KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

The soul in Heaven

2006-10-31 | KOFUKU日記
今日はハロウィン、万聖節の前夜祭。
私は特定の宗教を持たないけれど、キリスト教にはとてもご縁がある。
なんてったって、なんちゃって「宣教師」なんてのもやった事があるくらいだし(笑)
まあ、たぶん他の人よりは各宗教にちょっと詳しいかもしれない。
だからそれらの話を聞くのが好きで、家を訪ねてくる人とか良く話をします。
大体それらを否定しようにも、内容も知らず物を言うのは失礼だと思うし。
だから出来るだけチャンスがあればいろんな事を聞く事にしています。
さて、わたし自身はどの宗教の中にも真理があり、それらは人のこころを支えていると思っているのです。
いろいろな経験からそれらの不思議と秘密は皆が天に帰るとき一様に明かされて、
人々はそれを難なく心で理解し、そしてさらに学ぶためまたここに帰ってくることも自分なりに実感を持っている。
だから、今何を信じていようと別段心配する事も何もない。
向こうに帰れば、みんな「わかって理解する」のだから。

さて、今日はそのキリスト教のお祭りの前夜祭。
カトリックでは11月は死者の月と呼ばれているそうです。
この一ヶ月の間、亡くなった方たちを思い起こし偲び祈ると聞きました。
明日の11月1日が万聖節(諸聖人の日、すべての聖人の魂を思い起こす日。)
そして11月2日が「死者の日」というそう。
天に帰ったすべての魂を思い起こす日となっています。
皆さんには天に帰られた懐かしい人がいらっしゃいますか?
もしおありならこの二日の日、太陽の光の中に、花の笑顔の中に亡き人の面影を捜し、
月を見上げながら、またちいさなキャンドルを灯しながら、どんな形でもいいのです、
どうぞひととき、天に思いをはせてください。
きっと向こうでたくさんの人々が喜ばれる事と思います。

今日は私の「おばあちゃん」と「おじさん」の話。
わたしのおばあちゃんは「キクさん」と言いました。
私は生きたおばあちゃんに会った事がありません。
私が生まれる前に亡くなってしまったからです。
おばあちゃんの事を聞くとみんな口を揃えたように
「生き仏さまの様な人だった」と言ってくださいます。
わたしのひいおばあちゃんは島津藩の大奥から
最後の島津の人間としてお嫁さんに出た人です。
ひいおばあちゃんはなくなるその時まで「武家の女」だったと聞きます。
その娘のキクちゃんは本当に明るく朗らかで
手仕事と歌の大好きな女性だったのだそうです。
若いときは女学校のお裁縫の先生でした。
そして、とてもとても強い霊能力を持っていたのだそうです。
何を見ても驚かず「何を怖がる事があるね。」と笑っていたそうです。
ある日おじさんが神社におまいりに行ってその跡にいきなり
腹痛に襲われたんだそうです。それはかなりの激痛で。
おばあちゃんはそのおじさんを見ると、
「ああ、神さまが一緒においでになってるよ。
怒ってらっしゃるけど、兄さんは何をしたの?」言いました。
おじさんは神社の山を下りたところでどうしても我慢できず
おしっこをしてしまったんだそうです。
「神さまがおっしゃるにはそこを丁度通るときで
お召し物にかかったんだって、それで怒ってるのよ。
大体、神山でそういうことしたら駄目でしょう?」
そういって手を合わせ、おばあちゃんが神さまに向かって
お詫びをすると、見る見るうちに治ってしまったとか。
面白い人でいつもお洗濯しながらヨーデルを歌い、
映画も大好きで映画館で声を上げて応援をしていたそうです。
人を笑わすことがとっても好きだったって。
決して人の悪口を言わず、常に人の心に魂を傾け、
なにかあれば、身を削ってでも助けようとする人だった。
常に神さま仏様に手をあわせ、さまよう魂にも優しかった。
どんなに苦しくても笑顔を忘れず、いつも何か工夫をしては
子供たちを喜ばせてくれたのだと母が言っていました。
(ここはわたしの母と全く同じです^^)

そんなおばあちゃんは、戦時中に赤ちゃん(おじさん)を産みました。
赤ちゃんが生まれた日は集中豪雨のあった日ですごい雨だったそうです。
次の日、そこに空襲警報がなりました。
産後調子が良くなかったおばあちゃんは、もう死んでもいいから
ここに居たいと訴えたそうですが無理やり防空壕に連れて行かれました。
防空壕は前の日の雨で腰まで水がたまっていたそうです。
おばあちゃんは生まれたばかりの赤ちゃんを守らなくてはと
赤ちゃんを抱いてそこに一晩立ちつづけました。
おばあちゃんは、その水につかっていたために
産後の傷からばい菌が入り、下半身が不自由になりました。
けれどもおばあちゃんは元気を失う事はありませんでした。
年と共に麻痺はひどくなり、動けなくなっていったそうですが
それでも出来る事をせっせとしていたそうです。
お金に少しでも余裕が出来ると、おかずをたくさん作っては
「ああ、たくさん作りすぎちゃった。もったいないから」
と言って、戦後の食べられなかった人々の所に届けたり、
お洋服や帽子やショールなんかを買ってあげても、
苦労している納豆売りや新聞配達の子などに上げてしまうんだそうです。
それもワザワザ水溜りのうえに落として汚したり、転んで少し傷をつけたりして。
「せっかく買ってもらったのにこれじゃあ使えないわね。
品がいいから、だれだれちゃんに使ってもらいましょう」
そういって丁寧に洗って、時にはあげる人の名前なんか縫い取りしたりして、
さしあげるときにはそれはそれは嬉しそうだったと言っていました。
たぶん、私も持ってるものを欲しいといわれるとすぐあげちゃうんですが
(欲しい人のところに行くのが、物も一番喜ぶと思うから)
これはおばあちゃんに似てるんですね~、きっと。

こんなキクおばあちゃんは本当に人に好かれて、
いろんな人が毎日毎日いらしてはおばあちゃんと話をしていたと聞きました。

自分の身体と引き換えに自分の命を守ってもらったおじは
おばあちゃんが大好きで大好きでとても親孝行だったそうです。
高校を卒業し初めてお給料が入ったときには
おばあちゃんを座布団引いた自転車に乗せて、
早朝からおすし屋さんに連れて言ったとか。
早すぎて食べたのは結局いなり寿司とかっぱ巻きだったそうですが(笑)
それでもおばあちゃんは涙を流して喜んで
「こんな美味しいおすしは食べた事がない、
こんな優しい子供を頂いてよかったと」手を合わせたといいます。

おばあちゃんは50歳になったある日、突然死で亡くなりました。
朝ごはんを食べようとみんなで食卓について、
母がお味噌汁を渡そうとしたら、机にパタンと伏せたんだそうです。
いつもみたいに、また冗談をしてるのかな?と
「冗談しても駄目よ」と笑って声をかけたらもう息がなかったとか。
「信じられなくてね、生き返るかもと思って一晩抱いて一緒に寝たのよ、
でも生き返らなかったの」
って母が言っていました。
お葬式はそれはそれはすごい人で、その頃は二階建ての家に住んでいましたが
人が入リきらず、隣のお家を貸してもらって二軒でお葬式をしたそうです。

あるとき、家に一人のおばあちゃんが尋ねて来ました。
そのおばあちゃんはうちのおばあちゃんに助けてもらった事があるそうです。
「お線香を上げさせてください」って遠くからいらっしゃいました。
その時の言葉が忘れられません。
「キクさん、あんたはあんなに親戚にいじめられて
騙されて財産も取られてどれだけ苦労してきたね、
一回でいいからあの人たちに化けて出てやればいいのよ。
でもねえ、キクさんだからね、そんなことは絶対しないわねえ」
私は小さかったけどこれを聞いてとても嬉しく思いました。

生きたおばあちゃんに会ったことがない、と書きました。
そう、私はおばあちゃんに会った事があるのですよ。
4歳のときです。
おばあちゃんには親友で「お亀さん」と言うおばあちゃんが居ました。
その人は南九州で一番古い大きな神社「開聞神社」(ひらききじんじゃ)
の一番の霊能力のある巫女さんであられました。
そこに交通安全のお払いをしにいったとき、
ご神殿のなかでそのおばあちゃんにお会いしたのです。
お亀おばあちゃんは「キクさんが来ているよ。会うね?」
と言っていわゆる「霊媒交信」というものをやってくれました。
おばあちゃんが手を合わせて祈ると、何かが降りてくるのが感じられ
そのおばあちゃんが目を開けたとき、それは違う人のものでした。
口を開くと声も違います。
「おかあさん!」そういって母は涙を流しました。
「まあ、和ちゃん、よく会いに来てくれたねえ。
この子がレイちゃんね?和ちゃんに似て、なんて可愛いかね!
レイちゃん、こんにちわ。おばあちゃんよ。」
「おばあちゃん?おばあちゃん、いつもどこにいるの?」
「あのね、レイちゃん。おばあちゃんはね、神さまのところに居るのよ。」
「神さまのとこ?それはどこね?」
「お空を見るとお日様がキラキラしてるでしょう?
そこの光の中にお国があっとよ。
まぶしいからね、人には見がならんのよ。」
「ふうん、おばあちゃんはそこでなにをしよっと?」
「あのね、レイちゃんのお家はね、ずーっとお侍さんじゃったと。
それからね、いろいろな事がいっぱいあってね、
人と喧嘩をして、怪我させたり、そのつもりはなくてもね、
人に悲しい思いをさせたりしているのよ。
そういう人の中にはね、まだ神さまのお国にこれなくて
困っている人も居るんだよ。
そういう人が助けてくださいって言ってあんた達の所に行く事もあるの。
じゃっけど、見えん人にはなんもしてあげられんでしょう?
だからね、おばあちゃんはいつもこうして(手を合わせて)お祈りをしているのよ。」
「お祈りしたらその人たち助かるの?」
「そうよ、レイちゃんが幸せになりますように、困ってる人が助かりますように、って
本当にお祈りしたら神さまは聞いてくれるんだよ。」
「神さまは一人しか居ないのにみんなが話しても聞こえるの?」
「そうよ、一辺に全部分かるのよ。
だからね、レイちゃんのことも聞いてくれるから困ったらお話しなさい。
そしてね、自分のためだけじゃなくて困ってる人の事も助けてくださいってお祈りしてね。
おばあちゃんもレイちゃんやみんなの為に毎日こうして(手を合わせ)祈ってるからね。」
そう私たちは話をしました。
それ以来祈りというのは私にとって特別なものなのです。
こうして私は天に居る人が生きている事を知りました。

こういう風に見えない世界とつながっている。
それは私を支えている一つの力でもあるのでした。
見えないつながり、天に帰った人とも、そしてここに居る人たちとの。
最近、そんな事を深く考える経験が続いています。
今週はそのことに触れてみたいと思います。
さて続きはまた後で書きましょう。

なくなった魂たちの為に。

<死者のための絶えざる御助けの聖母への祈り~カトリックの祈りから>

「絶えざる御助けの聖母よ、この世を去って主の御許に召された、
わが祖父母、両親、兄弟、親戚、恩人、友人のためにお祈り下さい。
主の御許に召された者の上に、主のあわれみが与えられますように。
私達の臨終の時にも、主においてこの世を去る事ができますように、
私を思いだし、私のためにお祈り下さい。 アーメン。」

<死者のための祈りⅡ>

「あなたのもとに召された私達の家族、友人をあなたの国に迎え、
栄光に与る喜びを御与え下さい。主よ、私達の祈りを聴き容れて下さい。

不慮の死を迎えた人々を顧みて下さい。その罪を赦し、家族の悲しみをやわらげ、
へりくだる者に約束された慰めを御与え下さい。主よ、私達の祈りを聴き容れて下さい。

あなたのもとに召された全ての人が、キリストの贖いに与り、
永遠の喜びに入る事が出来ますように。
主よ、私達の祈りを聴き容れて下さい。」

天国に居る人たちといつも愛を交わす事が出来ますように。

追伸:今日付けで晴れてお仕事を引退(笑)
どこやらの引退選手のごとく、これからいろいろ気をつけて
わが道を歩みますです(^^)

TE A TE

2006-10-28 | KOFUKU日記
ブログを読み返すたびに想う。ホント偉そうなことかいてるな~(笑)
わたしはものを書くとき、ほとんど書き直しや見直しをしない。
自動書記のように思いつくままに、手の動くままに書く。
そのまま、こころのままの文章が載っているわけだけど…。

皆さんにはかなりどーでもいいことなんだけど、
わたしってやつはかなり駄目駄目ちゃんです(^。^;)
以前「厳しい愛」と「優しい愛」があるって書いた。
今日は厳しい愛について書こうと思う。(なんだそれ?って感じだけど)
根性なしの私が実はメンタルな問題を抱えてまして~というと、
心優しい周りの人は「繊細なのね」と言ってくださる。
うん、そうなの繊細なの(そう思いたい・笑)
そうとも言えるが、それ以上に根性なしとも言えるかも(苦笑)
その根性なしの私はいままでいろんな人に助けられてきた。
人生を振り返ると自分ながら「ハードだ。ハードすぎる…」と
今は笑ってしまう位、小説や漫画ばりのすごさだったりする。
ある日、シェアメイトにその一辺を語った事があったが
彼は「ちょっと待って。飲まずには平静に聞けない」といって
目の前で6,7本のビールを空けた(笑)
その彼は先日、彼のブログで昨今の児童虐待などに思いをはせ、
わたしのコメントに「あなたはいわば生き残り。生かされている」と書いてくれた。
その私が今までどういう人生送ってきたかは一言では語れない。
みんなそうだと思うがかなり壮大なドラマである。
(とりあえずうつくしい感じで、ね?^。^;)

親はいたが、いないのと同じだった。
これまで私が助けなくてはならないことはあっても、
彼らが私を助けてくれたことはないし、
まあ、助けたくても助けられるような状況ではなかった、ということだろう。
reraさんのことばを借りるなら、生きていくには不器用な父と
その父を心底愛した母だったので、私たちの事まで手が回らなかったんだと思う。
しかし、善いこともあった。そういう母だったので、それだけ父が悪くても
愛した父の悪口なるものを私は一度も母から聞いた事がない。
「お父さんがいてくれるから生きていけてるのよ」
(お母さんはそうだろうね。あたし達は生きていけてなかったけど)
そういって母は優しい目で愛した父を見ていた。

私はいわゆる「虐待」を受けた子供だ。
誰からとははっきり言えないが、間違いなく大人から。
暴力から、精神的、性的なことまですべて網羅している。
それもかなり「ハード」な部類だ。
このまま死ぬんだ、そう思ったことも何度もあった。
われながらよく生きてたなと思う。
昔、一番親しかった友達が言った。
「ねえ、なんで死なないの?あたしだったら死んでる」

私は特殊な子供だった。霊的な感覚が生まれながらにあり、
環境がそれを更に増長させたんだろう。
生まれる前からの記憶があり、いきなり変な事を言い出す。
明らかに私の周りで不思議な現象が起きる。
神も仏も信じない私の父は私をどこか恐れていた。
ただ、素晴らしい霊能力を持ったおばあちゃんと
弟を持つ母はそれを難なく理解してくれた。救いだった。
今は天国に帰ったソウルメイトはそのころ私の守護霊様で
その彼から文字やいろんな事を習い3歳で本を理解した。
今はすっかりおばかさんだが、6歳のときのIQ測定は189だった。
4,5歳時の愛読書はLIFE社の精神学と細胞学の本。
理由はきれいだったから、だったんだけど。
ある大学のモデルケースみたいなのに選ばれて、
まいにち知能テストみたいなのをやらされてた。
周りの人とはコミュニケーションの取れない変わった子供だったのだ。
そのうえ、異常に小さかった。中学までは130センチ位しかなく
学校でたぶん一番小さかった(今は150センチで普通だけど)
けれど目だけはらんらんとしてて大人みたいだったと人は言う。
隔世遺伝で外国の血が混じってるせいか、
髪の毛は腰まである長い巻き毛で目鼻立ちははっきりしていた。
どういうわけか目立つ子供だった私は幼い頃から
いわゆる「性虐」と言う目にあっていた。
大人はそういうものだと信じて疑わなかった。
環境が苛酷になるにつれ、それも過激さを増していった。
すごいものだ、大人はそういう事を秘密裏に難なくやってのける。
少女になる頃には「痛い」という感覚とか「ことば」や「人とのかかわり」を失っていた。
そういう虐待を受けるときしか痛みが分からないのだ。
普段は痛みに対して感覚を持たなくなった。
「痛み」ってすごい。本当に痛いと「真っ白」になる。
何も分からなくなって、ただ恐怖だけに支配される。
してはいけないとかこれはいけないとか考える暇はない。
まるで人形。ただしろーい世界で支配だけがある。
けれど後から思うのだ。私はなんてことしてるんだろうか?って。
そしてそれは大きな罪悪感になって残る。
それらは今、わたしの病気を作っている。

「まるで標本箱の虫みたい。虫ピンで生きたまま刺されて、
薬打たれて、そのうち中からしんじゃうんだ」

わたしはずっとそう思ってた。
どんなに呼んでも誰も助けてくれなかったから、
助けを求めることばは出なくなった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。許してください。」
声を出していう言葉はそれだけだった気がする。
そして人間に関われなくなった。人はただただ怖い存在だった。
環境から大人からも子供からもひどい差別やいじめを受けた。
学校では先生が率先してそういう状況を作り出した。
そして影で私を虐待する大人と同じ行動に出た。
「いいか、お前が誘ったんだよ。そういう事をするなんていけない子だ。
可哀想になぁ、お前もあんな家に生まれなきゃ苦労しなかったろうに」
ある教師が理科室の奥に私を連れ込んで言った言葉。
こういったことに私は子供でどうするすべも持たなかった。
なんせ家族は誰も私を助けてくれる事はできないのだから。
私が家族を守っていくしかないのだ。
大人はそんな私に上手に罪悪感を植えつけた。
それは見えない鎖になって、そういう大人たち以外に
それを話すことを出来なくしてしまった。
私は誰にもその事を言えなかった。
その結果、結局何をしても私が悪いからだ、私は本当にそう思ってた。
ある人がこういった。「なんで逃げなかったの?」
けれどどこにもいけない、そこしかいられない。
なぜか?そこにしか自分の居場所がなかったからだ。
嫌じゃなかったわけじゃない、それは苦しくて辛かったんだと思う。
その時はもう何が何だか分かってなかったけど。
こうやってPTSDの発作が出るようになって私はそれを再度体験している。
それは恐ろしく怖い。深い闇にいて抜けられない。
そのようにその時はそこにしかいる場所がなかったのだ。
苦しい事をされているとき、痛みを与えられているとき、
それはそこに誰かがいるということだった。
その時だけ私を見ている誰かがいる。
ペット以下の扱いだったけど苦しさを我慢すれば
優しくしてもらえるときもあった。ほんの一瞬だったかも知れないけど。
そんな壮絶な状況でもたぶん、独りよりは良かったんだろう。
私はいつも独りぼっちだったから。
それに痛い思いをするのは自分のしてる事に罰を与えられていて
それで自分が許されるようで安心したのだ。
実際、いろんな罪を作られては罰だといって与えられたのだけれど。
恐怖と安心はセットだった。それは長く、長く続いた。
そういう風に育って、私はかなり重度の自閉症的な状況にあった。
18になる頃には本当に見たいものしか目に見えず、
目の前でコップが割れても、聞きたくなければ音も聞こえなかった。
人はガラスの向こうの世界で動いていた。
一日に3言くらいはなしたらすごいことだった。
笑う事なんてたぶん全くなかったと思う。
その頃は独りが当たり前と思っていたので、
今みたいに淋しい怖さは良く分からなかったかもしれない。

けれどそんな私でも神さまは私を見捨てなかった。
幼い頃はおじいちゃんとおじちゃんが生活を助けてくれていた。
一親等の家族や親戚はみんなだれも助けてくれなかったが、
それからも血はつながらないけど「家族」と言える人たちが助けてくれた。
神さまは血のつながらない家族をその時々で与えてくれたのだった。
亡くなったソウルメイトもそうだった。
彼は私が養子縁組をして本当の家族になる1週間前になくなってしまったけれど。
現状況を簡単に言うならば、現在は天蓋孤独。独りだ。
え?お兄さんは?いるじゃない?と思われるだろう。
私には「一親等」の家族はもういない。
兄達は血はつながっているが実際は「親戚」に当たる人たちだ。
いろいろ事情があって私を助けてくれる「親族」は全くいないのだが、
それをこっそりこっそりと彼らが助けてくれているわけである。
彼らと家族だといってくれる仲間達が今わたしを支えてくれている。
私にとっては血よりも濃い存在なのだ。
これだけの状況を抱えてるから、私は独りで家も借りる事ができないし、
法的にいろいろな問題が山積みだったりするのだが、
愛ある家族のおかげでこうやってまだ生きていられる。
私にとってはこれを読んでいるあなたも私のファミリーの一人。

そんなわたしのもっとも近しい存在は一緒に住む兄だ。
先だっての記事のコメント欄にも書いたけど、
そんなうちのお兄ちゃんは自分にも私にもシビアであられるので(笑)
そういった根性のない私の弱さを剛速球で言い当てる。
わたしのメンタル疾患なんて何のそのって感じだ。
たぶん、そういうこと気にしていたら、
こういう状況の人間とは一緒には暮らせないんだろう。
何せ相手は常に爆弾を抱えて動いてるわけだから。
メンタルの病状というものは「不可抗力」のなせる業が多い。
わたしの抱えているPTSD(心的外傷後ストレス障害)というのは
過去のトラウマによる発作的な恐怖症状が起きる。
そのきっかけをトリガー(引き金)というのだが、
これがまた、特定できるかって言うとそうでもないのだ。
何がきっかけとなって、何を思い出し、恐怖に陥るかは時の神様しか知らない。
昨日もそうだった。
昨日は前々から芝居を見に行く約束をしていた。
今のところ私は独りではまだ電車に乗れない。
電車に乗る、と言う恐怖を克服していないからだ。
何が怖いって、人が怖いのだ。人のもっている波動が怖い。
イライラや怒りをもっている人がいると恐怖感から発作が起きる。
動悸が高まり、不整脈になって、過呼吸症状が出たりする。
それで、一番大好きなお芝居に一人で触れることができない。
劇場や稽古場に一人では入れない、近寄れないのだ。
「俳優さんなのに?」ときっと想われるだろう。
ある人は言った「本当は好きじゃないからそうなるんじゃないの?」
違う。死ぬほど好きだからそうなるのだ。
なんでそうなるかはソウルメイトがなくなったのが劇場だったから。
その死に直面したのが私だった。私は彼を助けてあげられず失ってしまった。
自分が生きていける、大好きなたった一つの場所で。
それがフラッシュバックする。するともう駄目だ。
そんな環境の中で、やっと人がいればそういうところにいけるようになった。
ところが、根性なしの私はすぐにくじける。恐怖感に負けてしまう。
今日は直前まで出かけるつもりだったのに
ある一言がきっかけで恐怖感が募りどうしても出かけられなかった。
そういう時、兄ちゃんはどうするか?
にいちゃんは自分の心のままに行動する。
兄ちゃんはわたしの病状がどういうものであるか知っている。
けれど時には怒るし、叱られるときもある。別に特別扱いはない。
(彼の中にはあるんだと思うけど)
そういう時私はたいがいどうしていいか訳わかんなくなって泣く。
私はなついてる人にはかなりわがままで甘えん坊だ。
でもそうなると自分が悪いので、そうだから置いてってという。
お兄ちゃんは「本当にいいんだな?置いてくぞ」と言って本当に出て行く。
私はぽつんとひとりになって落ち着くのを待つ。
夜中に突然そういう風に発作になる時もある。
そういう時は一人でキッチンの横のサロンに逃げる。
基本的に人に迷惑をかけるのは嫌なのだ。
でもどうしようもなく独り泣いたり、襲い来る恐怖に震えている。
大体お兄ちゃんは途中一度様子を観に来る。
でもたいがい私が
「やだ、お兄ちゃんなんかどうせ助けてくんないもん。あっち行って。」
と横暴な態度で泣いてわめくので、その後は彼は何も言わず
同じサロンのソファに黙って座り、煙草をふかすか、お酒を飲んでいる。
で、さんざん泣いたり、怖がったりして、恐怖が少し薄れ
私が少し落ち着いてくると、黙って前に立ち声をかける。
(本当に極度のフラッシュバックをしたらそうは行かないが^^;、
兄貴の苦労いかばかりである。感謝してます、はい。)
私は大体「怖い、怖い」と泣いているので、
お兄ちゃんは私を立たせ真っ直ぐに目を見て言う。
「何が?何が怖い。今怖いもの言ってみな。」
言えるときもあれば、いえないときもある。
「一つだけな。今、お前の前にその怖いものはないよ」
兄ちゃんは必ず静かにそういう。
私は周りを見回し、そうか、怖いのは自分の心だ。そう思う。
そうしてじーっとかんがえる。そうすると怖いものは去って行く。
息が静かになって、涙が止まる。
それから兄ちゃんにこっそりごめんなさいを言う。
兄ちゃんはたいがい「ん」と一言答えるだけ。
「兄ちゃん、HUG」というと兄ちゃんは黙っているので勝手にHUGする。
私は常日頃HUG魔なんだけど、硬派のお兄ちゃんは
手を回してきたりなんかしない。大体勝手にしろって感じだ。
これはわたしのお兄ちゃんたちに共通している。
だけれど、こういう時、兄ちゃんは抱きしめるでもなく
背中や頭にそっと手を置いてくれる。
何もいわないがそこからいろんな想いが伝わってくる。
兄ちゃんもいろいろな経験をした人だ。
自分の人生を覚悟と目的をしっかりもって一人で生きてきた。
厳しい環境で独り生き抜いてきたタイプだ。
私みたいに結局みんなに守られてきたのとは違う。
だから彼は知っているのだ。
わたしの持っている痛みを、自分が代わってやれない事を。
だから、優しくすることじゃなく、痛みを感じさせて、
それをしる事でそれを越えさせようとするんだろう。
ただそういう厳しい環境にいた彼は人の手が必要なことも知っている。
だから、厳しいけれど決して見捨てるような事をしない。
そしてお兄ちゃんは手早く荒く、くしゃっと頭をなでる。
けどその手はとても慈愛に満ちている。まるでお母さんみたいだ。
たぶんこういうのを「マザーズ・タッチ~手当て」と言うのだろう。
そして手をはなし穏やかな声で「もう寝なよ」というのだ。
病気がひどかったとき、こういうことはしょっちゅうだった。
夜中に2時間も3時間も付き合うのである。
兄ちゃんはさぞかし大変で心労もあったろうと思う。
けれど兄ちゃんは何もいわずに近くに居てくれた。
「お前がここに生まれて、今こうやって生きているってことだけは
本当なんだからそれでいいんだよ。」
わたしの過去と環境を現実を兄ちゃんはスパンとこういってくれる。
お兄ちゃんは私にとって、家族全部なのだろうな、きっと。
誰より怖くて、誰より怖くない存在。
私にとっては神さまに近しい存在だ。
神さまと兄ちゃんは、私を許してくれる事が出来る。
たぶん、そういうのが本当の家族なのかもしれない。
お父さんとかお母さんとかそういうものなんだろうなと想像する。
そういう日々があって家族というのは本当にありがたいものだと
家族をなくし、新しい家族を得てわたしは知った。

こういう特異な環境で育ったので、私はHUG魔で人懐こいが
実は人恐怖症で特定の人にしか触れられなかったりする。
特に大人の男の人と怖い女の人が苦手なのだ。
シェアメイトだったSORA君は整体師さんでよくマッサージをしてくれたが、
そんな信頼する人でもリラックスを得るまで2年かかった。
でも、その二年がとても大切なんだなあって思う。
癒してあげたいという彼の愛が良く分かったので
それが出来るようになったのだと思う。
おかげで彼に対する恐れは全くなくなった。
彼もきっと本当の「手当て」が出来る人になるだろう。

人が示す愛の形には本当にいろんな形があるのだ。
優しい愛も厳しい愛も「愛」
それを受けてわたしのたましいは愛に満たされていく。
たぶん、そうして少しづつ古い恐れを手放していくのだろう。
そのためにいろんな愛の形をちゃんと愛だと受け取れるように
少しづつ少しづつでいいから成長してゆきたい。
自分の恐れを溶かして、光にかえてゆく。
そしていつか私も本当の手当てが出来る人になりたい。
そうこころから思うのです。

一本の木のように

2006-10-27 | KOFUKU日記
わたしは俳優です。
以前はとても有名な劇団にいて、思うところあってほかの劇団に移籍し、
そこでも恵まれて主演なんかいっぱいさせてもらって、結構お金ももらってました。
けれどわたしは今はそういう舞台に出ていません。
人は言います。「もったいない」
「お金にもならない状況でいて意味あるの」
でも、わたしはそれでいいと思っています。

わたしは物心ついたときから「俳優」になると思っていました。
どういうわけかそれが使命だと感じたからです。
これしか出来ないなあ、とやる前から思っていました。
全然それが叶わない環境だったんだけど、
使命がそれなのでやっぱりその職業になりました(^^)
これは、本当の話です。

わたしは死ぬほどお芝居が好きです。
昔、お芝居って何なのかよく分かりませんでした。
一言で言うと「演劇」演じる事が好きなんだ~。
お芝居って演じることなんだ~って思ってました。
じゃあ、演じるって何よ?って言ったら
みんなは「演技」嘘をつくことと言うのです。
「へ?」
わたしにはその感覚はありませんでした。最初から。
わたしにとって演劇は「真実」の生まれるところです。
お芝居は真実を創るものだと思っていました。
ところが「それじゃあ演技じゃないじゃないか」と言われるのです。
そんな事があって、自分の出ているお芝居を外から観ていたらなんか違う…。
そう、みんなが本当にお芝居をしたいのか分からない舞台だったのです。
わたしは舞台に上がるとその人になってしまうのでそれに気が付きませんでした。
でも、離れたところから見たら、そういう人ばかりだったのです。
商業演劇に出る人がみんなそうだとはいいません。
けれど、好きではじめたことがいつしか仕事になり
仕事は食べていくことになり、そしてそれはもっと貪欲になっていき
俳優として生きていくことは名声と富を得ることに変わってゆく。
そういう風にわたしの目とこころにうつりました。
「別にいいの。芝居なんか出来なくたって。
あたしはあたしのダンスだけ見てもらえれば」
一緒に出ていた著名なダンサー出身のミュージカル俳優さんがいった言葉。
じゃあ、芝居のある舞台に出ないでよ。。。お客様はあなたのお芝居にお金払うのよ。
「客なんて何見たって同じだよ。うちの作品に出てれば一流だって思うんだから」
。。。。。悲しい。悲しい。かなしいよ。
わたしはそう思いました。
そうしているうちにわたしは舞台に出るのが苦しくなった。
お客様が幕間で涙を拭いていらっしゃる。
何見たって客は芝居なんかわかんない、そういった俳優の芝居で。
芝居なんかどうでもいい、あたしのダンスだけよければ、
そういった俳優のダンスに。
そうして私は気が付いた、足りなかったものに。それは何か?
それは「愛」でした。
お芝居って愛なんだ。そう気が付いたのです。
少なくともわたしはずーっとそう思っていたんだ、そう気が付きました。
愛のないものでお金取っちゃいけない。だってお金は愛だもん、命だよ、そう思った。
人は生きるために一生懸命働きます。
そしてその働いたお金で一時夢を見にいらっしゃる。
舞台という真実を生み出す場にいらっしゃる。
それをこういう偽っている場所で、
お客様を軽んじている場所でもらったら詐欺じゃん!
そう思いました。
それでわたしは大きな舞台に立つのをやめました。
そこに大きな価値を見出せなかったからです。

それからわたしは愛あるたましいの仲間たちと旅をしました。
車でいろんな場所をお芝居をしてまわる旅です。
わたし達は自分達のギャラを全部使って交通費を出し合い
とても車がいけないような山の村や海の村に出向いて行きました。
お芝居を全く見たことのない人々に会いに行きました。
劇場は学校だったり、公民館だったり、大きなうちの広間のときもありました。
お金を月に50万も60万ももらってた時と違って
ギャラは安かったし、全部のお金をそうやって使っていたから
お金はほとんどありませんでした。
貧乏で貧乏で、みんなでパックご飯とシーチキンを分け合って食べてた。
それでも、大きな劇団が1万円のチケット代を取るのなら
わたし達はそれと同じだけ払ってもいいといわれるお芝居をしていこう。
演じる場所も金額も小さいけれどそんなことは関係なかった。
一回一回丁寧に丁寧にお芝居をしました。
愛を持って。愛だけの存在になって。
するとお客様が愛をかえしてくれるのです。涙で、拍手で、笑顔で。
その時思いました。わたし達は一本の木みたいだなあ、って。
木は太陽や雨や大地からいろいろな力をもらって大きくなります。
芽吹き、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をつけます。
そして大地に落ちて、その葉や実や種は外にあるものを喜ばせ、肥やします。
わたし達俳優が舞台に立つとき、少なくともわたしは
お客様に向かって祈りをもって芝居をします。
その一時をどうぞ喜んでもらえますようにと。
そして祈りのままに舞台に立ち、真実の瞬間を生きます。
見てくださるお客様の生命を感じながら。
お客様は一緒に舞台を旅してくれます。
そして何かを感じてくださるのでしょう。
そして何かを感じたお客様の息吹はわたし達に力をくれます。
それは廻るのです。わたし達の間を。
そして大きく育ちます。まるで一本の木が育つように。
そこに流れるものは愛だとわたしは思っているのです。
いや、間違いなくそうだとわたしは知っています。
なぜなら、わたしがお芝居を観るとき与えられたものは愛だったから。
わたしが演じたとき、そこにあったものは愛だったから。

そして時がたち、もう一つわたしはわかりました。
これは「お芝居に限らない」ということを。
すべては「一本の木のように廻っている」と言うことを。
そして廻っているものは「愛」であると言う事を。
どこにもその関係が存在すると言うことを。

だからわたしは愛を語るのです。
迷わずにそうしようと決めました。
愛のあるところに真実があるのだという事を知ったから。

わたしの仕事は俳優です。
俳優は真実を創ります。
真実は愛です。
わたしは愛を作り続けましょう。
一本の木のように。
みんなの愛とつながって。

LOVE & PEACE FOEVER

2006-10-25 | KOFUKU日記
HUGの記事にsora君がコメントをくれました。
soraくんはわたしのファミリーで親友。
もし(ありえないけど)彼の家族が彼を捨てたとしても
世界中が彼を忘れたとしても、彼が私を忘れたとしても
私は彼を忘れないだろう。それを私は自信を持って言える。
彼はたましいのファミリー、親友。
私にはそういう人が何人かいます。
人に話すと「ありえない」と言うが私が言うんだから「ありえる」(笑)
「愛」は偉大なのよ。

「そういう欧米化は歓迎」

そう彼が書き込んでくれたので、すこし書いてみたくなったのでありました。

soraくんに初めて会った日、私は鹿児島から東京で乗り継いで北海道に行きました。
温度差が20度近くあった事を思い出します。
千歳空港は9月10日17℃でした。soraくんはとても大人に見えました。
あの日の写真が今でもあります。真理ちゃんがぴーちゃんを抱いて笑っています。
私は笑顔の彼と握手を、親友の真理ちゃんとHUGしました。

私はアメリカもヨーロッパも好きです。
最近、いろんなところで国を名指ししていろいろ言ってるけど。
あたしは単純に好きです。政治がどうとか体制がどうとかじゃなく。
そこに住むひとりひとりにフォーカスして思います。
あたしを愛してくれた人を育んだ国、
優しい人たちの住む国、
いろんな国に夢と希望を感じさせてくれた国々、
彼らとその国をたくさんの感謝をもって見ています。
私もネイティヴもアボリジニもアイヌの友達もいるけど
私の知っている人は誰も国や人を責める言葉なんか言わなかったの。
みんなは教えてくれた。いつも差別されていじめられてた私に。

「私たちの歴史には悲しみが在る。
けれどそれは必要だから神が与えた。
そして、今の世界がこういう風にあるのも
神がなにかを考えているからだ。
しかし、変えてはならないものが一つ在る。
それは私たちがどんな状況になっても「愛し合う」と言うことだ。
Skip,人や国を責めても生まれるのは争いだ。
責めることからは「愛」は生まれない。
神はそれを教えている。神は愛で平和なのだから。
だから私たちはその分「笑おう」
こんなのは間違っていると叫ぶ声で「愛」を語ろう。
反対のプラカードを掲げて見ている人を不穏な気持ちにさせるより、
その手でみんなをHUGしよう。
私たちはみんな“神さまの子”、
神の愛でつくられているのだから」

みんなの使っている言葉は「愛」だったよ。
わたしにはね、その考え方が気持ちよかったんだ。
だから私は「愛」を語りたいと思う。
あなたと同じ、穏やかな優しいものに惹かれます。
お気楽であたたかい愛に惹かれます。
いろんな平和や愛の形があると思う。
みんな信じた愛を貫けばいい。
銃をもって戦うのが愛でないかといったら
それは「愛」だったりもする。
ただ、戦いに出て行く人はたぶんいない。
だから私の戦争作品には「反戦」は出てこない。
その中に愛がある事を語るだけなのです。

こういうことがありました。昔、中学生のときです。
私には小学校から仲良しの女の子がいました。
紀子ちゃんといって重度の障害をもつ女の子です。
彼女は言葉が全く喋れませんでした。
でも私はのりこちゃんが大好きだった。
彼女の笑顔は本物で嘘がなくて優しかったから。
みんなはのりこちゃんを「知恵遅れ」「バカ」といじめました。
意味が分からないのりこちゃんはいつもニコニコしてました。
私はあまり学校に行けなかったけど、
紀子ちゃんと会える日は一緒に遊びました。
家にも遊びに行きました。
お母さんはびっくりして「ありがとう、ありがとうね」
とうつくしい涙を流されました。

中学生になって、美術の授業がありました。
美術の先生はその地域でも有名な「差別解放」の活動家でした。
「差別をなくそう!」と激しく活動する先生は
「特別学級」の生徒にもそれはそれは優しかった。
授業のたびにどこそこに活動に行った、
どこそこで建物に登り、旗を掲げて演説をしてきた、
世の中には理不尽な事がいっぱいあって、
この世に平等という平和をもたらさなければならない。
そうやって熱く私たちに語られました。

ある日、先生は特別学級ののりこちゃんを誰かがなじった事を
とてもとても激怒され、私たちに話しました。
「お前らは人を差別していいのか?
お前達はじぶんを何様だと思っているんだ。みんな同じ人間じゃないか?
弱いものを責める、まるで日本の政治家だ。お前達は最低だ。」
それはそれは激しく。そして言った。
「俺の言うことに意見の在る奴、手をあげろ!」

わたしは手をあげました。
一瞬、教室も先生もしいんとなった。

「なんだ、なにかあるなら言ってみろ」
先生は私をにらみつけて言った。
「先生は差別はいけないって言ってるんですよね?」
「そうだ」
「でも、差別してますよね?」
「俺が?そういう事はしていない」
「してますよ、私たちを。私たちを差別しています」
「お前、何言ってんだ?俺は差別なんかしてないぞ」
「じゃあ、何故、一方的に怒ってるんですか?」
「??」
「どうして、その問題が起きたのか聞かないんですか、って聞いてるんです。」
「問題が起きた理由?それはお前達の心が曲がっているからだ。
俺はその事を考えろって怒ってるんだ」
「じゃあ、先生もただ怒んないでその事を一緒に考えたらどうでしょう?
先生はどうしてそういう風に思ったのか、聞いてみようと思った事がありますか?
何故そういう風に発言するのか、その生徒がいる環境を思った事がありますか?
そういった人間の心の問題だけですか?
わたしは先生は特別学級の人の事ばかり考えていて、
私たちにはこころがないんだと思ってのかと思いました。
私の家の近くには差別の人たちが住んでいますが、
そこのおじちゃんが家に遊びに来て言ってました。
俺たちの関わらないところで解放なんて大声で叫ぶから
もっともっと暮らして行きずらくなっちゃたよ、って。」

先生は黙って教室を出て行きました。
わたしは滅多に学校に行かないくせに嫌な奴でした。
でもどうしても先生の言葉が一部しか見ていないような気がしたのです。
だから、中学一年生ごときにそういわれたら傷つくのだろうなあって
分かっててわざといったんです(性悪^。^;)

卒業式の日、のりこちゃんのお母さんが来ていってくれました。
「うちの子とお友達になってくれてありがとうね。
おばちゃん、とっても嬉しかったわ。
紀子ちゃんね、あなたと遊ぶようになってから
300も言葉分かるようになったのよ。
学校は別々になるけどまた遊びに来てね。
卒業おめでとう。」
そういってまた真珠のような涙を流されました。
私は言葉がどうとかかんがえて付き合ってなかったけど
お母さんにはいろいろな想いがあるのだろうなあと感じました。
するとそれを見ていた例の美術の先生が、
「おう、お前はいつも木下んちに遊びに行くのか?」
と聞いたのです。
「ハイ」
「そうか。。お前、いつも思ってたんだが、制服がみんなのと違うのな。」
「ああ、20年前の制服をもらって着てるから生地や色が違うんです。」
「…お前、学校は辛くなかったか?」
「そう思いますか?」
「…お前、男に生まれたらよかったのになあ。
大人になったら同窓会で酒飲もうなあ。頑張れよ」
そういって笑いました。懐かしい思い出です。

人の反対側にも人がいる。
思いの反対側にも思いがある。
どちらの気持ちも大切にしたいと思っています。
わたしはそうありたいと思っていて、
自分のやれるやり方で進んでいきます。
それしか出来ないから。
みんなで幸せになれたらいいなあーって想いながら。


「アメリカ人はね、HUGとKISSとI LOVE YOU
がないと生きていけない人種なんだ」

私にHUGしながらネイティヴの血を引く友人が言った言葉。
そんなアメリカ人、好きです。
地球上に在るすべての国の人が同じように好きです。

LOVE&PEACE FOREVER

All THE SAME~HUG

2006-10-24 | KOFUKU日記
とても大切な友人のブログで素敵な映像が紹介されています。
皆様にもシェアします。どうぞご覧ください。

「FREE HUG」 

わたしは長い間、自閉症に近い状況で暮らしていました。
音も、何も聞こえない世界でした。
その世界から私に光りを与えてくれた方法は「HUG」でした。
当時、アメリカ人をはじめ、外国人の友人達は
多くの日本人と違い、そのような状況にある私を
決して私を差別しようとせず、共に過ごしてくれました。
けれど、私は目も耳もこころも開けずにいました。
何も音は聞こえず、見えなかった。
けれど、彼らは諦めず私に話しかけ、HUGを繰り返しました。
「Hey,Skippy(当時の私の呼び名です)
We love you always.
You are not alone.
All the same.
God hugs you always.」
そういって毎日、毎日HUGをしてくれました。
男の子も女の子も。みんな。
そして長い時間のたったある日、
HUGされた私の耳に聞こえたのです。
とても優しい声で。
「I LOVE YOU」大好きだよ、って。
だから私のブログやブランドの名前は
“GOD HUG YOU”です。
誰かがあなたを必ず抱きしめています。
愛が必ずあります。そういう意味を込めて。
今日も世界中の人が優しい愛に抱きしめられますように。

どうぞ皆様もこの映像を多くの方にシェアしてください。
アドレスはhttp://www.youtube.com/watch?v=vr3x_RRJdd4です。

また、この映像について多くの方が素敵なコメントをされています。
ぜひこちらをお尋ねください(^^)

「自由を求めて」 

「Rainbow Spirit」