相模湾
恒例の祖先へ想いを伝え安心していただくための行事を今年も終えることができた。
僕にとってはこの行事がおわるとまた年を越すことができたと思え、ほっと肩をなでおろす。
その後、一緒に同行した二人の友のうちの一人の父親が最近亡くなられたので彼のお宅に焼香に行った。
彼はこれから母親と二人暮らしになる。何か数十年ほど前の自分を見ているようだ。
これから年老いて弱っていく母親との関係がどうなるのか、そして、そう遠くないであろう母親がこの世を去った後、彼の人生はどうなっていくのか…すでに世帯を持っている弟夫婦との関係はどうなっていくのか、などを考えると不安もないわけではないが、友としてできるだけのことはする思いでいながらも、できることとできないことの境界をまたぐこともまたできないことも確かだろう。
友として、また、同じ信仰を持つものとして道を外さないように生きていくほかはない。
氷川神社(大宮)
時は前後するが約1か月ほど前に大宮にある氷川神社を訪れた。
創立が2400年ぐらい前というから大変由緒のある神社である。日本武尊の東征の際にはこの神社に立ち寄り参拝され、また、歴代天皇や鎌倉、室町、後北条氏、徳川なども篤く崇敬してきたという。
境内は写真からもわかるように凛としたただずまいで、こちらもすこし緊張しながらの参拝になった。
驚いたのは犬を連れながら参拝していた人がいたこと。巫女さんから注意されていたが、これだけの清浄な雰囲気の境内に動物を連れ込むだけでも僕ならはばかるのに、更にそこでそそうでもしたら…と思うと…
氷川神社
写真の技術的な話になるのだが、上の写真を撮って自宅で見てみるとやはり空と建物の輝度差が激しすぎてどうしても建物が暗くなってしまった。この対策としてやはり僕もフィルターが欲しいと思った。だがそれにはセットを買うと5万から6万の出費になる…今は涙を呑んで画像を加工してごまかすことしかできない。
大山阿夫利神社
そして昨日訪れたのが大山阿夫利神社。
こちらも歴史は古く、今から2200年前、崇神天皇の時代に創建されたと伝えられている。
こちらは氷川神社のような凛とした、いい意味で厳粛な趣の境内とちがい、上の写真からも伝わってくるように優しそうな雰囲気を持った神社だった。
阿夫利というのは「あふり」「雨降り」ということで、古代より雨乞い信仰の神として人々に慕われてきた。
源頼朝公をはじめとして徳川に至るまで武家の信仰も集めてきたという。また、江戸時代には人々は講という組織を作り大山詣りを行ったという。
ちょうどこの本殿の左わきに山頂に上る登山道があるのだが(山頂には上社がある)、僕が言った時はすでに午後だったので登山はあきらめたほうがいいといわれ今回はのぼらなかった。そこから90分ほどかかるといわれ、いろんなブログなどを見ると結構大変みたいだ。
しかも僕は甘く考えていて、ジャケット姿で行ったのでこの季節にその軽装ではたぶん無理だっただろう。案内書きをみれば過去には遭難滑落事故などもあったと書かれていた。こんどは万端の準備を整えてチャレンジしたい。
この神社に向かう参道には古い宿などが数件あり、往時の名残をとどめていた。
最後にいいことがあった。それは生まれて初めて大吉をこの神社で引いたことだ。
そもそも僕はおみくじを引くといった経験があまりなかったので生まれて初めてなわけだが、とてもうれしかった。というのも、もう何年も前だが、浅草の浅草寺、上野の護国院で引いたおみくじの言葉がまるで僕という人間の過去、性格、性質、それらを本当に知っているのではないかと思うほどずばりと本質をついたものだったので、僕はおみくじを単なる楽しみ、参考程度のものとは思っていない。
またそれだけではなく、以前にも書いたが、神の実在のあかしというものをこの目で見た経験があるため、そこ(おみくじ)には神の意志と叡智というものが顕れるということは容易に想像がつく。それだけにうれしかった。
大山阿夫利神社
まだ紅葉には早いのか…
大山寺
大山阿夫利神社からふもとのバス停に戻るまでの中腹に大山寺というお寺があった。
このお寺の歴史も古く、755年奈良の東大寺を開いた良弁という僧が開山したという。この石段と石像はなかなか良くて、今度は雨の日に来てしっとりと濡れたさまを撮りたいと思った。
来歴を読むとここはあの春日局が家光の世継ぎ継承を願いにこもった寺で、その後春日局は駿府の家康に直訴したというから、当時のこの寺の威光は広く知れ渡っていたことがうかがわれる。
祈り (大山寺にて)
ということで、今までの鎌倉中心にした写真行脚から今後は関東全体の寺社を視野に入れた行脚にかえていくつもりである。その先にはいずれ日本全国へと広げていきたいと思っている。それが一生の夢になるのかなと…
こうしてみると、やはり僕は精神世界系とのえにしが深い人間なのだなと思う。
さて、話は変わって来年の大河ドラマはあの光秀になるらしい。
やっとこういう面白い人物に脚光をあててくれるのねNHKさん、という感じだが、非常に楽しみにしている。
光秀というのは前半生がほとんど分かっておらず、また、あの歴史好きの間では日本史最大の謎といわれる本能寺の変を起こした人物でもあるので、このドラマの原作者の作家としての力量はたぶん生半可なものではない…と僕は期待している。というのも僕はまだこの原作を読んでいないから。
そういうこともあり、最近はよく光秀のことを考えることが多い。
まぁ僕は単なる一歴史ファンであり研究者でもマニアでもないのである程度知ったかぶりをするしかないのだが、信長家臣団の中ではやはりこの人は異彩を放っている。
戦国武将というイメージから遠い感じがするのだ。
どこか知的で実直でしかも武将としても行政官としてもかなり優秀な人というイメージが僕の中にある。
僕が光秀を思うときいつも脳裏に浮かぶのは、信長に対する感謝を表現した文章である。本能寺の変のわずか1年前に、どうでもいい小さな存在であった彼をここまで取り立ててくれた信長へ感謝の念を述べたものだ。
僕の知る限り、信長に対するこのような気持ちを述べた武将はほかにいない。
また、一方の信長が光秀のことをほめたたえた手紙(信長が第三者に送った手紙)のことも…
いったい、初期のこの蜜月の関係にあった二人の間にくさびを打ち、引き裂いていったものは何だったのか…
巷では昔からいろいろ言われている。そのどれもよほど偏ったものでない限りある程度の説得力を持っていると思う。
だが、僕の眼にはどれも決定的なものではないように映る。
今よく考えることは、本能寺の変の決行日である6月2日についてである。光秀はなぜこの日を選んだのかということである。
信長が軍勢を率いていない丸腰になる機会は何もこの日だけではなかっただろうと思う。なのになぜわざわざ、四国征伐出発ぎりぎりの日を決行日としたのか。
そこに彼の「心」をくみ取ることができはしないか。つまり、光秀は直前まで迷いに迷っていたのではないか、信長を討つことを。
彼も人間である、この謀反を起こせばそれは彼も無事ではいられず、その先に待っているのは死であることが十分にわかっていたはずだ。(ぼくは光秀の単独実行説をとります)
なぜ、四国征伐出発日の2日前を選んだのか…普通に考えるならもうすこし余裕を持って決行したのではないか。なぜなら、信長が予定を2~3日変更しただけで四国討伐は始まってしまったからである。その日に実行するのは失敗するリスクが高いということは聡明な光秀であれば考えないはずはない。(信忠がそろうのを待っていたという考え方もあるかと思うが、僕は光秀は信忠を殺すことまでは考えてなかったと思う。というのも信長親子がそろうのは変を決行する前の非常に短い時間だけであり、その短い時間を特定して決行することは当時では非常に困難だからだ。)
僕は光秀は決行直前まで迷っていたと感じる。死の恐怖との戦い、大恩ある信長への愛憎といった複雑な想い、そして、これが一番僕の気を引くことなのだが、この四国征伐によって失われるかもしれないものが何だったのか、ということを思い続けている。
それはかれが苦心して積み上げてきた長宗我部との信用、信義だろうというのがよく言われてきたことであり、僕もそれは大きな要素だと思う。だが、はたして「それだけで」決行すればすなわち自身の死をも意味する無謀な謀反(ぼくはこの謀反が無謀なものであることを彼は熟知していたと考えている)を起こすだろうか……
もちろん、この謀反の原因はそれだけではなく、ほぼまちがいなくそれまでの信長と光秀の間に起こった様々な軋轢、摩擦などが絡んだ複合的なものだろうとは僕も考える。だが、繰り返すがそれだけであの理知的な光秀が自身の死に直結するような無謀な謀反を起こすだろうか……
「それ以上の何か」があったはずだと僕は思う。命を捨ててまで守らなければならないものが。
信長の非人間的なまでの徹底した合理性、これこそまさに信長を他の戦国大名と一線を画す信長を信長たらしめている要素であり、それがあれだけ短い間にあれほど広大な版図を獲得させた理由の一つであろう。おそらく光秀も最初はそれをまぶしく感じあこがれさえ覚えていたかもしれない。しかし、時がたつにつれて、その信長のまわす巨大な車輪のしたで踏みつぶされ、阿鼻叫喚の地獄の様相の中で死んでいく大勢の人々の血の匂いとその慟哭、絶叫が大きくなっていき、次第に彼を追い詰めていった…のではないか、という仮説も成り立つだろう。
光秀はそのほとんどを実際に彼の眼で目撃していたかもしれない、それは本やドラマでそれらを単に知識としてしかしらない我々現代人にはとうてい想像もつかないほどの強烈な衝撃と影響を彼の心理、精神に与え続けてきたに違いない。たしかに比叡山焼き討ちを現場で指揮したのは光秀だ、しかし彼の足軽に至るまでの温かい気づかい思いやりというものを考えるとき、彼がそれを嬉々としてやったとは思いにくい。命令なのでやむを得ず従ったととらえるほうが自然だろう。
たしかに、「なできり」(なで斬り)にしようという有名な光秀自身の書状なども残っている、しかしそれだけをもって光秀を冷酷な人物であったと断定するのはどうだろうか。当時は兵農分離がされておらず、たとえ村民や僧侶であっても誰が戦闘員でだれが非戦闘員かの区別は明確にはつかず、言ってみればその村民、僧侶全体が「敵」と考えて戦いを挑む必要があった。であれば、たとえ非武装の村民、僧侶であっても殺さざるを得なかったのではないか。こういうことは現代の戦争、たとえばベトナム戦争でも起こったことである。
ただなで斬りにせよという光秀の書状の文言だけを見て、あぁ、この人は残忍な人だ、と決めるのはいささかもののみかたが浅薄すぎはしないか。それは現実の戦争というものを知らない人の見方ではないか。光秀はひとりの人間であると同時に、信長の統一戦争を最前線で実行せざるを得なかった人物であることを忘れてはならない。
そのことを考えるとき、光秀のなんともいいようのない懊悩、苦渋、悲哀、嗚咽のようなものが僕の胸に迫ってくるような気がするのだ。
たった一つの切り口だが、その小さな小さな一つの切り口が、光秀という男の心中を直接垣間見せてくれているように思えてならない…