大河ドラマのビデオがずらっとおいてあったので、大概のものはその時見た。

 その中で最もおもしろかったのは、足利尊氏を主人公にした「太平記」と徳川家康を主人公にした「徳川家康」だった。
この二つは僕の中では、過去のNHK大河ドラマ群中の双璧といっていい。

 ところが不思議なことに歴史好きの僕にしてはこれらの番組をリアルタイムではほとんど見ていないのだ。
実はこれらの放送をしていたころの僕は、非常に苦しかった時期であり、そんなものを楽しむ気持ちの余裕がなかったのだろう。

 それはいいとして、こんどBSの時代劇チャンネルで「徳川家康」の【本能寺】の回をみて少し思うところがあった。
光秀が謀反を起こすことをなんとなく嗅ぎ付けていた家康が、本能寺の直前にぽつりとつぶやく言葉がある。

 「わしに忍べたことが光秀に忍べようか…」

 というものだった。
 光秀が信長に大いに不満を持っているということは、家康にも感じ取れていた。
だから謀反の匂いを嗅ぎつけた時、上記の言葉が漏れた、というのがドラマの設定。

 この大河ドラマは山岡荘八の原作を土台にしているものなので、たぶん原作にこのセリフがあるのではないかと思う。
もしそうであればうまいことを言わせるな、と思う。
 あまりにもリアルな感じがするので、これは本当に家康が漏らした言葉ではないかと思うほどだ。

 要するに、原作者はここが光秀と家康の違いなのだ、ということを言いたいのだろう。
無理難題を押し付けられているのは光秀だけではない、織田家の家臣たちはもちろん、家康も同じである。
だが、光秀にはそれが耐えられなかった。

 僕は子供のころは秀吉が一番好きで、その次が信長、家康はあまりにも平凡にみえて好きではなかった。
ところがここ数年、家康という人物の器の大きさが自分の中でぼんやりとだが徐々に感じられ始めている。
やはり、天下は収まるべき人物のところに収まったのだな、と今は思うようになった。

 今まで生きてきて思うのは、生きるということは自分の心をいかに治めるか、ということではないかとおもう。
他人の心ではない、他人の心は自分では変えることはできない。人の心が変わるのは、自分の行動が取り返しのつかない結果をもたらしたときだけではないだろうか。
そうなった時に初めて、自分の心得違いに気付かされる…そうなった時に初めて、心の底からの悔悟の念が生まれ、変われるのではないか。

 たとえ親であろうと上司であろうと、他人から指摘されても反発こそすれ心底から反省することはほとんどないと僕は思う。
それが我の強い普通の人間ではないだろうか。その我を砕けるのは唯一、自分のやったことがもうどうにも取り返しがつかない結果になった場合だけだろう。
そういう経験をするために、時間が過去から未来にのみ流れるこの世に、我々は何度も何度も悟るまで生まれさせられるのではないかと思う。

 そういう中で、僕らが注力しなければならないのは、ただ一つ自分の心をどう治めるか、ではないだろうか。
幼いころに今川義元のところに人質に出され、さらには移送中にさらわれて織田家の人質にもなり、そこでの苦労は相当のものだったろう。
独立してからは信長に同盟者であるにもかかわらず、まるで家臣でもあるかのように扱われ、それでも黙々とその命に従った。

 三方が原では信玄の3万の大軍にわずかな勢力で向かっていった。もちろんこの時、死を覚悟したうえでだろう。
彼が偉かったのは、信長に義を感じ、それにあかしをたてようとしたところだと思う。
今川の属将からやっと離れて独立大名になれたのも、信長がいたからこそだ。桶狭間の戦いのときは家康は今川の将として信長と戦っている。
本来なら攻め滅ぼされても仕方がないところを、信長は家康を同盟者としてくれた。

 織田家に人質になっていたころは、もしかしたら、信長は家康を人質としてではなく、対等な年少の友達として遇してくれたかもしれない。
義元のところにいた時は人質として冷遇、蔑視されることもおおかった家康にとって、それは心底からありがたかっただろう。
家康はそういったことに恩義を感じていたのではないか、だからこその三方が原の捨て身の戦いだったのではないかと。

 並の武将であれば、あそこで信玄側に寝返るか、寝返らないまでも傍観(形だけの出陣)を決め込んだのではないかと思う。
それを彼は真っ向から、信玄の大軍に挑んでいった。深謀遠慮の人、家康がそういうことをするには、何かあると思うのが自然であろう。家康という人のなにがしかがこの行動に顕現していると僕は感じる。

 同じ観点から、わずか2万程度の兵力で8万の大軍を擁する秀吉に真っ向から挑んだ小牧長久手の戦を僕は見る。
あの戦いは普通に考えれば、いくら野戦の名手と言えども家康に勝ち目はない。にもかかわらず、信長、信忠(信長の長子)なき後、信長の正統な後継者である信雄の援助要請に応じて立ち上がった。これも並みの武将であれば、信雄の援助要請をことわるだろう。それに応じるということは、勝てるかどうかわからない、可能性としては負けることが濃厚な戦をするということになる。いったいどの武将がそんな危険な賭けをするだろう。無謀ともいえるリスクを冒してまで家康がたったということは、そこに何かあると考えるのが自然である。
 彼を立たせたものは義憤であろう、信孝(信長の三男)を切腹に追い込み、今度は二男の信雄まで亡き者にして、織田家を簒奪しようとしている秀吉が我慢ならなかったのではないか。

 もちろん、あそこで戦っておくことによって、信長亡き後の自分の権威に箔をつけて、秀吉に一目置かせようとしたというひともある。しかしそれは、歴史を後から見る後世の恣意的な解釈であろう。
 ただそのためにだけあのようなことをしたとは思えない。そう思うにはあの戦いはあまりにも勝算が薄い。
戦を始めた段階では、あのような形(言い出しっぺの信雄そのひとが家康に黙って秀吉と和睦を結んでしまった)で和睦に終わるという保証はどこにもなかった。
どちらかが倒れるところまでいった可能性も十分にあった。
 可能性としては数と勢いに劣る家康が敗れた可能性のほうが高い。

 深謀遠慮の人家康が、それでも立ち上がったのはなぜか…
僕はそこに家康という人の、人となり、底の深さ、器量の大きさ、義の厚さ、そして、尋常ならざる胆力をおもう。
自分を戦国大名として独立させてくれた信長への「義」ゆえに立ち上がったとしか思えない。

 僕はナイーブなのだろうか、いや違うと思う。
下剋上、裏切り、主殺しが日常茶飯であったあの時代、僕はどうしても家康の中になにかけがれなきものを見ざるを得ないのだ。
同盟といえば自分に都合のいい時だけは維持し、必要がなくなったら一方的に破棄されることが当たり前のように起こっていたこの時代に、信長の死まで一度も破られることなく続いたこの二人の稀有な同盟は、この家康の気質を抜きにしては絶対に語れない。


 家康のばあい、最晩年の豊臣家を滅ぼした時の行動があまりにもクローズアップされすぎていて、それがかれのその最も大事な部分を隠してしまっている。
司馬遼太郎もそのことを洞察していて、家康を非常に気の毒な人とエッセイの中で表現している。
 豊臣家を完全に滅ぼさなければ、徳川幕府の安泰はない、ということは、人間の本質・本性というものを知悉している者ならだれでもわかることである。

 家康こそ日本史が生み出した真の英傑、ひとり国家だけでなく、難事中の難事である自らの心を見事に統治した人だといえる。 

 

 

 


 
 
 

 

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