気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

自分はだれなのか?芸術的バージョン

2018-11-26 09:18:23 | 写真





 「自分はだれなのか?」
誰でもこう自問自答したことのないものはいないに違いない。
 英語でElusiveという言葉があるが、つかみどころのない、とりとめのない、とかいう意味である。

 この問いを思うたびに、日本語のどのことばよりもこの英語のElusiveという言葉が浮かんでくる。
 自分はだれなのか?真実の答えとそれを見ている自分との間には、まるで万華鏡のように自我が生み出す様々な屈折レンズがあって、到底「真実の自分」(もし理性的に定義できる『真実の自分』というものがあるとして)を〈正確に〉見ることはできない。

 こうであると信じている〈自分〉、こうであってほしいと無意識に思っている〈自分〉、それらの願望を正当化するために無意識のうちに作り出している様々な屈折レンズ。

 ましてや、他人が見る自分にはさらにその他人の自我が生み出す様々な屈折レンズが置いてあり、さらに複雑な〈自分の〉姿を映し出す。
そしてその「他人が見る自分」を[自分が]正確にみることはさらに難しい、何故なら、他人が置いた屈折レンズと自分がその他人との間に置いた屈折レンズの両方が、さらに複雑怪奇な〈自分の〉姿を映し出すからだ……







 この問いを画家として生涯にわたって問い続けたのが、自画像の画家といわれるレンブラントであり、また、キュビズムをおしすすめたピカソやブラックだった。
そう、この冒頭の写真を撮ったヴィヴィアン・マイヤーも、写真の世界のレンブラントであり、ピカソだといえるかもしれない。

 この人の職業はNannyで、母親に代わって住み込みで子育てをする人だったらしい。
2009年に亡くなるまで全くの無名の人で、死後、彼女の写真がたくさん入っている個人の貸倉庫のなかみが売りに出され、それを買った人がネット上に掲載した。
それが芸術的価値のある写真として評価されるようになり、たちまち、海外でも個展が開かれるほどの知名度の高い「写真家」として知られるようになった。

 貸倉庫から競売に出された彼女の写真を買い取ってネットに掲載した人物のインタビューで、ネットにのせてしばらくたって後、電話かメールか忘れたが、あるたしか大学の先生か誰か?から連絡があり、これらの写真はとても「重要だ」といわれたという。
 それでこの買い取った人は、これは金になるかも!と思ったらしい。

 ここで思うのは、全く無名の人物が撮った写真を無名の人物が掲載したネット上で見つけ、しかも、その写真に高い芸術的な価値があると見抜く『一定の層』がアメリカにはいるということ、このことの凄さである。あらためてこの国の文化的、知的階層というものが侮りがたく厚いものであることを僕は感じる。


 彼女の写真には異例といっていいほど、Self Portrait自画像が多い。
これほど自分を内省し続けた写真家は他にいないのではないか。
この映像を参照
 額縁のついた鏡に移った自分をまるで絵画の自画像のように見せる写真(13分23秒)(14分23秒)、Heaven can wait『天国は待ってくれる』と題された映画の広告写真の中に映った自分を意味ありげにとった写真(13分13秒)。
 僕はこれらの写真を見て、なるほど、全くの無名のひとが死後たちまち評価されるだけのことはあると思った。

 自分のなかの光と影、明と暗、善と悪、一つの宇宙といってもいいほどの複雑なもの、それを冒頭の一枚でズバッと切り抜いている。この写真のバックに写っている建物が教会らしきものであることも何か示唆的である。
 この写真などを見ると、Nanny 乳母、家政婦、という職業から連想される低学歴で非知的な人、という一般にあるステレオタイプ、偏見を完全にぶち破っている。
相当の知性を持った人、僕がこの写真を見て抱いた第一印象だ。

 この映像の9分52秒のあたりから始まるSelf Portraitの数々をみて、僕はうなった。
この映像ではあまりにも速く写真が移り変わっていくが、その大部分の写真は非常に意味深く、むしろこの半分以下の速度で見なければいけないほどである。

 映像を見終わって思うのは、この人の真価はポートレート写真にあるということ。
アメリカはシカゴの様々な社会階層、職業、にある人々の写真。そのどれも様々なことを連想させる。顔は履歴書、を証明するような写真。


 しかし、おもうのは、これほど他人に肉薄してカメラを向けて写真を撮った彼女の豪胆さである。
ふつう、これほど肉薄するとなんらかのトラブルが起こるだろう。今よく言われる肖像権などお構いなしである。
 彼女が女性であったこと、そのパーソナリティーに人の心に自然に入っていける何かを持っていたのかもしれない。
そしてこれはある写真家が指摘していることだが、彼女が使っていたカメラは写す人が下を向いたままカメラを構えてシャッタを押すので、写されているほうはとられているという意識があまりなかったこともあるのではないか。

 あとは、これはもうアメリカ人特有の国民性だろう、他人に対してオープンな気質。
これらの幸運が重なってあのような人間に肉薄する写真が取れたのだろうと思う。

 いずれにしても、とても興味深い写真家である。








 



 

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二人の写真家

2018-11-05 18:07:05 | 写真
Margit Erb - Director, Saul Leiter Foundation



 今二人の写真家が気になっている。
一人はソール・ライター。50年代から70年代までファッション誌の写真を飾った写真家だったが、方針の対立からその世界から手を引いた。
その後は絵をかいたり写真を撮ったりしていたが、一部の批評家を除いてほぼ無名に近い存在だったらしく、当然生活も苦しかった。
それが2000年代になってからドイツの写真誌に認められて一躍、というか再び写真家として広く知られるようになった。

 彼は最初画家を目指していたが、友人の勧めもあって写真家を目指したらしい。
というだけあって、彼の描いた絵はとても質が高い。(32分40秒あたりから)
いま、彼の描いた絵がかなり残っていて、それらはこれから徐々に発表されていくという。おそらくだが、これだけのレベルの絵なので、これから彼の絵が非常に高く評価される時がやってくるのではないか、と彼女も言っているし、僕もそれは全く同意見だ。

 もしかすると、数十年後には写真家としてではなく、むしろ画家としての名声を確立するかもしれない。
ただ、それらは今リアルタイムで進行中のことなので、まだだれにもわからない。

 僕もつい最近彼のことを知るようになったので、詳しいことはわからないが、これらの絵と写真から判断するに、相当の芸術家であることは間違いない。
特に彼の写真にあらわれている「色」とハッと意表を突く「構図」、そしてガラスに映る水滴や反射を巧みに使い、モデルの心の奥まで表現するその感覚は…まさに凄腕である。

この写真も必見!

 とにかく彼の写真は少なくとも僕の常識を覆すほど斬新だ。
いい写真というと、ガチっと構図を決めて、とくにストリートフォトグラフィーの場合なにかそこに「意味」のようなものをこめてとった写真がいいものだと思っていた。
ところが、彼の場合はそんなものは2義的なもので、まず一番目に「色」を持ってきている。そのあとに印象に残るのが構図、しかも、その構図もまるで北斎や広重の絵のように意表を突くような斬新さ。

 よくこういう光景を瞬時に切り取ったな、と感心する。
このプレゼンテーションで紹介されているほとんどの写真が素晴らしいが、特に僕の目に焼き付いたのが49分10秒あたりに出てくるウィンドウかミラーに映った町の情景だ。「Window 1957」
これをカメラで切り取れるのは本物の「芸術家の眼」を持った者のみにしかできない。ふつうはこれは見逃してしまうだろう。そう、まるで印象派の「絵」のようだ。

 この写真はおそらく一切の加工を施してない、そのまんまの写真だろう。考えたことがあるだろうか、僕らが普段歩いている街にこのような情景があるということを!
このプレゼンテーションをしている女性はライターのアシスタントだったみたいだが、彼女も言っているように、これから膨大に残された彼の写真と絵が世に出ていく過程で、世間でどのような評価を受けていくかということがとても楽しみだ。

 
 さて、二人目だが、この人はソウル・ライターとはまったくタイプの違う写真家だ。
ただし、その写真家としてのレベルの高さという点でこの人も全く引けを取らない。
彼の名前はマイケル・ケンナ。
この人も最初は画家を目指していたが、途中で写真に転向したらしい。彼が画家を目指していたというのは、ちょうどライターが画家を目指していたというのと同じくらい、その写真を見れば納得できる。

 ライターの写真もそうだが、このセンス、これはまさに「画家が撮った写真」である。
そして数時間にも及ぶこともあるという長時間露光、そして彼独自の熟練した現像技術(彼は今でもフィルム写真)、さらに白黒世界が生み出すあの独特の幻想、神秘性。

 この二人の作品を見ていると感じるのは、完全に作品を自分のものにしているということ。言い換えると他の人には絶対にまねできない、作品そのものがまさに彼ら自身、という感じ。
しかも、ユニークでありながら、同時に普遍性に達している。
ライターの写真は瞬時に現出した「美」を手練れの剣士のように瞬時にきりとり対象をアートに変える魔術、一方ケンナのほうは素材は現実からとりながらもそれを彼独自の感覚と技術で「詩」の領域にまで高めている。

 一見全く違うタイプの写真家だが、二人に共通しているものは、「美」にたいする先鋭かつ鋭敏すぎる感覚、そして「自分の」感覚に対する絶対的な信頼である。
うまい写真はちょっと練習すればたぶん誰でもある程度のものはとれる。
ただ……この二人のようなレベルとなると、さらに「特別な何か」が絶対に必要である。幾多幾千の写真はあっても時代を越えて残っていくのはこういう作品だけだろう。

マイケル・ケンナの作品
 
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Landscape Photography - Finding Interesting Compositions in Morning Fog

2017-04-17 22:59:19 | 写真
Landscape Photography - Finding Interesting Compositions in Morning Fog



 偶然いい映像を見つけた。
写真家のビデオなのだが、見てわかるようにすこぶる腕がいい。たぶんプロではないかと思う。

 気に入ったのは写真だけでなく、この人の話方だ。
欧米人(特に英米人)にありがちな押しの強さがなく、非常に穏やかな話し方をする。
僕はこういう人を好む。

 アップしているビデオの数が少ないのが残念だが、この人は自分のブログやインスタグラム(僕もこれについてはよくわからないのだが)なども持っているみたいなので、これからよく見て勉強しようと思う。
 
 自分に残された人生の時間や、体力、そういったものを勘案すると、もうあまり多岐にわたっていろいろなことをやりたくない。
何か一つのことに集中していきたいと思う。
 少し前までは、昔ちょっとやった彫金(ジュエリーづくり)をまたやって、自分が今付き合っている人に自作のジュエリーをあげたいなと思っていたのだが、
どうやらそれをやるだけの「時間」と気力が僕の中にはあまり残っていないような気がして、それはあきらめた。
 むろん、無理して時間を作ればできないこともないが、時間を作ろうとすれば収入が減る。今はそれができないのが現状だ。

 小さいころは自分のおばあさんやおじいさんの年齢がはるかかなたにあるような気がして、自分は永遠に彼らの年にはならないかのように感じていたものだが、今、もう数十年すれば彼らの年に手が届くと云う事を考えると、これからの時間はほんとうに自分が使いたいことに使いたいと思う。
 
 さて、ここ数週間はいろんなことがあった。
ひとことでいって、この世はままならないところだな、という感慨にふけっているところである。

 ゆみとまたドライブをして箱根に行った。
だいたい2年ぶりぐらいのドライブだったので、混んだ東京の道で運転するのは避けて小田原あたりで車を借りようかと思っていたら、家の周りの道がすいていたので、よく考えてみたら祭日だった。

 なので、家の近くでレンタカーを借りて恐る恐る運転した。
あらゆる心配事は杞憂だった。車が走り出して20分もたてば体が運転を思い出して、以前のように安定して運転できた。数時間のドライブ中、一度も他の車からクラクションを鳴らされなかった。
ただ、やはり経験不足がいかんともしがたく、経験豊富なドライバーならしないような失敗もした。

 安定した運転をしてドライブを楽しめたのは楽しめたのだが、終わってみて思ったのは自分には運転は向いてないなと云う事だった。
生活していくには車を運転することが絶対必要な地方都市に住んでいなくてよかったと思う。
 
 毎週のようにカメラ店に行ってカメラを見てくるのだが、いま、Pentax KPというカメラを気に入っている。
なにが気に入っているかと言えば、要は形とシャッター音が気に入っている。ただそれだけである(笑)
 しかしそれが重要なのだ。

 ただ、先ほどあげたビデオを見ているうちに、別のメーカーのカメラなど買っている場合ではなく、買うなら今使っているメーカー(Nikon)の別なレンズだろうと思うようになった。カメラのレンズはメーカーごとに分かれていて、メーカーが違うと使うレンズもそのメーカーのものにしなければならない。
 そんなことをしている経済的な余裕はない…ないのだが、やっぱりほしいなぁ、Pentax KPである(笑)

さて、もう寝ることにしよう。

 
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東京駅

2014-10-12 04:17:47 | 写真



 昨日は友と東京駅の撮影に出かけた。
こんどリニューアルしたこの駅を撮影する番組をBSで見て以来、自分も行ってみたかった。

 この駅は小さいころから親しんでいるが、こうやって遠くから鑑賞するものとしてみたのは初めてだった。
一見するとどこが改装されたのかわからないぐらいなのだが、それだけ忠実に再現を試みたのだろう。

 上野駅がリニューアルされた時は、昔の面影が駅の構内の一部だけを残して、あとは近代的に生まれ変わってしまったのが残念に思っていたのだが、この東京駅はさすがに
気をつけて昔のままを残している。

 なんでも古いものを壊してきたこの国で、こうやって経済発展・効率よりも歴史的文化を残そうという動きが大きくなってきたのはいいことだと思う。
ただ、少し手遅れかもしれないけど…でもBetter late than neverともいうし、せめていま残っているものだけでも後世に伝えていってほしい。

 久しぶりに一眼レフを使ったので、使い方を忘れてしまい、友の指南を受けながらのスタートだった。
やっていくうちに勘が戻ってきて、気持ちがのってきた。

 この建物を見ると、つい40~50年ぐらい前まではちょん髷をつけてサムライが歩いていた農業国家だった国が、一生懸命背伸びをして西洋に追いつこうとしていたころの日本人の
意気ごみみたいなものを感じる。
 場所は忘れたが、東京駅の構内には戦前に、たしかこの駅で原敬首相が右翼の凶弾に倒れたスポットに今でも小さな目印がついているはずだ。

 また、この駅の中にあるステーションホテル(現在も営業している)には、川端康成もよく泊まっていたという。
そんな風に考えると、いかに長い歴史を内包している建物か感じ取れる。

 写真をとっていて思ったのだが、自分はやはり写真をとることが好きなのだと改めて思った。
これを一生続けていこうと思った。そうして、この世を去る前に東京をテーマにした写真集を自費出版しておこうかななどと考えている。
 今、昭和時代の写真が価値を持ち始めているのを見るにつけ、平成の東京の姿というものを残すのも悪くはない。



  

 
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