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尊氏を擁護いたす。

2015-06-25 21:48:54 | 歴史




 皇国史観全盛の明治から昭和初期にかけては、尊氏は後醍醐天皇に逆らったとして国賊扱いされていたようだ。
 南朝が正当か北朝が正当か、長い間論争が繰り返されてきたそうだが、僕に言わせれば、大覚寺統の後醍醐天皇も持明院統の光厳天皇もともに天皇であり、一般家庭で言えば一族の従妹同士が争ったようなものである。
どちらが「正統」でどちらが「異端」かなんてあまり意味がない。

 南朝を正統と決めた明治政府によって勝手に国賊とされた尊氏にとっては迷惑な話であろう。
かれは北朝の光厳上皇の院宣をもらったうえで南朝方の新田義貞を討ち、後醍醐から神器を取り返し光明天皇を即位させている。
 『北朝の光厳上皇から見れば』、自分を退位させた後醍醐に味方している新田義貞や楠正成こそ「国賊」であろう。

 司馬遼太郎も書いているが、南北朝論争というのはようするにイデオロギー論争と同じであり、どちらが正義でどちらが悪かなどという論争そのものに意味はない。
同様に、どちらについた武士が忠臣で、国賊かなどという論争も意味はない。
 南北朝の争いは、武家がきっかけを作ったとはいえ、要するに天皇家内部の権力争いに過ぎない。

 そもそも、鎌倉幕府を倒したのは尊氏と新田義貞を中心とする武士団である。
そこへ現実の軍事的実力を持たず、事実上軍事的にはほとんど何もしていない後醍醐天皇が、さぁ、これからは私の天下だ、君たち武士の恩賞も土地の分配も誰のものか全て私の裁量で決める、などといわれても、討幕のために実際に体を張って戦った武士たちが納得するわけがない。

 尊氏が全国の武士たちの支持をあれほど集めたのは、後醍醐やその取り巻きの公家たちのこの横暴なやり方に対する不満があった。
実際に、建武の親政によって討幕に功があったにもかかわらず、先祖伝来の土地を取り上げられた武士もいたのではないか。
いわば尊氏は大多数の武士たちの気持ちの代弁者だった。


 尊氏が倒そうと思えばいつでも倒せた南朝の存在を許したのも、かれの人間的複雑さ(僕はそれを彼の人間味であり、同時に彼がまだ多分に中世的な時代思潮の中にいたからだと思う、もし信長や家康であればどうしたか、考えれば容易に理解できると思う)の故であり、けっしてニヒリズムなどのためではない。
尊氏に私欲がなかったとは言わない。しかしすくなくとも彼には小さいながらも先祖伝来の土地を鎌倉以来「一所懸命」にまもり、そのために命も惜しまなかった武士たちの気持ちをくみ取るいたわりがあった。

 実際の倒幕に軍事的にはほとんど貢献せず、安全なところにいてただ命令を出していただけの後醍醐が、鎌倉幕府が倒れるやいなや光厳天皇を無理やり退位させ、戦乱で疲弊していた諸国の武士や民たちの苦境もこころみず、豪勢な内裏を作るといいだして多大な税を課し、あげくのはてに不公平な恩賞、土地の再分配などをやりだしたことに、尊氏がいたたまれない思いになっただろうことは容易に想像がつく。

 たとえ戦に敗れても、多くの武士たちが尊氏の周りに集まり、彼を担いで命を張って戦ったのも、そのような尊氏に対する、まさに涙も出んばかりの感謝の念からであったろう。
鎌倉幕府時代、尊氏も彼の一族も、北条氏のわがまま、横暴には苦しめられてきた。彼の祖父は謀反の嫌疑をかけられて、鎌倉幕府によって切腹させられている。
だからこそ、彼には必死に土地を守って生きている武士たちの気持ちを汲むことができた。 
 士は自らを知る者のために死す、ということばがあるが、当時の尊氏のもとに集まってきた武士たちの心境はまさにこれだったのではないか。

 尊氏は、彼を倒そうとした後醍醐天皇を弔うために壮大な天龍寺を造営し、幕府最後の執権であり、祖父を切腹に追い込んだ北条氏一族の北条高時を弔うために宝戒寺を、さらには、彼の前に立ちはだかった新田義貞を弔うために彼の故郷の長楽寺に寺領を寄進している。
さらには、それまでの戦乱でなくなった武士たちを弔うために全国に寺と塔を作らせている。全国に作ったと云う事は、もちろん、敵味方の区別なくと云う事である。
 よくポーズ(偽善)でこういうことをやる歴史上の人物には事欠かないが、これほどのことは単なるポーズでできることではない。
ましてやニヒリストにできることでは絶対ない。

 正直、これほどの暖かい人間味を感じる武将というのは、僕は日本史の中では他にしらない。
くりかえすが、かれがたとえ負けても負けても、次から次と彼を支持する武将たちが現れ、彼に命を預けて戦ったほんとうの理由はここにあるのではないか。
 
 そして「それゆえに」実の弟である直義を毒殺せざるを得なくなった彼の心境を思うと…何か自分のことのように苦しくなるのだ。
僕の目から尊氏を見れば、戦においては相当の戦上手(日本史の中でもたぶん有数だろう)だった、ただし、政治家としては…優しすぎた、と考える。
その「優しさ」が南北朝時代を生み、さらには自分の腹心である高師直と弟の直義の泥沼の争いを生んだ、と言える。

あれ、なんでこんなに必死になって尊氏の擁護をするのだろう…やはり僕の前世は… 
 




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