気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

Are you ready?

2021-03-02 04:59:50 | 日記

 

 

 

 

 特に書くことはない(笑)
という出だしで書き始めるのはこれでたしか2回目だが、本当にたいして書くことはない。でもこうして書いている。

 さて、今ちょうど確定申告の準備で忙しくてほかのことは何もできない。毎年2月を過ぎると気持ちが重くなり、申告が終わるまでそれは続く。
こうして自分で申告して税金を払っていると、国の税金の使い道には神経質になる。とくに今世間を騒がせているオリンピックはまさに我々が日々汗水絞って働いた労働の対価の一部を払って行うわけで、当然気になる。

 サラリーマンの人は給料から天引きなので自分が税金を払っているという意識はもしかしたら希薄かもしれない。だが、毎年申告して振込用紙で税金を払っている人間にとっては、払いながら無駄なことには使わないでくれよ!という意識は強く持っている。
 さてそのオリンピックだが、僕個人の意見を言えばわずか2~3か月で終わってしまう祭典のために、数十兆円もの『われわれが身を粉にして』働いて払った税金が使われることに対しては強い抵抗がある。

 ましてやわが国は日本という統一国家ができて以来最大最悪の財政難の真っただ中にいる。なんでそんなことにとんでもない、それこそほんとにとんでもないスケールのお金を使わなきゃならないの?という疑問がある。
これひとつをみても、この国の政治家に国家というものを運営していく責任感と能力というものが欠如していることの証であろう。

 それから、例の森元首相の失言だが、全文らしきものを人の引用ではあるがそれを読んだ限りでは、あれは差別というよりは「違い」というものを述べたに過ぎないという印象だ。
たとえば、黒人は肌が黒い、というだけでは差別ではない、これは違いを述べただけである。ただ、肌が黒いから〇〇だといってこの〇〇というところにネガティブな言葉を入れた場合、それはそこで初めて差別になる。

 森氏の発言はその引用を読んだ限りではあくまで違いを述べたに過ぎない発言だったと僕は思う。
ただその言葉の裏側に差別意識が潜んでいた可能性は潜在的にはあるかもしれない、が、それがあるかどうかはあの文章を読んだ限りでは第三者にははっきりとはわからない。
さっきの例でいえば、黒人は肌が黒くて夜はよくわからない、交通の安全上危険なので黒人の人が夜間歩くときは光が反射する服を着てほしい、といったのと同じ程度だろうか。

 これは厳密には差別ではない。だが、そのような言葉は黒人の人々の感情を傷つける可能性があるということは大概の人は言う前に気づいて発言を控えるだろう。
ここに差別意識があるかどうかというのはあくまでもその発言をした人にしかわからない。差別していると主張するのは、ほかの人がその発言を聞いて差別していると解釈している、ということにすぎない。

 ただやはり、たとえ差別意識が無かったとしても、その言葉が差別と受け取られる潜在的な可能性があるということを自覚せずポロっといってしまうところに森さんらしさがある。
もっというなら、それを察知できないところに彼の人柄、人格というものが顕れているということではないだろうか。

 しかしだ、我々は森さんだけを非難する資格はあるのだろうか。
彼と同じような考え(もし彼に差別意識があったとして)を持っている人々は案外、というか、かなり多いのではないか。特に日本は文化的にそういう価値観を共有しているしている人が多数派であろうと僕は思う。

 オリンピックというのはいうまでもなく、多民族多文化の人々が世界中から集まって行う祭典である。
太古の昔から同じような顔、肌の色、風俗習慣をもつ人同士が暮らしてきたこの国で生きてきた我々日本人の伝統的価値観は、はたしてオリンピック精神と価値観を共有できるのだろうか?
 人類史上最速のスピードで進むこの国の少子化、それによる社会保障の超深刻な空洞化、労働者の不足、そういった問題にたいしていまだに移民の導入に及び腰のこの国の政府、官僚、そして我々日本人は、そもそも多文化多民族社会という価値観を持つオリンピック精神と手を取り合って共立共存できるのか。

 森氏だけを袋叩きにしてすむ話ではないだろう。
人種や性、異文化だけではない、LGBTという性的少数者にたいする社会的な寛容度はどうなのか?
選択的夫婦別姓という問題に対して、『女性の側から』反対の声が上がっているというこの国の(少なくとも僕には)わけのわからない状況はどうやって理解したらいいのか?
 日本はほぼ間違いなくこれから多民族、多人種社会的な方向に嫌でも移行していかざるを得ない。森氏をたたいているわれわれにはたしてその準備はできているのだろうか?

 異なるもの、意見、価値観というものに対する寛容性が低いこの社会に住むわれわれにとって、それはとてもチャレンジング(大きな挑戦であり試練)になるだろうと思う。

 

 

コメント
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